【書評】羅馬書の研究/内村鑑三 vol.3
――人類の罪をめぐって:ローマ書1章18〜32節
ローマ書の第一章を読むとき、私たちはいきなり「罪」といふ岩盤に突き落とされる。
だが、それは福音へ至るために避けては通れない深みである。
内村鑑三は、語る。
「美はしき花は黒き土より咲き出づる外はない」 と。
罪の現実といふ黒土を見つめなければ、恵みといふ花は決して咲かぬ。
そしてかうも言ふ。
「罪を責めずして先ず恩恵を説くは、土台なきに家屋を建つることである」と。
罪を語ることは、責めることではなく、救ひの基礎を据へることなのだ。
本稿では、ローマ書1章18節から32節までを、内村鑑三の言葉とともに読み解く。
そこには、現代の私たちがそのまま映り込む鏡のやうな、普遍的「人類の罪」の肖像がある。
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1. 神の怒りと「不義」の土台(1章18節)
パウロはまず、神の怒りが天から啓示されると語る。
それは「不義と不正とによって真理を阻む人々」の上に現れる怒りだ。
内村は、この「不義」を人類罪悪の総称として捉へる。
罪の総称──総じて『不義』である
この言葉は単なる「道徳的な悪」とは違ふ。
ここでいふ「不義」は、神との関係がねじれたままであるといふ、人間存在そのものの歪みを指す。
私たちは、何か大きな犯罪を犯さずとも、心の底に自分でも制御できない暗がりを抱へてゐる。
その暗がりを直視しない限り、恵みも救ひも自分のものにならないのだ。
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2. 三つの乱れ――悟性・情性・意志の堕落(19〜32節)
パウロが列挙する罪は膨大だが、内村鑑三はこれを明確に三つの層に整理する。
① 悟性の乱れ ― 偶像崇拝
神を神と認めながら感謝せず、
被造物を創造主よりも拝むやうになった――。
悟性が乱れると、真理から遠ざかり、人生の中心に置くべきものがズレていく。
本来「目的」であるはずの神を捨て、「手段」を神としてしまふ。
地位、名声、金、恋愛、フォロワー数。
「偶像崇拝」は古代だけの話ではない。
② 情性の乱れ ― 汚穢
悟性が歪めば、情の領域も乱れていく。
節制を失ひ、欲望のままに行動し、
本来の神が与へた秩序がゆがめられる。
情性の乱れは「弱さ」であると同時に、
しばしば「正当化」される。
だからこそ、罪は見えにくくなる。
③ 意志の乱れ ― 不義
そして最後に意志の領域が崩れ落ちる。
善をなす力を失ひ、悪へ傾く。
自分で止めたくても止められない。
この意志の崩壊こそが、パウロが「不義」と呼ぶ根源的な問題である。
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3. 罪の総体――三つのギリシア語が示す深層
パウロが列挙する罪の語彙の中で、内村は特に三つの言葉に注目する。
① kakia(カキア)――暴很(ぼうこん)
意味:非常に凶悪な、悪意(maliciousness)
「匿」の字は“隠れる”の意。
つまり表に見せぬ“下心”としての悪。
これは、暴力や残虐のような露骨な罪だけでなく、人の心に潜む「密かな悪意」をも指す。
内向きに潜む憎悪、妬み、冷たい敵意――。
普段は隠れてゐるが、機会を得て噴き出す。
② ponēria(ポネーリア)――悪慝(あくとく)
意味:邪悪、悪徳、悪行(wickedness)
単発の過ちではなく、
性質としての「悪」が人の内に形成される状態。
生き方そのものが「曲がっていく」罪である。
③ pleonexia(プレオネキシア)――貪婪(どんらん)
意味:強欲、貪欲、妬み深さ(covetousness)
もっと欲しい。
もっと持ちたい。
もっと優位に立ちたい。
その止まらぬ欲望が、他人を排除し、人間関係を破壊する。
パウロは「欲の罪」を軽い罪とは決して扱はない。
それは社会を蝕む非常に深刻な罪だからだ。
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4. 嫉妬・讒誣・傲慢――関係を壊す罪の連鎖
内村鑑三は、さらに人間関係を破壊する罪を三分類で説明する。
どれも現代にも通用しすぎるほど通用する。
◆ 嫉妬の罪
• 妬忌(とき):嫉妬し恨む
• 兇殺:殺意
• 争闘:不和・対立
• 詭譎(きけつ):欺き
• 刻薄:残酷・薄情
嫉妬が「軽い感情」などと言へるだらうか。
妬みは他者を否定し、自分を傷つけ、
やがて争ひや暴力にまでつながる。
SNS時代に最も蔓延する罪である。
◆ 讒誣(ざんぷ)の罪
• 讒害:陰口
• 毀謗(ざんぼう):そしり
• 怨神:神に対する怨み・反逆
「讒」はそしる、「誣」は偽りで人を陥れる。
現代で言えば、ネット中傷や虚偽の拡散がこれに当たる。
「ありもしないことを言って他人を非難すること」。
これを神の前に罪と言はずして何と言ふべきか。
◆ 傲慢の罪
• 狎侮(こうぶ):侮る
• 傲慢:高ぶる
• 矜夸(きょうか):自惚れる
• 譏詐(ぎさ):偽る、欺く
傲慢は、神ではなく「自分」を中心に置く罪である。
傲慢な人は、自分を神格化する。
その結果、他人を見下し、欺き、破壊する。
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5. 不実の罪――関係を裏切る五つの不(ふ)
パウロは最後に、五つの「不」を列挙する。
• 不孝
• 不法
• 不信
• 不情
• 不慈
これらは人間関係の基礎を壊す罪である。
誠実さを失ひ、責任を捨て、約束を軽んじ、
情けを失ひ、思ひやりを忘れる。
高度情報化社会、効率化、個人主義。
これらによって私たちは便利になったが、
同時に「不実」は加速してゐる。
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6. パウロが罪を語る理由――未来から現在を見る信仰
なぜパウロは、これほど徹底して「罪」を語るのか。それは、人間を責めたいからではない。
罪の現実を知らなければ、救ひの光がどれほど明るいかも分からないからだ。
富岡幸一郎は言ふ。
「信仰とは、現在から未来を見るのではなく、救はれるといふ確信の将来から現在を見ること」 だと。
将来の視点から、現在の私を照らす。
その光があってこそ、私は自分の罪の深さを認められる。
罪を直視できるのは、希望があるからだ。
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7. 最後に:黒き土をこそ見よ、そのとき花は咲く
ローマ書1章は、人類の暗黒史ではない。
これは「救ひの入口」である。
罪を語るのは、責めるためではなく、救ふため。
内村鑑三の言葉をもう一度思ひ返す。
美はしき花は黒き土より咲き出づる外はない。
罪という黒土を直視することは、
恵みの花が咲く前提であり、準備であり、入口である。
人類の罪の深さを知るとき、
救いの深さ、恵みの広さが初めて見えてくる。
パウロが罪をこれほどまでに描いた理由は、
まさにそこにある。
