ローマ帝国は、なぜ迫害したキリスト教を国教にしたのか
おはようございます。長坂総研です。
世界史を学び始めてから抱えていた疑問が、今日の議論で少し解消した気がします。
なぜ、ローマ帝国はキリスト教を国教にしたのか?
皇帝と教皇が並び立ち、ときには教皇の方が皇帝より強い権力を持つこともあった。私は以前から、そのような二重構造がローマ帝国の衰退にも影響したのではないか、という疑問を持っていました。
しかし、その前に考えなければならないことがあります。
そもそも、なぜローマ帝国は、それまで迫害していたキリスト教を保護し、最後には国教にまでしたのか?
ここが一番大きな疑問でした。
今日の議論で、ようやく少し納得できるところまで来ました。

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ローマ帝国は、二百年以上キリスト教を迫害した末に、突然その正しさを認めたわけではない。
内戦に勝利したコンスタンティヌスの信仰から教会保護が始まり、その保護が国家制度へ入り込んだ。
一人の皇帝が選んだ神が、数十年をかけて帝国の正統へ変わっていった。
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ローマは二百年間、迫害を続けたのか
キリスト教は、現在のイスラエル周辺で生まれた。
パウロは各地のユダヤ人共同体をたどり、シリア、小アジア、ギリシア、ローマへ布教した。ローマは帝国の中心だったが、エルサレムを出発点とする信仰の地図では、西端に近い都市だった。
その後、キリスト教徒はローマ帝国内で迫害を受ける。
ただし、二百年以上にわたり、帝国全域で同じ強さの迫害が続いたわけではない。迫害は地域や皇帝によって強弱があり、長い平穏期もあった。
帝国規模の最後の大迫害は、303年に始まった。
教会堂を壊し、聖書を没収し、ローマの神々への供犠を強制した。しかし、それでもキリスト教共同体を消滅させることはできなかった。
311年、皇帝ガレリウスは寛容令を出し、迫害を停止した。
この段階では、キリスト教を正しい宗教として保護したわけではない。弾圧を打ち切り、集会の再開を認めたにすぎなかった。
積極的な保護は、別の皇帝から始まった
大きな転換を行ったのは、コンスタンティヌスである。
当時のローマ帝国では、複数の皇帝が並び、互いに正統な支配者であることを争っていた。
コンスタンティヌスは父からブリタンニア、ガリア方面の軍隊と領土を受け継いだ有力者だった。しかし、その即位は正規の継承手続きではなく、軍隊によって推戴されたため、皇帝としての正統性には弱点があった。
軍事的な弱者ではない。
ただ、自分だけが正統な皇帝であるという根拠は弱かった。
312年、コンスタンティヌスはミルウィウス橋の戦いでマクセンティウスを破り、ローマを掌握した。
彼はこの勝利を、キリスト教の神によって与えられたものと信じたと伝えられている。十字の徴や幻の話には後世の脚色も含まれるため、そのまま史実とはできない。
それでも、勝利後にキリスト教会への保護を急速に強めたことは確かである。
313年のミラノ勅令では、単に信仰を認めるだけでなく、没収された教会財産の返還を命じた。その後も教会建築を支援し、聖職者へ免税などの特権を与えていく。
311年の寛容令が迫害の停止だったのに対し、ここから皇帝による積極的な保護が始まった。
コンスタンティヌスは、キリスト教の神によって内戦に勝利したと信じた。
皇帝としての正統性に弱点を抱えていた彼にとって、その信仰は結果として、自らを神に選ばれた皇帝と位置づける力にもなった。
古いローマでは、キリスト教を中心にできない
しかし、皇帝個人がキリスト教を信じても、すぐに帝国全体をキリスト教国家へ変えることはできない。
ローマ市には、古くからの神殿、祭司団、元老院貴族、伝統儀礼が集中していた。
ここで旧来の神々を禁止し、キリスト教徒だけを登用すれば、貴族、官僚、軍人の反発を招く。行政を担う支配層を一斉に排除すれば、帝国そのものが動かなくなる。
実際、コンスタンティヌスは異教を信じる貴族を追放せず、伝統宗教もすぐには禁止しなかった。
その一方で、帝国東部に新しい中心都市を建設した。
330年、ビュザンティオンを拡張したコンスタンティノープルが、新しい皇帝都市として完成する。
この場所は、東方防衛、交易、行政の面でローマ市より便利だった。帝国の富と軍事の重心も、次第に東方へ移りつつあった。
新しく作る都市なら、皇帝自身が宮殿、官僚、教会、儀礼、支配層の配置を決められる。
古いローマを破壊するのではなく、その外側に新しいローマを作る。
旧来の神々と貴族をローマ市に残したまま、皇帝、資金、官僚、教会を別の中心へ集めていく。
コンスタンティノープルは、最初から純粋なキリスト教都市だったわけではない。伝統的なローマ文化や神像も残されていた。
それでも、古い祭司団や元老院貴族の影響を受けにくく、キリスト教を皇帝権の近くへ置きやすい都市だったと考えられる。
信仰から、利害と制度が生まれた
コンスタンティヌスが教会を保護すると、教会内部の問題も皇帝の問題になる。
個人の信仰から始まった保護は、教会に財産と権限を与えたことで、今度は誰がその教会を代表するのかという別の問題を生んだ。
どの教会を正統とするかによって、誰が土地、財産、免税、法的権限を受け取るのかが変わる。
当時、キリスト教内部では、イエスは父なる神と同じ神なのか、それとも神によって造られた存在なのかをめぐり、アリウス論争が起きていた。
324年、コンスタンティヌスは最後の対立皇帝リキニウスを破り、帝国の単独支配者となる。
政治的には帝国を一つにした。
しかし、自分が保護する教会は分裂していた。
そこで325年、ニカイア公会議を招集する。
これは単なる神学者の会議ではない。
皇帝が保護した信仰を、帝国規模の統一された教会へ変えるための会議でもあった。
迫害、寛容、教義統一は、一見すると反対の政策に見える。
迫害は、キリスト教を消して帝国を統一しようとした。
寛容は、消せなかったキリスト教を合法化した。
教義統一は、合法化し保護した教会を、帝国秩序の中で一つにまとめようとした。
方法は変わっても、国家と宗教を結びつけて帝国秩序を作ろうとする発想は続いていた。
国教化は、コンスタンティヌスの死後に起きた
コンスタンティヌス自身は、キリスト教を国教にはしていない。
彼の死後も、宗教政策は一直線には進まなかった。
後継皇帝にはアリウス派を支持する者もおり、361年に即位したユリアヌス帝は、伝統宗教の復興を試みた。
それでも、教会はすでに国家制度の内部へ入っていた。
皇帝の宮廷には司教が出入りし、教会は土地と財産を持ち、官僚や貴族の中にもキリスト教徒が増えていく。
後継皇帝がどこで生まれたかよりも、皇帝宮廷と国家制度そのものが、次第にキリスト教を前提として動くようになったことが大きい。
コンスタンティヌス個人の信仰から始まった保護は、次の皇帝には国家運営の選択肢となり、その次には前提へ変わっていった。
そして380年、皇帝テオドシウス1世は、ニカイア派キリスト教を帝国の正統な信仰と定めた。
帝国住民全員が一斉に改宗したわけではない。
国家が、どの宗教とどの教義を正統として保護するのかを決めたのである。
その後、異端とされたキリスト教への制限が強まり、391年から392年ごろには伝統的な異教祭祀も禁止されていった。
かつて迫害された宗教が、国家の力を使い、異教と異端を排除する側へ回った。
皇帝が選んだ神が、帝国の神になった
ローマ帝国全体が、キリスト教を必要としていたわけではない。
旧来の神々を信じ続け、キリスト教徒を放置する道もあった。
転換の入口を作ったのは、コンスタンティヌス個人だった。
その信仰が国家の資金と制度を動かし、約70年後には、皇帝が保護した信仰が帝国の正統へ変わっていた。
