見えるものも見えないものも見る――道元『正法眼蔵』「仏性」に入る前に
おはようございます。長坂総研です。
難しい。
正法眼蔵は難しい。
AIに解説してもらいながら、理解しようとしているが、AIが何を言っているのかもわからない。
それでも信用・負債制度起源論で出見直すと少しはわかるかもしれないと思ってこのシリーズをやっている。

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七十五巻本『正法眼蔵』の第三巻、「仏性」に入ろうと思っています。
ただ、この巻はかなり手ごわい。いきなり本文の引用に入る前に、まずは「仏性」とは何か、「すべてのものには仏性がある」と読むのか、それとも「すべては仏性として現れている」と読むのか、そこを考えておきたいと思います。
今回は、道元の「仏性」を読むための準備回です。
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仏性と聞けば、多くの人は「仏になる性質」と考えると思う。
すべてのものには仏性がある。
すべての生き物には、仏になる可能性がある。
人間だけでなく、あらゆる存在に悟りへの道が開かれている。
この読み方なら、比較的わかりやすい。
仏性とは、内側に眠っている可能性である。
仏性とは、まだ現れていないが、いつか開かれる本来の性質である。
仏性とは、仏になるための種である。
しかし、道元はそこで止まらないように見える。
「一切衆生悉有仏性」という言葉は、ふつうなら「すべての衆生には仏性がある」と読む。ところが、道元はそれを単純に「すべてのものが仏性を持っている」とは読まない。
むしろ、「悉有そのものが仏性である」という方向へ読み替えているように見える。
ここで問題が一気に難しくなる。
「すべてのものには仏性がある」なら、仏性はまだわかりやすい。仏性は、ものの内側にある性質である。仏になるための可能性である。
しかし、「すべては仏性として現れている」と読むなら、話は変わる。
その場合、仏性とは何なのか。
ここを解かないと、「仏性」は行方不明になる。
「すべては仏になる」という理解でも、まだ少し違う気がする。なぜなら、「なる」と言った瞬間、仏性は未来に置かれてしまうからである。
今はまだ仏ではない。
けれど、いつか仏になる。
その可能性として、いま仏性がある。
これでは、結局「仏性を持っている」という理解に戻ってしまう。
道元が見ているのは、たぶんそこではない。
すべては、いつか仏になるのではない。
すべては、すでに仏性として現れている。
この違いが大きい。
ただし、ここでまた注意しなければならない。「すべては仏性である」と言うと、何でも肯定しているように聞こえてしまう。
花が咲くのも仏性。
花が散るのも仏性。
人が迷うのも仏性。
制度ができるのも仏性。
制度が腐るのも仏性。
そう言われると、では何でもよいのか、という話になってしまう。
しかし、それは違うと思う。
仏性とは、「すべてよし」と言うための言葉ではない。現実を美しい言葉で包んで、問題を消してしまうための言葉でもない。
むしろ、そこに何が現れているのかをごまかさずに見るための言葉ではないか。
腐った制度には、腐った制度としての現れ方がある。
信用を失った組織には、信用を失った組織としての現れ方がある。
言葉だけで行動が伴わない人には、その不一致が現れている。
それを「本当はよいはずだ」「制度としては正しいはずだ」「いつか修正されるはずだ」と、人間の都合で上書きしない。
現れているものを、現れているものとして見る。
このとき、仏性とは、存在の奥に隠された美しい性質ではなくなる。仏性とは、存在が条件と関係の中で、そのものとして現れているあり方ではないか。
もちろん、これは仏性を完全に定義したということではない。むしろ、定義したと思った瞬間に、また仏性を小さくしてしまう。
それでも、読むためには仮の足場が必要になる。
今のところ、私はこう考えている。
仏性とは、存在の中に隠された「仏になる種」ではない。
存在が条件と関係の中で、そのものとして現れているあり方である。
この読み方は、制度を見る目にもつながる。
制度というと、私たちはすぐに、法律、役所、組織図、規則、契約書のようなものを思い浮かべる。もちろん、それらは制度の一部である。
しかし、それだけでは制度は制度として働かない。
法律があるだけでは足りない。
その法律が守られなければならない。
記録があるだけでは足りない。
その記録が信じられなければならない。
肩書きがあるだけでは足りない。
その肩書きに責任が伴わなければならない。
制度は、紙の上にあるだけでは制度ではない。
制度とは、行為、記録、承認、責任、期待、罰、慣習、記憶が関係しながら現れているものである。人々の行動が実際に変わり、約束が履行され、違反には責任が発生し、記録が信用されるとき、制度は制度として現れる。
国家が制度を持っているのではない。
国家として現れている関係そのものが、制度である。
市場が信用を持っているのではない。
交換、価格、記録、決済、期待、責任の関係が作動していることが、信用である。
このように考えると、「悉有仏性」という言葉は、制度論の補助線になる。
すべてのものに仏性がある、ではまだ所有の発想が残る。
すべてのものが仏性として現れている、と読むと、存在は所有物ではなく、現れ方になる。
同じように、制度もまた所有物ではない。
信用もまた所有物ではない。
それらは、関係の中で現れる。
ここで必要になるのは、見えるものだけを見ることではない。
制度には、見えるものがある。法律、規則、組織図、肩書き、発言、記録、統計、契約、報道。
しかし、制度には見えないものもある。沈黙、忖度、恐怖、未記録、消された記録、責任回避、暗黙の了解、共同体の空気、信用の劣化、負債の蓄積。
見えるものだけを見れば、制度はきれいに見える。
見えないものを見なければ、制度の本当の姿は現れない。
ただし、ここでまた危ないことがある。
「見えないものが見えた」と思った瞬間に、人はまた間違える。
私は裏側を見抜いた。
本質をつかんだ。
構造が見えた。
これこそが真相だ。
そう思った瞬間に、その分析自体が固定される。見えないものを見たつもりになって、新しい盲点を作る。
だから、こうなる。
見なければならない。
しかし、見たと思ってはいけない。
これは、袋小路に入れられているのではない。安心できる答えを求めることそのものが、次の迷いを作っているということだと思う。
人間はいつも、正しい見方を求めている。間違わない立場に立ちたい。偏りから自由になりたい。「これが答えだ」と言って、そこに落ち着きたい。
しかし、その安心したい欲望そのものが、ものを見る目を曇らせる。
見る私が世界を処理するのではない。
世界に出会うことで、見る私のほうが変えられていく。
たぶん、道元を読むというのは、そういうことなのだと思う。
自分の考えで世界を裁くのではない。世界に出会いながら、自分の見方が何度も問い返される。その過程の中で、見えるものと見えないものが少しずつ姿を変えていく。
制度を見るときも同じである。
制度を「あるもの」として見ると、制度を見失う。法律がある。組織図がある。規則がある。だから制度がある。そう考えると、制度は紙の上のものになる。
しかし本当に見るべきなのは、それがどう作動しているかである。
約束は守られているのか。
記録は信用されているのか。
責任は発生しているのか。
沈黙している人はいないか。
見えない負債は積み上がっていないか。
そこに制度の姿が現れる。
そして、それを見たと思ってはいけない。
一度見えたと思ったものも、時間が経てば変わる。別の立場から見れば違って見える。記録を見れば違うものが出てくる。沈黙していたものが、あとから現れることもある。
だから、見ることは一度で終わらない。
見えるものを見る。
見えないものも見る。
そして、見たと思ってはいけない。
『正法眼蔵』「仏性」を読む入口は、たぶんそこにある。
