「大丈夫」という言葉は、誰が返済するのか――政府債務を、言葉=負債・行動=信用で読む
こんにちは、長坂総研です。
「国民の金融資産があるから、日本の借金は大丈夫」
この言葉を聞くたびに、わたくしは引っかかります。
いや、もう少し正直に言えば、気持ち悪い。
なぜか。
この言葉は、説明しているようで、肝心なものを消しているからです。
国民には金融資産がある。
政府には借金がある。
でも、国民の金融資産の方が大きい。
だから、日本はまだ大丈夫。
一見すると、理屈は通っているように見えます。
しかし、そこで聞きたくなる。
その「国民」とは、誰のことですか。
今月の家賃を気にしている人も、そこに入っていますか。
物価が上がって、買い物かごの商品を一つ戻した人も、そこに入っていますか。
老後の不安を抱えながら、わずかな預金を崩している人も、同じ袋に入っていますか。
「国民の金融資産」と言った瞬間、個人の顔は消えます。
富裕層の金融資産も、年金生活者の貯金も、現役世代のわずかな預金も、保険も、投資信託も、年金準備金も、ひとまとめにされる。
そして、その大きな袋を見せながら、こう言われる。
「大丈夫です」
なにが大丈夫なのか。
政府が大丈夫なのか。
国債市場が大丈夫なのか。
金融機関が大丈夫なのか。
それとも、生活者が大丈夫なのか。
ここをごまかしたまま「大丈夫」と言うから、この言葉は気持ち悪いのです。
そして、この違和感の根は、財政の数字だけではありません。
もっと根本にあるのは、言葉と行動の問題です。
「大丈夫」という言葉は、信用ではありません。
それは、まだ返済されていない負債です。
言葉は、信用ではない
まず、ここから考えた方がよいと思います。
言葉は、信用ではありません。
言葉は、負債です。
「やります」
「守ります」
「支えます」
「責任を取ります」
「大丈夫です」
こうした言葉は、発された瞬間には、まだ信用ではありません。
それは、未来に対する約束です。
つまり、負債です。
その言葉が信用に変わるのは、行動によって履行されたときです。
約束した。
実行した。
結果が出た。
相手が確認した。
そこで初めて、言葉は信用になる。
逆に、言葉だけが発され、行動が伴わなければ、その言葉は信用にはなりません。
未償却の負債として残ります。
政治でも、企業でも、外交でも、個人でも同じです。
「責任を持つ」と言っただけでは、信用ではない。
責任を取る行動があって、初めて信用になる。
「国民生活を守る」と言っただけでは、信用ではない。
生活者が実際に守られて、初めて信用になる。
「財政は大丈夫」と言っただけでは、信用ではない。
その財政運営が、社会の制度を支え、将来の選択肢を増やし、生活者の足元を壊さなかったとき、初めて信用になる。
だから、政府債務を考えるとき、借金の総額だけを見ても足りません。
「大丈夫」という言葉だけを聞いても足りません。
その言葉を、誰が、どの行動で返済するのか。
ここを見なければならない。
政府の借金は、家計の借金ではない
ここで、雑な財政危機論には乗りません。
政府債務を、家計の借金と同じように語るのは間違いです。
政府には徴税権があります。
日本国債は基本的に円建てです。
日銀という中央銀行もあります。
企業や個人の借金と、政府の負債を同列に並べて、「日本はもう破産する」と言うのは粗い。
そこは、きちんと分けなければなりません。
ただし。
政府は家計ではない。
だから大丈夫。
ここで終わるのも、また粗い。
政府が破綻しにくいということと、生活者が削られないということは、同じではありません。
国家は、税を取ることができます。
社会保険料を変えることができます。
控除を変えることができます。
インフレによって、実質的な負担を生活者側に移すこともできます。
つまり、国家は家計のようには壊れにくい。
そのかわり、負担の形を変えて、生活者側へ降ろすことができる。
ここを見ないまま「政府は家計と違う」と言っても、それは半分の説明です。
そして半分の説明は、ときどき説明ではなく、鎮静剤になります。
「心配しなくていい」
「破綻しない」
「国民の金融資産がある」
「自国通貨建てだから大丈夫」
これらの言葉は、それぞれ一部の事実を含んでいるでしょう。
しかし、その言葉が生活者の負担を見えなくするなら、信用ではなく負債です。
社会は、負債から動き出す
財政を考えるとき、多くの場合、順番を逆に見ています。
税金がある。
だから政府が支出できる。
売上がある。
だから企業が投資できる。
もちろん、会計上はそう見える場面もあります。
しかし、現実の社会の動きとして見ると、かなりの部分で順番は逆です。
まず、負債があります。
国家は、インフラを作るとき、先に民間に対して支払い義務を作ります。
道路を作る。
港を整備する。
学校を建てる。
防衛装備を調達する。
医療や介護の制度を維持する。
その時点で、国家は民間に対して負債を作ります。
その負債によって、民間企業が動く。
人を雇う。
資材を買う。
賃金を払う。
地域にお金が回る。
インフラが完成する。
そして、その後に税収が発生する。
つまり国家財政は、
負債を作る。
民間が動く。
所得が発生する。
税で一部を回収する。
この流れで見た方が分かりやすい。
企業も同じです。
企業は、最初から売上を持っているわけではありません。
まず資金を調達する。
金融機関から借りる。
出資を受ける。
仕入れをする。
設備を買う。
人を雇う。
商品を作る。
そのあとで、商品が売れて、ようやくお金が入ってくる。
国家財政も企業会計も、最初にあるのは資産ではありません。
最初にあるのは、負債です。
負債によって行動が生まれ、行動によって信用が積まれ、最後に税収や売上として回収される。
ここを見ないと、財政論は順番を間違えます。
必要なのは、借金がないことではない
国家も企業も、問うべきなのは「借金があるかどうか」ではありません。
必要なのは、信用があるかどうかです。
負債は、悪ではありません。
負債は、行動を起こすための起点です。
国家なら、国債を発行し、インフラを作り、民間に仕事を出し、賃金を発生させる。
企業なら、資金を調達し、人を雇い、設備を入れ、商品を作る。
その行動が、社会にとって意味のある成果を生めば、信用が積み上がる。
信用が積み上がれば、次の負債を発行できる。
流れはこうです。
負債。
行動。
信用。
次の負債。
この循環が回っているかどうか。
ここが重要です。
借金があるから危ないのではありません。
借金をしても、信用が積み上がらないから危ないのです。
国家が国債を発行しても、その支出がインフラ、教育、防災、研究開発、医療、エネルギー、安全保障など、社会の信用を支えるものにつながっているなら、その負債は未来の信用を積む可能性があります。
逆に、説明不能な支出、制度改革の先送り、負担と受益のごまかし、短期的な人気取りに使われるなら、その負債は信用を食います。
企業も同じです。
借入をして、人を雇い、設備を入れ、商品を作り、顧客に価値を届ける。
その行動によって信用が積み上がるなら、借入は経営を前に進める力になります。
逆に、借入をしても商品が売れない。
顧客から信用されない。
従業員が疲弊する。
取引先への支払いが遅れる。
そうなれば、その負債は信用を積むどころか、信用を削ります。
だから、本当に見るべきなのは負債の有無ではありません。
その負債が、行動を生んだのか。
その行動が、信用を積んだのか。
その信用によって、次の負債を発行できる状態になったのか。
ここです。
この視点で見ると、「無借金経営」という言葉も少し違って見えます。
無借金経営は、たしかに安全に見えます。
返済負担がない。
金利上昇にも強い。
資金繰りの不安も少ない。
しかし、無借金であること自体を美徳にしすぎると、経営の本質を見失います。
企業とは本来、信用を使って資金を調達し、その資金で行動し、商品やサービスを作り、売上で回収し、さらに信用を積み上げる存在です。
ならば、無借金経営とは、ある意味では、信用を使って未来を拡張していない経営でもあります。
安全ではある。
だが、いびつでもある。
もちろん、借金まみれで返済不能になるよりはいい。
しかし、信用があるのに負債を発行しない。
負債を使って行動を増やさない。
行動によって未来の信用をさらに積まない。
それは、守りとしては強いかもしれません。
しかし、制度運用として見るなら、どこか不自然です。
国家も企業も、負債を恐れるだけでは動けません。
問うべきなのは、借金があるかないかではない。
その負債は、信用を積むのか。
それとも、信用を食うのか。
「国民の金融資産」は、政府の財布ではない
ここで、最初の違和感に戻ります。
国民の金融資産は、政府債務の法的な担保ではありません。
政府が、「国民全体にこれだけ資産があるから、それを担保に借りています」と契約しているわけではない。
だから、「国民の資産が政府に勝手に使われる」と言い切るのは、言い過ぎです。
しかし、まったく無関係でもありません。
政府は税制を変えられます。
社会保険料を変えられます。
インフレによって、通貨の実質価値が下がることもあります。
つまり、国民金融資産は法的な担保ではない。
けれど、国家が制度を維持するうえでの「最終的な負担余地」として見られやすい。
ここがややこしい。
そして、ここを曖昧にしたまま、
「国民の金融資産があるから大丈夫」
と言われると、話が急に冷たくなります。
しかも、国民金融資産には、すぐに現金化できないものも含まれます。
保険。
年金準備金。
投資信託。
長期資産。
そうしたものまで含めて、巨大な数字が作られる。
さらに、その資産は国民全員に均等に分布しているわけではありません。
「国全体ではある」
ということと、
「あなたが使える」
ということは違う。
この違いを消したまま、大丈夫と言う。
そこに、財政論のいやらしさがあります。
「国全体では大丈夫」は、分配を隠す
「国全体では大丈夫」
この言葉は便利です。
国全体では資産がある。
国全体では黒字の部門がある。
国全体ではまだ余力がある。
たしかに、そうかもしれない。
でも、「国全体」という言葉は、分配を隠します。
資産を持っている人と、持っていない人。
国債の利払いを受け取る側と、税や社会保険料を払う側。
インフレに強い資産を持つ人と、預金と給料だけで生きている人。
高齢世代と現役世代。
都市と地方。
正規と非正規。
これらは、同じではありません。
国全体で見れば持ちこたえていても、個人の生活は壊れます。
統計ではまだ大丈夫でも、現場ではすでに限界に近いことがあります。
ここで、わたくしの品質保証的な感覚が反応します。
全体の数字だけ見て「問題なし」と言うとき、たいてい現場でなにかが潰れています。
帳票上は合っている。
平均値では問題ない。
総量では足りている。
でも、現場のどこかで無理が出ている。
財政も同じではないのか。
「国民の金融資産があるから大丈夫」
この言葉が本当に言っているのは、こういうことかもしれません。
国全体としては、まだ負担を吸収できる余地がある。
しかし、それは、誰が、どのように、どの順番で負担するのかを説明していません。
ここを説明しないまま大丈夫と言うなら、それは安心ではありません。
ただの視点のすり替えです。
危ない論も、大丈夫論も、どちらも雑になる
政府財政の議論では、よく二つの極端な話が出てきます。
ひとつは、危機論です。
政府の借金がこれだけある。
GDP比でこれだけ大きい。
金利が上がれば利払いが膨らむ。
だから危ない。
これは分かりやすい。
でも、総額だけを見て危ないと言うなら、やはり粗い。
政府債務は、家計の借金ではありません。
通貨、中央銀行、税制、金融システム、国債市場、国内保有比率などと一体で見る必要があります。
もうひとつは、楽観論です。
政府には資産もある。
国民には金融資産もある。
日本国債は円建てである。
日銀が通貨発行できる。
統合政府で見れば、日銀保有国債は相殺できる。
だから大丈夫。
こちらも、一面では正しい。
でも、こちらも雑になることがあります。
日銀が国債を持っているからといって、すべての問題が消えるわけではありません。
日銀が国債を買えば、国債の形をしていたものが、金融機関の日銀当座預金、つまり準備預金の形に変わる部分があります。
金利がある世界に戻れば、その準備預金に対する付利の問題も出てきます。
もちろん、日銀が保有する国債から得た利子収入は、最終的に国庫納付金として政府に戻る部分があります。
だから、日銀への利払いがそのまま全額、政府の純粋な負担になるわけではありません。
しかし、それで問題が完全に消えるわけでもない。
統合政府で見れば形式的に相殺できる部分があっても、インフレ、分配、為替、政治的信認、生活者への負担は消えません。
危ない論も、大丈夫論も、どちらも一部は正しい。
しかし、どちらもそこで話を止めると、肝心な問いが残ります。
それで、その負債は、なにに使われたのか。
MMTは「大丈夫論」ではない
この話になると、MMT、現代貨幣理論が出てきます。
自国通貨建て国債であれば、政府は形式的なデフォルトを避けやすい。
財政の制約は、単純な資金不足ではなく、インフレや実物資源の制約にある。
この整理は重要です。
ここを知らずに財政を語るのは危ういと思っています。
ただし、MMTを「だから、いくらでも借金していい」という安心材料として使うなら、それはかなり雑です。
MMTが示すのは、貨幣発行や政府支出の仕組みについての見方です。
しかし、その支出がなにに使われ、社会の供給能力を高めるのか、制度の信頼を積み上げるのか、あるいは制度疲労を先送りするだけなのかは、別の問いです。
つまり、MMT的な理解をしても、問いは終わりません。
むしろ、そこから問いが始まる。
政府が作った負債は、未来の社会を支える力になっているのか。
それとも、今の制度をなんとか維持するために、未来の選択肢を狭めているのか。
ここから先は、単なる貨幣論ではありません。
制度論の話です。
信用を積む負債と、信用を食う負債
政府の負債には、信用を積む負債と、信用を食う負債があります。
たとえば、災害に強いインフラを作る。
教育や研究開発に投資する。
医療や介護の制度を持続可能な形に作り直す。
エネルギーや食料の安定供給を支える。
こうした支出は、未来の社会を支える可能性があります。
もちろん、教育なら必ず良い、防衛なら必ず良い、社会保障なら必ず悪い、公共投資なら必ず未来への投資、という単純な話ではありません。
問題は、その支出が制度的信用を積んでいるかどうかです。
生活者が「この社会は明日も動く」と思えるか。
企業が「この国で投資してもよい」と思えるか。
若い世代が「この社会で将来を作れる」と思えるか。
地域が「ここで暮らし続けられる」と思えるか。
そうした信用を積む負債なら、それは単なる借金ではありません。
未来への制度投資です。
一方で、信用を食う負債もあります。
説明不能な支出を続ける。
負担と受益の関係を曖昧にする。
将来世代への負担を見えにくくする。
制度の受益者と負担者のズレを放置する。
いまの不満を一時的に沈めるためだけに、未来の選択肢を削る。
これは、財政支出ではなく、制度の延命です。
国家は、形式的には破綻しないかもしれません。
しかし、制度への信用は削られます。
生活者の将来期待は削られます。
政治への信頼も削られます。
財政は、数字だけで終わる話ではありません。
人がこの社会の明日を信じられるかどうかに関わる話です。
「大丈夫」と言える人は、どこから見ているのか
結局、わたくしが気になっているのはここです。
「大丈夫」と言える人は、どこから社会を見ているのか。
統計の上から見ているのか。
財政表の上から見ているのか。
国全体のバランスシートから見ているのか。
それとも、支払日と生活費を見ている人の側から見ているのか。
政府債務をめぐる議論は、どうしても二択になりがちです。
日本は危ない。
いや、大丈夫だ。
財政破綻する。
いや、自国通貨建てだからしない。
緊縮すべきだ。
いや、もっと財政出動すべきだ。
この二択は分かりやすい。
しかし、分かりやすい議論ほど、見えなくなるものがあります。
政府の負債は、ただの数字ではありません。
それは、過去の政策判断の記録です。
現在の制度を維持するためのコストです。
そして、未来の国民に対する請求でもあります。
だからこそ、問うべきなのは、危ないか大丈夫かだけではありません。
その負債は、なにを作ったのか。
どの制度を支えたのか。
どの信用を積み上げたのか。
どの負担を見えにくくしたのか。
誰の未来を担保にしているのか。
ここを問わなければ、財政論は数字の殴り合いで終わります。
おわりに
「国民の金融資産があるから大丈夫」
この言葉は、完全に間違っているわけではないのかもしれません。
国全体の資金循環を見るうえで、意味のある視点もあるでしょう。
しかし、その言葉で安心してしまうと、見えなくなるものがあります。
政府債務は、危ないか大丈夫かだけで語るには大きすぎる。
それは、国家がなにを守り、なにを先送りし、誰の未来を使って現在を支えているのかを示す記録でもあります。
そして、もっと根本的に言えば、政府の言葉そのものが負債です。
「大丈夫です」
「国民生活を守ります」
「将来世代に責任を持ちます」
「持続可能な制度にします」
これらの言葉は、発された瞬間にはまだ信用ではありません。
それは、未来への負債です。
その負債を償却できるのは、行動だけです。
実際に制度を立て直したのか。
生活者を守ったのか。
未来の選択肢を増やしたのか。
負担の所在を明らかにしたのか。
信用を積む支出をしたのか。
そこまで見て、初めて言葉は信用に変わります。
社会の根本は、やはり信用です。
ただし、その信用は言葉だけでは積み上がりません。
言葉は負債です。
行動だけが、その負債を信用に変える。
だから、「大丈夫」という言葉を聞いたとき、そこで安心してはいけない。
その言葉は、誰が返済するのか。
どの行動で返済するのか。
その返済は、生活者に押しつけられるのか。
それとも、社会の信用を積み上げる形で行われるのか。
そこを問わなければならない。
借金の額だけを見ても、社会は見えません。
大丈夫という言葉だけを聞いても、生活は守れません。
「大丈夫」という言葉は、信用ではない。
それは、まだ返済されていない負債です。
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