王の言葉は、誰が返済するのか――ピューリタン革命と名誉革命を信用・負債制度から読む
おはようございます。長坂総研です。
昨日まで5回にわたり、信用・負債制度起源論の根本の理論を書いてきました。
今回から2回続けて、世界史をその理論で見直していきます。
歴史は、主に人間社会の出来事ですから、信用・負債制度起源論から完全に逃れることはできません。もちろん例外もありますが、そこは今回は置いておいてくださいw。
革命といわれるものは、たくさんあります。
大きなものでは、フランス革命とロシア革命でしょう。それは6月に書きましたので、今回はイギリスで起きた革命を見ていきます。
清教徒革命、つまりピューリタン革命と、名誉革命です。
革命はなぜ起きたのか。
革命の結果、何が生まれたのか。
そこを見ることが、世界史を見るコツだと思っています。

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王は神から権威を与えられている。
そう言われた時代があった。
しかし、その王の言葉によって生まれた負債を返すのは、神ではなく社会である。
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王が国を傾けても、王だけが傷を負うわけではない。
税を払うのは臣民であり、戦場で死ぬのも臣民である。宗教政策で社会が割れれば、その傷を背負うのも民衆である。
それなのに王は、自分の権威は神から与えられたものだと言う。
これが王権神授説である。
もちろん、当時の人々が単なる方便としてこれを語っていたわけではない。神、王、秩序、服従は、現代人が思うより深く結びついていた。
しかし制度論から見ると、ここには大きな問題がある。
王の言葉を、社会が検証しにくくなるのである。
王が命じる。
税を取る。
戦争をする。
宗教の形を決める。
だが、その結果として生まれる負債は、王だけに戻らない。社会全体が払わされる。
言葉は負債である。
ならば、王の言葉で生まれた負債は、誰が返済するのか。
この問いから、ピューリタン革命と名誉革命を見直すと、かなり分かりやすくなる。
ピューリタン革命は、清教徒革命とも呼ばれる。
ここでまず分かりにくいのが、国教会と清教徒の関係である。
イングランド国教会は、ローマ教皇から離れた国家教会である。カトリックではなく、プロテスタント側に属する。ただし清教徒から見ると、国教会にはまだ儀式や司教制度など、カトリック的な名残が多く残っていた。
国教会は、宗教改革を国家制度に回収したものだった。
それに対して清教徒は、その改革がまだ不十分だと見た人々である。もっと聖書に戻れ、もっと信仰を純化せよ、王が教会を支配する形はおかしい。そう考えた。
つまり清教徒革命は、単純なカトリック対プロテスタントの争いではない。
王が支配する国教会と、その国教会をなお不純だと見た清教徒との対立が、王権と議会の対立に重なった革命である。
清教徒たちは、宗教を政治から消したかったわけではない。
むしろ、王が神の名を借りて政治を正当化する構造を疑った。王が国教会を支配し、国教会が王の権威を支える。その仕組みの中では、王に逆らうことが、神の秩序に逆らうことのように見えてしまう。
これは危うい。
王が間違えた時、誰が止めるのか。
王が社会に負債を押しつけた時、誰が返済を求めるのか。
この問いが、やがて内戦へ向かっていく。
チャールズ1世は、王権神授説を背景に議会を軽視し、課税や宗教政策を進めようとした。議会派や清教徒から見れば、王は神と国教会の信用を背負い、社会の承認を飛び越えて国家を動かそうとしているように見えた。
その結果、王と議会は衝突し、内戦となる。
そしてチャールズ1世は裁判にかけられ、処刑された。
ここは非常に大きい。
王は暗殺されたのではない。裁かれたのである。
もちろん、この裁判を近代的な法の支配が完成したものとして美化しすぎることはできない。議会から王派が排除され、軍の力が強く働いた、かなり強硬な政治的裁判でもあった。
それでも、王が裁かれたという事実は重い。
王は国家そのものではない。
王も責任を問われうる。
この瞬間、王の身体から国家が引きはがされた。
だが、ここで自由が完成したわけではなかった。
むしろ問題はここから始まる。
王を倒したあと、国家をどう動かすのか。
誰が軍を統制するのか。
誰が税を集めるのか。
誰が宗教秩序を決めるのか。
誰が社会の信用を預かるのか。
王の絶対性を壊したあと、信用の置き場がなくなった。
そこに現れたのがクロムウェルである。
クロムウェルは、議会派の軍人として台頭した。王を倒すためには、軍の力が必要だった。だが王を倒した後、その軍が国家を動かす力にもなった。
ここに革命の怖さがある。
独裁を倒すために強い力が必要になる。
しかし、その強い力が、倒した後も残る。
王の絶対性を壊したはずなのに、今度は革命軍と指導者に信用が集中していく。
クロムウェルの体制をどこまで独裁と呼ぶかには議論がある。それでも、護国卿として強い権限を持ち、軍事的な統治に近づいたことは確かである。
王を倒したのに、別の強い支配が現れた。
これは失敗である。
清教徒革命は、王の絶対性を壊した。
しかし、その絶対性を制度に分散できなかった。
その結果、空いた王座に、革命軍とクロムウェルが座った。
ここで見えてくることがある。
革命の成否は、王を倒せるかでは決まらない。
王を倒したあと、空いた王座に何を座らせるかで決まる。
王を倒しても、その場所に軍が座れば軍事独裁になる。革命の指導者が座れば革命独裁になる。党が座れば党の独裁になる。正義を名乗る者が座れば、正義の名による独裁になる。
だから、王を倒すだけでは足りない。
王座そのものを、制度で囲わなければならない。
その意味で、名誉革命は清教徒革命のやり直しだった。
名誉革命では、王を処刑しなかった。共和政へ一気に進んだわけでもない。宗教的理想で国家を作り直そうとしたわけでもない。
王は残す。
しかし、王の絶対性は認めない。
ジェームズ2世を追放し、ウィリアムとメアリを迎える。だが、ただ新しい王を迎えたのではない。議会と法の条件を受け入れる王として迎えたのである。
王は勝手に法律を止められない。
王は勝手に税を取れない。
王は議会なしに常備軍を維持できない。
王も、法と議会の下に置かれる。
ここで、王の信用は制度に預け直された。
王を殺すのではない。
王を神の代理人から、制度の中の部品へ変える。
これが名誉革命の意味である。
イギリスは、最初からうまくやったわけではない。内戦もあり、王の処刑もあり、クロムウェルの強権的な政治もあった。
しかし、その失敗を通って、王を消すのではなく、王を制度で縛る方向へ進んだ。
ここが重要である。
良い王を探すのではない。
正しい王を期待するのでもない。
王が正しいと言っても、制度が止められるようにする。
歴史を学ぶ意味は、ここにある。
ピューリタン革命、クロムウェル独裁、名誉革命。
この三つを年号と人名で覚えるだけなら、ただの暗記で終わる。
しかし、構造で見れば違う。
絶対性を持った王がいる。
その王を倒す。
しかし空いた王座に、別の絶対性が座る。
その失敗を経て、王座そのものを制度で囲う。
この構造は、イギリスだけで終わらない。
フランス革命にも、ロシア革命にも、別の形で現れる。現代の政治や組織にも、名前を変えて現れる。
歴史は繰り返すのではない。
同じ構造が、違う名前で現れる。
だから歴史を学ぶとは、過去を覚えることではない。
現在に戻ってきた同じ構造を見抜くことである。
