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皇帝は教皇にひざまずき、国王は教皇を切り捨てた――カノッサの屈辱からイギリス国教会まで

おはようございます。長坂総研です。

今回で、キリスト教編は終了です。

ローマ帝国による国教化。
パウロによる布教。
もう一度、国教化を深く掘り下げる。
キリスト教の分裂。
そして、分裂の続き。

こんな流れで見てきました。

特に、ローマ帝国による国教化にはかなりこだわりました。

ここが、歴史の大きな分岐点ではないでしょうか。

キリスト教がローマ帝国の国教にならなければ、一神教が全人類の約半分に信仰されている現在のような状態にはならなかったでしょうし、世界史の中心的な存在にもならなかったでしょう。

それほど宗教は、政治や歴史に大きな影響を与えています。


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中世ヨーロッパでは、国王や皇帝の上に教皇が立つのか、それとも王国のことは君主が決めるのかという争いが続いた。

カノッサの屈辱では、皇帝が教皇に赦しを求めた。しかし約四百五十年後、イングランド王は教皇の決定を拒み、自ら国内教会の頂点に立った。

これは信仰だけの争いではない。人事、土地、財産、そして最後に誰が決めるのかをめぐる制度の歴史である。

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司教を決める者は、国を動かす

西ローマ帝国の滅亡後、西ヨーロッパでは教会が大きな力を持つようになった。

教会は信仰を扱うだけではない。土地を持ち、税や寄付を集め、人を教育し、文字による記録を管理していた。司教や修道院長は、宗教者であると同時に有力な領主でもあった。

司教が治める土地からは収入が上がり、必要になれば兵も出る。国王や皇帝から見れば、司教は祈りを捧げるだけの人ではなく、王国を支える領主の一人だった。

そこで問題になったのが、司教を誰が任命するのかである。

国王や皇帝にとって、重要な土地と人員を管理する司教を自分で選ぶのは当然だった。一方、教皇側から見れば、聖職者を世俗の権力者が任命すれば、教会が国王の部下になってしまう。

表面上は宗教上の人事問題だが、実際には王国の重要人物を誰が決めるのかという権力争いだった。

カノッサで皇帝はなぜひざまずいたのか

十一世紀、ローマ教皇グレゴリウス七世は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世が司教を任命することを認めなかった。

ハインリヒ四世は教皇の廃位を求め、教皇は皇帝を破門した。

破門は、単に教会へ入れなくなる処分ではない。キリスト教社会の支配者としての正統性そのものが傷つく。臣下たちも、破門された皇帝への忠誠を守る必要はないと主張できた。

国内の諸侯が反抗する中、ハインリヒ四世は一〇七七年、北イタリアのカノッサ城を訪れ、教皇に赦しを求めた。これが「カノッサの屈辱」である。

この場面だけを見ると、教皇が皇帝に勝ったように見える。

しかし、争いは終わらなかった。破門を解かれたハインリヒ四世は勢力を立て直し、対立教皇を擁立してローマへ進軍した。グレゴリウス七世はノルマン人の救援を受けたものの、最終的にはローマを離れ、亡命先で亡くなった。

カノッサは、教皇権の完全勝利ではない。

教皇は皇帝の正統性を傷つけられたが、軍事力で皇帝を屈服させることはできなかった。皇帝も教皇をローマから追い出せたが、その宗教的権威を消すことはできなかった。

どちらも、相手を完全には倒せなかったのである。

ただし、グレゴリウス七世が進めた教会改革は消えず、その後の教皇権強化へつながっていった。

分けても、切り離せない

聖職者の任命をめぐる争いは、その後も続いた。

一一二二年のヴォルムス協約では、聖職者としての地位を与える権限と、土地や世俗的権利を与える権限を分けることで妥協が成立した。

教皇側が聖職者としての地位を認め、皇帝側が土地と世俗的権利を与える。

一見すると役割分担である。しかし、司教は聖職者であると同時に、税を集めて土地を治める領主でもある。宗教上の人事と政治上の人事を、きれいに分けることはできなかった。

中世ヨーロッパは、教皇と国王が同じ社会を別々の根拠で支配する構造を抱え続けた。

どちらが最終決定者なのかが曖昧だったからこそ、争いは何度も繰り返されたのである。

国王が教皇の決定を拒否した

それから約四百五十年後、イングランドで大きな変化が起きる。

国王ヘンリー八世は、王妃キャサリンとの結婚を無効とし、アン・ブーリンと再婚しようとした。しかし、ローマ教皇クレメンス七世は結婚の無効を認めなかった。

教会法上の問題に加え、キャサリンが神聖ローマ皇帝カール五世の叔母だったことも、教皇の判断を難しくしていた。当時の教皇は、カール五世の軍事的、政治的影響を無視できる立場ではなかった。

世継ぎとなる男子を求めていたヘンリー八世にとって、これは家庭内の問題ではない。王朝の存続に関わる政治問題だった。

そこでヘンリー八世は、教皇を説得し続けるのではなく、教皇の決定がイングランド国内へ及ぶ仕組みそのものを壊した。

一五三四年の国王至上法によって、国王はイングランド教会の地上における最高の首長とされた。イングランドの教会は、ローマ教皇の権威から切り離されたのである。

カノッサでは、皇帝が教皇に破門を解いてもらうためにひざまずいた。

イングランドでは、国王が教皇の判断そのものを国内で無効にした。

ヨーロッパ全体で一斉に立場が逆転したわけではない。それでもイングランドでは、王権と教皇権の関係が、カノッサの時代とは決定的に変わっていた。

最初からプロテスタントだったのか

ヘンリー八世は、初めからプロテスタントの教義に共感していたわけではない。

むしろ若い頃にはルターを批判し、教皇から「信仰の擁護者」という称号を与えられていた。

彼が最初に拒否したのは、カトリックの信仰そのものより、ローマ教皇がイングランド王の決定を止めることだった。

そのため、イギリス国教会の成立を、単純にルターの宗教改革と同じものとして見ることはできない。

ルターは、教会の教義と救済の仕組みに異議を唱えた。ヘンリー八世は、イングランド国内の最終決定に教皇が介入する仕組みを拒んだのである。

ローマと分離した後、修道院は解散され、その土地と財産は王権の管理下へ移された。教皇の権威を取り除くことは、教会が持っていた土地、財産、人事権を王権へ取り込むことでもあった。

その後、イングランドの宗教制度は王の交代によって揺れ動き、最終的にはエリザベス一世の時代に、国王を頂点とする独自の国教会制度が整えられていった。

宗教改革は、王権の独立でもあった

カノッサからイギリス国教会までの約四百五十年間に、教皇権が一直線に弱まり、王権が一直線に強くなったわけではない。

教皇と皇帝、国王、諸侯は、地域や時代ごとに勝敗を繰り返している。

それでも、王権の行政、軍事、徴税能力が強くなるにつれ、国王は教皇による国内への介入を負担と感じるようになった。

誰を王妃とするのか。誰を司教にするのか。国内の土地と財産を誰が管理するのか。

その最終決定を、国外にいる教皇へ委ね続ける必要があるのか。

ヘンリー八世の答えは明確だった。

イングランドのことは、イングランド王が決める。

キリスト教の分裂は、教義の違いだけで起きたのではない。信仰を管理する権力と王国を管理する権力が、同じ社会の最終決定権を奪い合った結果でもある。

宗教が政治から消えたのではない。

イングランドでは、教皇が握っていた決定権を、国王が自分の手に移したのである。

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