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価値とは行動の結果である――自己消費価値・共同体内消費価値・交換価値

おはようございます。長坂総研です。

第3回は、価値について書いています。
物自体には価値はない。

価値をつけるのは一人の人間である。
物に対し、それがどのくらい役に立つか、それを判断する主体は人間である。

そして他者が、物に付けられた価値をみとめることで、価値は立ち上がる。

物に対し、行動を付与し、そのものがどれだけの稀少度持っているか。
それを他者が認めるかどうか。

それが価値である。



花音です。あと2週間ほどで梅雨も明けます。暑い夏が来ます。

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信用・負債制度起源論の最初の論点を整理する連載、第3回です。

今回は、価値について考えます。

価値という言葉は、あまりにも普通に使われています。

この商品には価値がある。
この情報には価値がある。
この人材には価値がある。
この経験には価値がある。

だが、価値とは何かと聞かれると、意外と難しい。

物に価値があるのか。

人が価値を感じるのか。

社会が価値を認めるのか。

今回は、その価値を、欲と行動の結果から考えます。

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価値は、最初から物の中に入っているものではない。

水は水である。

しかし、喉が渇いていない人にとっての水と、砂漠で倒れそうになっている人にとっての水は、まったく同じ意味を持たない。

食料も同じである。

腹が減っている人にとっては価値がある。だが、すでに満腹で、しかも保存もできない状況なら、その価値は大きく変わる。

つまり、価値は物そのものから自動的に生まれるのではない。

そこには欲がある。

水を飲みたい。食べたい。暖まりたい。眠りたい。危険を避けたい。不安を和らげたい。

その欲を満たすために、人は行動する。

水を探す。木の実を拾う。火を起こす。寝床を作る。周囲を見張る。歌を歌う。声をかける。

そして、その行動によって欲が満たされたとき、そこに価値が生まれる。

価値とは、欲を満たす行動の結果である。

まず、一人で完結する価値がある。

自分で水を見つけ、自分で飲む。

自分で火を起こし、自分が暖まる。

自分で木の実を拾い、自分で食べる。

自分で歌を歌い、自分の不安を少し和らげる。

これは、自己消費価値である。

自己消費価値には、他者の承認はいらない。自分の欲が満たされれば、それで成立する。

喉が渇いていた自分が水を飲む。寒かった自分が火で暖まる。不安だった自分が歌で少し落ち着く。

そこには、まだ社会的な交換はない。

ただ、自分の欲があり、自分の行動があり、その結果として自分が満たされる。

ここまでは、自分一人の世界である。

しかし、二人の共同体になると、価値の意味は変わる。

自分が見つけた水を、相手にも分ける。

自分が起こした火で、相手も暖まる。

自分が見張りに立つことで、相手が眠れる。

自分が歌を歌うことで、相手の不安が少し和らぐ。

ここでは、自分の行動の結果が、相手の欲を満たしている。

これが、共同体内消費価値である。

ただし、ここには相手の承認が必要になる。

自分では役に立ったつもりでも、相手の欲を満たしていなければ、共同体内の価値にはならない。

たとえば、自分は一生懸命走り回ったとする。だが、水も見つからず、危険も避けられず、相手の不安も減らなかった。本人は疲れたかもしれない。しかし、その疲労そのものが価値になるわけではない。

価値は、行動量ではない。

どれだけ頑張ったかだけでもない。

欲を満たした結果である。

ここは、とても大事なところである。

人間は、自分の努力を価値だと思いたくなる。これだけ動いたのだから、これだけ苦労したのだから、これだけ時間を使ったのだから、価値があるはずだと思う。

だが、共同体の中では、それだけでは足りない。

相手の欲を満たしたのか。

相手の生存に役立ったのか。

相手の不安を減らしたのか。

相手がそれを価値あるものとして受け止めたのか。

共同体内の価値は、相手の承認によって立ち上がる。

ここから、価値はさらに次の段階へ進む。

相手が価値を受け取るだけでなく、何かを返そうとすることがある。

水を分けてもらったから、今度は自分が見張りに立つ。

食料を分けてもらったから、火を守る。

怪我を手当てしてもらったから、道を案内する。

不安な夜に歌を歌ってもらったから、翌日は荷物を持つ。

ここで生まれているのは、交換価値である。

交換価値とは、相手の返酬行動を引き出す価値である。

ここで注意したいのは、交換は市場から始まったのではない、ということである。

市場というと、多くの人は店が並ぶ通りを想像する。品物が並び、値段がつき、人々が売ったり買ったりする場面を想像する。

物々交換社会というと、見知らぬ者同士が魚と肉、麦と布を持ち寄って交換するような場面を想像するかもしれない。

だが、人間社会の始まりとして考えるなら、それはおそらく遅すぎる。

もっと手前に、交換はある。

二人の共同体の中で、水を分ける。火を守る。見張りに立つ。危険を知らせる。歌を歌って不安を和らげる。

そこには、まだ通貨はない。価格もない。店もない。契約書もない。

それでも価値の交換は起きている。

最初に交換されたのは、物ではなく、行動の結果だったのではないか。

水を飲めるようにした行動。

火を消さずに守った行動。

相手が眠れるように見張った行動。

不安を少しでも和らげた行動。

これらは、生存や安心に関わる価値である。

そして、その価値を受け取った相手が、何かを返そうとする。

ここに、交換の原型がある。

もちろん、この段階では「水一杯に対して見張り二時間」などと計算しているわけではないだろう。

それでも、受け取った側は感じる。

助かった。

ありがたい。

これは返さなければならない。

この感覚が、次の問題へつながる。

価値は、自己消費から始まる。

それが相手に届けば、共同体内の価値になる。

そして、相手の返酬行動を引き出すと、交換価値になる。

この流れを見なければ、交換も、市場も、負債も見えてこない。

価値とは、物の中に眠っている何かではない。

欲があり、行動があり、その行動の結果が誰かを満たしたときに生まれるものである。

では、価値を受け取った相手は、なぜ返そうとするのか。

次回は、借りと負債について考える。


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