日本の街がきれいなのは、誰かが少しずつ面倒を引き受けているから――町内会から見る共同体の信用と負債
こんにちは、長坂総研です。
今回は日本の街がきれいなのはなぜ、という話から入り、その構造を見ていきます。
実体験込みで、信用と負債、共同体という目線で作成しています。
日本の街はきれいだ、とよく言われる。
道にごみが少ない。
ごみ置き場が荒れていない。
荷物の扱いが丁寧。
公共空間が整っている。
外国から来た人が日本を歩くと、その違いに驚くことがある。車がなくても移動しやすい。街が歩きやすい。道がきれいで、不快なものが少ない。
しかし、こうした日本の清潔さや丁寧さは、自然に生まれているわけではない。
そこには、かなり具体的な負担がある。
いま、わたくしは町内会の班長をしている。班は十件ほどしかないため、数年に一度は順番が回ってくる。正直に言えば、これは少し負担である。
広報を配る。
回覧板を回す。
ごみの日のことを気にする。
町内掃除の連絡もある。
必要があれば、地域の細かな用事にも関わる。
ひとつひとつは大きな仕事ではない。けれど、生活の中に入ってくると、確実に手間になる。
ごみ回収の日を見ると、日本の共同体の仕組みがよく分かる。
回収場所には、ほとんどごみが落ちていない。カラスに荒らされないように網をかけ、おもりを置く。粗大ごみの日には、町内の班長が交代で出てきて見ていることもある。
これは行政サービスだけではない。
行政は回収日を決める。分別ルールを作る。ごみを回収する。
しかし、回収場所をきれいに保つこと、カラスに荒らされないようにすること、粗大ごみの日に立ち会うことまでは、地域住民の側に委ねられている。
つまり、日本のきれいな公共空間は、行政と地域共同体の分担によって維持されている。
行政でできることは行政で行う。
行政だけでは届かない部分を、地域や住民が支える。
この仕組みがあるから、ごみ置き場が荒れると「どうなっているんだ」と苦情が入る。これは単なる近所トラブルではない。地域の信用が傷ついたことへの反応である。
町内会の仕事は、ごみだけではない。
広報の配布もある。行政が作った情報を、実際に各家庭へ届けるのは地域の班長である。回覧板もある。これが意外に面倒である。すぐ次に回してくれる家ばかりならよいが、なかなか回さない人、長期間止める人、そもそも在宅しているのか分からない人もいる。
年二回の町内掃除もある。一時間程度とはいえ、時間は決まっている。仕事や家庭の予定とは関係なく、地域の予定として入ってくる。しかも、実際に出てくる人は限られている。
参加する人は参加する。
参加しない人は参加しない。
その差は、地域の中で静かに見られている。
ここで見えてくるのは、共同体の信用である。
みんながやっているから、自分もやる。
自分だけが拒否すれば、その負担は誰かに移る。
順番だから、少し面倒でも引き受ける。
これは美談ではない。むしろ、共同体とはそういうものなのだと思う。共同体は、英雄的な善意で回っているのではない。普通の人が、少しずつ面倒を引き受けることで回っている。
だから、共同体に参加しない人を見ると、班長を経験した人はどうしても厳しい目になる。
参加しないという選択は、本人からすれば「自分は関わらない」というだけかもしれない。しかし、その人が背負わなかった負担は、消えるわけではない。別の誰かに移る。
ごみ置き場は使う。
地域の清潔さは享受する。
道路や側溝がきれいな恩恵も受ける。
しかし、掃除には出ない。
当番はしない。
回覧板は止める。
班長は避ける。
こうなると、共同体側からは「利益だけ受け取り、負担を負っていない人」に見える。
もちろん、事情がある人はいる。高齢、病気、介護、子育て、仕事、外国から来たばかりで地域のルールを知らない人。そうした人まで一律に責めるのは違う。
とくに外から来た人の場合、問題は国籍ではなく、共同体への接続である。
外国人に限らず、転入者、単身者、短期滞在者、賃貸住民は、地域の暗黙のルールを最初から知っているとは限らない。ごみ出しの曜日、分別、袋、出す時間、ネットの扱い、粗大ごみの手続き。これは日本人でも引っ越せば迷う。
だから、外から来た人には、まずルールを見える化する必要がある。共同体の暗黙知を、外部者にも分かる明示知に変える必要がある。
ただし、ルールを知ったうえで負担を拒むなら、それは別の問題になる。
それは、共同体の信用に参加しないという選択である。そして、その選択には代償がある。地域から信用されない。困ったときに助けてもらいにくい。距離を置かれる。
共同体に参加しない自由はある。
しかし、参加しないことの結果まで消えるわけではない。
ここで、「そんなことは行政がやればいい」という意見も出てくる。
たしかに、それも一つの考え方である。ごみ置き場の管理も、広報の配布も、地域清掃も、苦情対応も、すべて行政が担えばいいという考え方だ。
しかし、行政がやるということは、負担が消えるという意味ではない。
行政職員が対応するなら人件費がかかる。
業者に委託するなら委託費がかかる。
管理を強化するなら、仕組みや人員が必要になる。
その費用は、最終的には住民税や行政サービスの形で住民に戻ってくる。
共同体が担っている負担は、無料ではない。ただ、金銭ではなく、時間と手間として住民が分担しているだけである。
つまり、選択肢は「負担するか、負担しないか」ではない。
時間と手間で払うのか。
税金で払うのか。
自分たちで少しずつ担うのか。
行政に移して、金銭負担として受け入れるのか。
公共空間を維持するには、必ずコストがかかる。
日本の街がきれいなのは、日本人が特別にきれい好きだからだけではない。行政がすべてを完璧にやっているからでもない。
町内会がある。
班長がいる。
ごみ当番がいる。
掃除に出る人がいる。
広報を配る人がいる。
回覧板を回す人がいる。
誰かが、少しずつ面倒を引き受けている。
共同体は信用で回っている。
しかし、その信用は無料ではない。
誰かが時間を払い、手間を払い、気を遣っている。
その負担を見ないまま、きれいな街だけを享受することはできない。
共同体とは、便利さを受け取る場所であると同時に、少しの面倒を分け合う仕組みでもある。
