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凝縮された世界と折り畳まれた世界|2Dドットゲームのイメージ喚起力

※この記事は独立した内容のものです
まずは援用抜きにプレイヤー目線で道標を立てていきます
具体例は拡充予定→分量が多くなりそうなため、改めて「ゲーム語り補遺」としてアップ予定

ドット絵(ピクセルアート)が好きです。一粒への拘りが大きく表現を左右する、職人芸の光るマテリアル(画材)としての魅力もさることながら、一群のドット絵が一体となって立ち上げる謎と驚きの迷宮=2Dドットゲームの世界に、私は絶えず魅了されてきました。

その魅力は初期のPCゲームやビデオゲームの、ごく簡素なドット絵にすでに宿っていました。しかしこう言うと、この種の表現やゲームに親しみのない方や、ごく若い世代の方には首を傾げられるかもしれません。たとえば設定上、世界を股にかけて冒険するようなRPG(ファミコン時代のドラクエやFFのような)でも、基本的には真上からの見下ろし視点が主で、プレイ中に遠景(この記事のバナー画像のような)が見えることはほとんどありませんでした。そんな空間的表現をまるでそぎ落とした稚拙な記号の戯れに、一体何を夢見れるのかと思う人もいるでしょう。

しかし私には、そこに不思議と世界の広がりが感じられたのです。下手をすると現代のオープンワールドゲームより広大な空間を冒険しているように感じられていたかもしれません。

郷愁がそう思わせている? かもしれません。あるいは単に、自ら操作できる電子遊戯の、当時の最新最大の表現に、子供の迸る想像力を総動員した結果に過ぎないのかもしれません。

しかし大人になった今また、子供時代には知らなかったレトロゲームや、比較的簡素な2Dドットで作られた近年のゲームをプレイして、私は同じような感覚を味わっています。また古いゲームが度々3Dでリメイクされていますが、リメイクのプレイ後に原作をやるという流れでも、後者に広がりを感じるということがありました(聖剣伝説など)。

奥行きを感じる

より立体的で美麗な表現がありながら、それより粗雑で平面的な表現に広がりを感覚する。それは他でもなく、幼少・少年期にも察せられていたあの関係――映画・アニメよりも挿絵や漫画、挿絵や漫画よりも地図や活字といった順でむしろ制限が取り払われ、想像力の翼が大きく伸び広がっていく、いわば精神と表象の根本的な連関に根差すものでありましょう。

そんなことを考えたとき、私もまたプレイヤーの一人、ノスタルジーばかりではない、ドット表現が秘め得る魔力を、この身に受けた限りにおいて綴り残しておく責務があると、妙な考えが湧いて出てきたのでありました。

そこで複数回にわたり、私なりに2Dドットゲーム特有の、想像力を刺激し賦活する要素をまとめてみたいと思います。ゲーム批評や美学的観点からの分析をはじめ、さんざん方々で擦られてきたテーマだとは思いますが、イメージこそが実在の種である云々といった考えを追究してきた人間として、一風変わった観点が加えられるのではないかと思っています。そして結論を先に申せば、そこにあるイメージ喚起力は、私たちの深奥へ滲み、翻って現実そのものの豊饒さへと繋がる回路を形作っているのと思われるのです。

向こうには何があるんだろう

1.抽象表現が可能にしたスケールとディテール

いにしえのゲームにおいては容量の制約上、細やかな表現はできませんでした。数えられるほどのピクセル、スプライトによる簡素な表現。しかしこれが、物語やテキスト、パッケージや説明書のわずかなイラストとも連携しながら、プレイヤーの想像力を羽ばたかせていました。このことが顕著なのはやはりRPGでしょう。

「アリアハンは海に囲まれた大陸なのだ。しかし海の向こうにはもっと大きな大陸があるという」
「かつてアリアハンは全ての世界を治めていたのじゃ。しかし戦争が起こって多くの人々が死んだ。そして海の向こうに通じる旅の扉を封じ込めたのじゃ」
「この城の西に浮かぶ島をもう見なさったか?あの島にそびえるのがナジミの塔じゃ」
「街の外を歩くとき怪しげな場所には何かあるかも知れぬ。遠くから見るだけでなくその場所まで行くことだな」
「この村の南の森にもナジミの塔に通じる洞窟があるとか」
「東に旅をし、山を越えると小さな泉があるという」

『ドラゴンクエスト3:そして伝説へ』アリアハン地域の住人のセリフ

一見淡々としたドライなテキストが、はるかな未知の世界、壮大な過去の歴史を匂わせ、平面的な表現の裏に多彩な景色があるとほのめかす。こうしたテキストにも触れながら、私たちはゲーム内の世界が「見えている以上のもの」だと確信します

緑のマスは「風の吹き抜ける草原」に、白点ちらつく青マスは「白波立つ海原」に、くすんだ三角形の列は「重畳たる峻厳な山岳」に変換される。丁度地図の等高線や記号がそれら以上のものを示しているように、わずかなドットの組み合わせが、広大で多様な風景の象徴として機能しているのでした。

一方、美麗な3Dゲームでは、こうした拡張や補完は困難になっています。「リアル」であればあるほどに、その世界は目の前に置かれたもので「尽くされている」という感覚を強めるためです。もっとも、映画やアニメ同様、空間的・時間的な彼方を感じさせる描写によって詩的想像力を喚起する力は十分持ち得ますし、新たに代替現実として想像の起点や素材となるといった働きも備えていると思われます。このことは後に改めて触れることにしましょう。

気になる場所がたくさんあるぞ

引き続きRPGに焦点を当てますが、レトロRPGにおいては設定上の規模で昨今のオープンワールドゲームをはるかに凌ぐものが少なくありませんでした。「フィールドマップ」に出れるゲームの大部分は世界の端から端まで(一惑星上の表面ならその地上部分すべてに)プレイヤーキャラないしは「乗り物」を移動させることができ、場合によってはさらに別の世界まで探索することができました。

もっとも、オープンワールドとは違い細部は詰められていません。大陸の端に行こうと離れ小島に上陸しようと、ただキャラクターがマップのその部分に乗っかるだけで何も起きないのが普通でした。

しかしそれでは単なる地図で駒を動かしている感覚であったかといえばそうではありません。「実際に世界を旅している感覚」が巧みに作り出されていたのです。先述したように、地理・地形がゲーム上は少数の「マス目」で構成されていたとしても、要所のマスや一群のマスにはテキストによって風景が託されています。ときには一歩(ひとマスの移動)が転機となって旅の命運を左右することもありました(命を脅かすマスや敵との遭遇)。たった数個のマスが人里と人外魔境を隔て、通行不能なマスの向こうがただならぬ未知の気配を漂わせていることもあります。

地図と同様、地形とキャラクターとはそれぞれあくまで記号表現なのですが、地図記号と異なるのは、各記号が「展開することのできる凝縮体」のように認識される、そして折々実際そのように振る舞うという点です(実際、というのは画面が切り替わって別のマップに入る=そこにあるものが展開されるということがときに生じるということです。意外なところでそれが起こると上の認識をさらに強めます)。

真言の種字と言ったら大げさに過ぎますが、文芸における「言の葉を託された文字」といったところでしょうか。物語を読む人には、一字、一単語、一センテンスが、時に単なる記号を超え象徴のように機能することがあると思いますが、一たび想像力のスイッチが入ると、抽象的なフィールドも似たような働きをするようになるのです。

この際にはランダムエンカウントも重要な要素になります。マップ上に露わではない敵と、それと遭遇することで展開する景色(戦闘時にキャラが置かれる舞台とその背景――背景は真っ黒なこともあるが、その場合も視点はマップと別物)は、まさに省略され「折り畳まれていた空間」そのもの。そしてそれがいつ展開されるかわからないマップを進むのは、まさに未知の領域へ進入する危険な冒険行そのものなのでした。

なお、古いゲームでは往々にしてこのエンカウント率が高かったのですが、これには距離感を演出する効果もあったように思います。他にも少々不親切な設計――鈍足な移動、厳しい制限付きないし皆無なファストトラベルなど――が一般的でありましたが、こうしたものが各地点の遠さを感覚させるのに一役かっていたと思います。

そこまで旅のスケールが大きくない場合にも、遠方の見通しがきかない見下ろし型の視点が画面外の広がりを強く意識させ、現在地が「世界の部分」であるという認識を堅固なものにしていました。仮に現在表示されているのが作られた舞台の最果てだったとしても、その先は「ある」ものと想像されるわけです。丁度ローカルな地図を開いているとき、その端が虚空だとは考えないのと同じように。

「アクションRPG」(聖剣伝説など)や「アクションアドベンチャー」(ゼルダの伝説など)で
採用されている〈画面切り替えスクロール〉もまた、見通しの利かなさで広がりを感じさせる。
上段左:『ゼルダの伝説:神々のトライフォース』山頂からは別レイヤーで動く下界の背景が見え(Parallax Scrolling)垂直方向の奥行き感も高めている。上段右:(同)ピラミッド頂上から別の場所にある(実際に行ける)山岳と塔の描かれた背景が見える。別角度・別様の表現を盛り込むことで世界のリアリティを深化させている。下段:『遺跡島と7つの魔法』スクロール方式に加え、UIの背景に現在地点の写実的なイメージが表示されることで、各地点の「実際」が想像される。
「折り畳まれた空間」が顕著に現れるシミュレーションRPG(Strategy role-playing game)。
上段:『伝説のオウガバトル』各ステージマップはジオラマと小縮尺の空中写真をかけあわせたような趣。自軍/敵軍の拠点や諸都市はRPG同様ほぼ記号化されているが、それらの外にも建物が点在、大都市であれば城壁・堀・街路・家並が記号化された部分と別に描写されており、比較的現実感のあるビジュアルとなっている。都市訪問時に表示される挿絵風のイメージや幕切れ直前に現れる王都の風景(右)等が圧縮された空間を展開し〈虚構内の実際〉が感じられる。下段:『ファイナルファンタジー・タクティクス』地図そのもののフィールド(右)で都市その他の地域を移動。各ステージやイベントの舞台は箱庭のように切り取った形で描写され(左)、範囲外はその場所に合わせた色合いの虚空となっている。スクロール方式同様「その先」を思わせるのに加え、ここに現れているビジュアルもまたデフォルメである(各キャラクターがしゃべる際には台詞窓に肖像が表示される)ことが常に意識させられることによって、あらゆる場面で「より以上のもの」が想像される。                                        

2.神は細部に宿りたまう


抽象表現と言うと何かのっぺりとした記号(道路標識のような)を思い浮かべる人も多いかと思いますが、ドット絵はピクセル単位の配置によって描かれた手作業のアートです。限られた解像度の中で、いかにキャラ・背景をそれらしく表現するか――そうした、細部に浸透した意識によって非常に緻密な印象を与えるものとなっているのが、ドット絵でありましょう。

いわば抽象と細やかさの両立。しかもその細やかな拘りは、あらゆる芸術における優れた細部同様、最終的な仕上がり、つまり全体を念頭に置いた上で生じたものです。というか、制限の中でのドットという画法自体に全体と調和しない執着を許さない側面があるため、自然と「響きあう全体」が作り出されていると言った方がよいかもしれません。

前節に説いた「想像の余白」は、この緻密且つ調和した全体があってこそ生まれたもの、そのように思います。この点はより詳しく追究したいと思っていますが、あれこれ理論的なものを動員する必要も出てきそうなので、恐らく最重要ポイントながら、ここではさしあたり簡単な指摘にとどめておきましょう。


3.物寂しさの魔力


これはプレイ環境にも大きく左右される話になりますが、2D全盛期の技術的制約の中では、プレイ体験は全体として物寂しい印象になりがちでした。視覚にはもちろん、聴覚にも非常に限定的なやり方でしか訴えられなかったためです。しかしこれがドット絵のビジュアルとうまく噛み合い、寂漠とした瞑想空間を立ち上げるという、思わぬ効果を生み出していたと思います。

初期のPC/家庭用ゲームのBGMは同時発音数が少なく、メロディのループも短い「ミニマル」なものでした。名曲と名高いドラクエ1のフィールド曲「広野を行く」も原曲はなんと約17秒ループ。ドラクエ2「遥かなる旅路」は約30秒、ドラクエ3「冒険の旅」は35秒でループしています(それでいて壮大さを感じさせると定評があるのは、天才すぎやまこういちのなせる業でしょう)。

モノラルサウンドの短いフレーズが延々ループすると気が滅入るケースも少なくないとは思いますが、シンプルで予測可能な音の繰り返しというのは基本、いわゆる「パターン認識」を好む脳にとって心地よいもの。これが一人留守を任された家で、くたびれたテレビから流れてきた日には…

…………オ……オ……………

マントラの如き効果。

現代の多くの、映画ばりのダイナミックな構図や動きに壮麗なオーケストラを重ねていくようなゲームとは違い、レトロゲームではドット曼荼羅を前に8bit16bit等の真言ループを聴くことになるのです。それも当時の機器ではあれば決してクリアではない、くぐもったサウンド。

そこに生じるのは静かな没入感。

また作動音・ロード音のないカセットROMでは、テレビから漏れるノイズを残してまったくの静寂が訪れることも珍しくありませんでした(一方、ディスクシステムやPCなどではカタカタ・カチャカチャとシーク音が鳴りますが、これはこれで無音を際立たせるスパイスになっていた印象)。先述のドラクエ3など、タイトル画面からして無音。しかも黒字に白のドットフォントが表示されるばかり(下図)という、まさに冒険の前の静けさ、幕開け直前のしじまを体感させてくれるものでした。

データ消失に怯えて耳をふさいでいた子供も多かっただろうタイトル画面。
(データが消えると、わざと耳障りに作られたという低音のジングルが流れる)
ブラウン管テレビでのプレイ時にはかすかに「ビー」という低い高周波?が聴こえていた。
プレイ環境が物寂しければそれすらも際立つ。

もちろん、現在のゲームであれ、映画やアニメであれ、無音のシーンなどありふれたものです。しかし大抵、そういう場面でも何かしら環境音や意図的なノイズが重ねられるのが普通です。レトロゲームにおいては完全に音無し。聴こえるのはセリフ送りの音と残響だけ――当時のゲーマーならそんなシーンをいくつか記憶しているでしょう。スウィートホーム……ファミコン探偵クラブ……有名どころではドラクエ4、突然人が消えた城の中を歩く場面――

…………(動いてるけど足音一つせず)
……ブゥブゥ(壁にぶつかった音)
…………
ザッザッザッザッ(階段を上る音)
……………
ピッ (メニュー開き音)
…………
……ピッ ……ピッ……(コマンド決定音)
コーッ コーッ(文字送り音)
…………
…………
…………

ア…アワワ……
(画面が疑似3Dになっちゃってるけど)

この深い静けさはタルコフスキーの映画にも匹敵します(言い過ぎか?)。

足音もせず、キャラクターもしゃべらず(喋ったとしても電子的な文字送り音)、一切の環境音もない沈黙のうちに探索が進んだり事態が展開したりなどということを不自然の感が先に立つことなく経験できるのは、ドットゲームくらいのものではないでしょうか(あるいは静止画、ローポリゴンなんかでも噛み合いそうですが、別種の怖さが前面に出そうな気配)。


ところで、人を虚構世界に没入させる方法としては語りの視点への同化や主人公に対する感情移入を誘うことが真っ先に挙げられるかと思いますが、この際、ことゲームにおいて重要なのは、饒舌に過ぎないことでしょう。とりわけ主人公の個性が常に強く発揮され、一つの確立したキャラクターであることを崩さない場合、プレイヤーはそれを操りながらも、基本的には「鑑賞者」の態度を維持することになります。

いにしえのRPGは、TRPG(プレイヤーが一定規則の下で各々キャラクターを演じつつ、共同で物語を作り上げる盤上の対話型ロール・プレイング・ゲーム)の要素が強く継承されたゲーム(ウィザードリィなど)に限らず、操作キャラ=プレイヤーないしプレイヤーが憑依しているような存在であることが主流だったため、まずもって主人公は喋らない(文字としても発言が表示されない)ものでした。同行する仲間も、ほとんどの場面では操作キャラに同化して喋ることがありません。要所でメッセージを発しても主人公とは会話できないため(はい/いいえで応答する程度)長々語ることはなく、もちろんボイスなどついておりませんでした。

つまり、私たちに抽象的に伝えられている以上の「実際」は、想像するしかなかったのです。

このことがプレイヤーの積極的な物語への参加=虚構世界への没入を促していたことは間違いないでしょう。その後、主人公に強い個性が与えられ、仲間と頻繁に会話するような作品が増えてきてからも、さらに言えば部分的にボイスが入るようになってからも、想像の余地はある程度維持されていたように思います。

しかし映画的・アニメ的なムービーシーン(専ら鑑賞するだけの部分)とプレイヤーが操作するゲームの本体部分がシームレスに思われるような、あるいは完全にシームレスである構成・ビジュアルが登場して状況は一変。喋らないことが不自然となり、フルボイスまで一般化して、壮大なストーリーを持つゲームは娯楽映画のように楽しむものになっていきます。プレイヤーはその名に反し、専ら鑑賞者の位置で世界を受け止めるようになりました。

「鑑賞者であり且つ世界そのものにも入り込む」というパターンもあるようですが…
妻は小説を読むとこうなるとのこと(視点だけでなく半ば自分も入り込んでいる)

4.リアリティの罠

映画についての批評は製作者の考え、俳優の演技、作り込みや演出の巧拙といったものに焦点を当てますが、今や批評家ならずともそうした目線で作品を楽しむのが一般的。それが一億総評論家時代(昨今を表す言葉のようでいて古い水木作品でもねずみ男が呟いていた記憶。総白痴化のもじりか、実際言われていたのか)ならではのことかはともかく、鑑賞中からそうしたものを意識してしまう人が多いはずです。

大抵メディアを通じて作り手の顔、演じ手の顔が既知なものですから無理もありません。役者自身に関する知識を登場人物に重ねず鑑賞できる人がどれだけいるでしょうか(そうしたことを嫌って無名の俳優を起用したという映画はいくつもありますね)。とりわけ娯楽作品においては有名俳優を多数配した上に、あらゆる絵や音、演技が、特定の感情でそのシーンを受容するよう迫ってきます。たとえ制作サイドの素性が明らかでなくとも、観客は折々その意図を測り、あるいは透かし見てしまう。よほど純朴な幼い子供でもなければ(あるいは良くも悪くもその感性のまま成長した人でなければ)示されたものの向こうに入り込むことはできないのではないかと思います。

それでもどっぷり入り込めたという場合、周辺情報がわずかなことで鑑賞者の透かし見れるものが少なかったか、透かし見てしまう傾向を抑え込むほど作り手が作品世界そのものを押し出すのに成功していたかのどちらかでしょう。私の最近の経験では『DUNE』が挙げられますが、これは世間で言われているように極めて作り込み・演出が素晴らしいのに加えて、私自身が昨今の映画に明るくなく、洋画である(役者をまるで知らないし、知っていても遠い世界の住人という印象が強い――海外とりわけ英語圏のものに取り組むことが多いくせに!)という事情も影響していると思います。

ゲームが映画的な表現にシフトしたとき、プレイヤーを虚構世界に没入させるために必要なことは、まさに映画・アニメといった映像作品と共通のものになりました。和製ゲームの場合、かつてはあくまで解釈の一つといったサブ的な位置付けで付随していた漫画的・アニメ的なビジュアルが主役に躍り出、キャラクターが織りなす群像劇の趣を濃くしたものが徐々に一大勢力をなすようになっていきましたが(その中には各場面に広範な気分や印象を受け止める余白があったレトロゲームの後継作もあり、このあたりでしばしば往年のゲーマーの評価を二分しています)、これが高度なCGや声優文化といいったものに結びついたとき、映画やアニメ以上にも増して膨大な情報が盛り込まれることになり、いよいよ想像力の介入する余地は極めて狭いものとなってしまいました(上の絵に示したように、それをものともせず乗り越えていく強靭な想像力も存在してはいますが)。

また美麗な3Dで展開されるそうした作品において、世界の空白部分は単純に「作られていない」という印象を残しがちです。リアリティある世界を提供せんと力を尽くして造成された舞台で、移動を不自然に遮られたり、ふいにはっきりとした境界(見せたい部分と見せてはいけない部分の境)が見えてしまったりすると、反動のように強烈なハリボテ感で視界が満たされることになります。その感覚が、作りたくても作れなかったのか?といった制作サイドの事情を慮るところまで行き着くことも少なくありません。

『ファイナルファンタジーXV』:上段はその前日譚となる映画『KINGSGLAIVE』のワンシーン。都市の遠景や街路の風景は大作映画をも上回る現実感や奥行き感がある。下段左はゲームで歩き回れる部分。解像度・空気感の違いもあって、実際プレイすると上段の都市がゲーム内空間の延長上にあるとは想像しにくい(むしろ、この静止画では想像できる)。また都市に通じる道は塞がれていて、それが「作られていない」「存在しない」という印象を強く与える。後に下段右、都市の一区画へ侵入できるコンテンツが追加されたが、やはり解像度は段違いでジオラマ感が強い。それでいて抽象的でもないために「実際はこれ以上のもの」という認識も与えにくくなっている。    
『STAR OCEAN THE SECOND STORY R』:余白を保った奥行きあるビジュアル。3Dと2Dの良さを巧みに融合させた革新的グラフィックだが、饒舌がゆえ、ストーリー面(時間的側面)の余白に
は欠け、ビジュアルに比した物語の軽やかさ・素朴さが目立ってしまっている。        
さしてリアルじゃない3Dの場合は?これはこれで「そういうもの」として存在する世界が与えられているという印象になりやすい。つまりこの見た目が作品世界の実際だと捉えられてしまいがち。しかし工夫次第で「それ以上のもの」を感じさせることは可能(追記予定。たとえば『ファイナルファンタジータクティクス』や『ゼノギアス』のような作品)              

もっとも、リアル志向の作品ならではの想像力への寄与というものはもちろんあるはずです。冒頭で想像の起点や素材になると書いたのがそれで、それこそ現実の経験により近いイメージ喚起力を発揮する可能性が大いにあると思います。

ここに生じるのは作品世界に関わる想像ではなく、作品から漂い出て行く想像というべきもの。簡素なドット絵の場合、掬い上げられ増幅される記憶の側により多く含まれていたイメージの流れです。この点もまた回を改めて書こうと思いますが、そうしたイメージの流れは今日、次なる創作に結実せずとも、断片やネット美学のような形で姿を現すことがあります。

断片というのはたとえば、YouTubeに多数アップロードされている、オープンワールドゲームの風景に範を取った絵、あるいは風景そのものを環境映像のように流している動画のようなものです。これはゲーム内で任意に味わうことのできる穏やかな時間や寂漠とした時間を引き伸ばしたもの。こうした時間を経験できる場所は、オープンワールドなら大体のゲームで見つけることができます。私たちはこの断片に各々の空想を、生活史を、思想を乗せて、新しい創造へと歩みを進めていくことができるのです(でかく出たな)。


5.幻想の破れ

前節に記したのは、ゲームそのものが当の世界からプレイヤーを引き離し、現実へ引き戻してしまうという事態でしたが、昨今ではまた別の角度から幻想が破られることがあります。というより、ファンタジーに浸ることを許さない環境が敷かれてしまっていると言った方がいいかもしれません。

ここで言いたいのは他でもない、ネットワークの存在です。WEBであれSNSであれ、YouTubeであれその他数多の動画プラットフォームであれ、ひとたび人気になって人が集まれば、作品世界のリアリティは現実の中でとめどなく希釈されていく。レトロゲーム時代なら常にお喋りな友達や家族が隣にいるような状態です。

確かにげえむとは本来こういうものではあるが…

感想・感情の投げ合い、実況動画・実況ライブ、さらには一種の共同二次創作。最後のものは少々分かりにくいですが、たとえば後に詳しく取り上げたいと思っている『ゆめにっき』(レトロなドットスタイルで作られた、夢の世界をひたすらに歩き回る個人製作のPCゲーム)に顕著です。この作品では登場する人物・事物・生物について終始ビジュアルを除く一切の情報が与えられないにもかかわらず、ネットユーザーによる名付け・意味付け・関係づけが拡散しています。このことによって現在ではまったく未知というレベルの初見でない限り、そこに示されるがままの世界を堪能しにくくなっているのです。いわばネットワークを通じた語り合いによって解釈・想像の固定化が起こってしまっている。

踏み固められたものはそれはそれで魅力的なものではあります。しかしそこに解釈が収斂し、想像の余地が縮減されてしまうのはあまりに惜しい。実際、それを嘆く声も方々で目にすることができます(このあたりのことは「バックルーム」なる創作都市伝説をめぐる状況とも通底するものがあります)。


はてさて、一体私は何を求め、何の喪失を憂いているのか。そろそろまとめに入るべきでしょう。一言で言うならば、内面世界との対話の機会です。あるいはそれを通じて再び現実と繋がり、新たなイメージの流れを持ち来たす回路です。文学、絵画、工芸、音楽、そしてなにより自然物――そうしたものと一人親しむ時間に並ぶ、「お喋り文化圏」(テンプル・グランディン『ビジュアル・シンカーの脳』より語を拝借)では得難い経験の、ひとつの形をゲームに見ているのです

いよいよ話が大きくなりますが、何かと「対話」が叫ばれる昨今、足りていないのは実のところ「自然」そして「自己」との対話であると思います。あらゆる芸術、さらに言えばあらゆる娯楽はそうした方向へ向かう回路を秘めているものと思いますが、とかく言葉が、饒舌がもてはやされる社会では埋没させられがちです(とはいえこの記事も饒舌の側なのですが)。私は様々な角度でそれに異議を申し立てたい。いや、正確には社会的/社交的なあり方とは別種の方法による創造の強度をアピールしたいと思っているのです。

(何言ってんだこのオバキューみてぇな鳥は…)

少々速足に過ぎたかもしれませんが、ひとまずは方向性を示せたので、次回はより趣味的に、具体的なゲームを語ってみようと思います。その後で少しずつ、世の中のゲーム論などを取り上げていければと思っています。


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