夕刊・西尾スポーツ ユートピア社会主義者たちに重大疑惑 理想社会の管理者を、誰が管理するのか
こんにちは。長坂総研です。
ユートピア社会主義、聞いただけで体中がかゆくなりそうな主義名です。
理想はいいけど、どうやったらその理想がうまくいくのか、制度設計がしっかりしてないと、頭の中でひねくり返しただけ、としか見えません。
大きな目的、目標を打ち出し、それを推進するトップ。トップの下にいて目的、目標に向かってきちんと進んでいるか、問題はないかを管理する人。
そして彼らを監査する人。
必要な人物はたくさんいます。それらを排除すると、どうなるかというのがユートピア社会主義の話です。

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資本主義への不満は、マルクスから始まったわけではありません。
長時間労働、児童労働、貧困、格差。実際に働く人間が苦しみ、身分や財産を持つ者が上に立つ。
そんな社会を見れば、
「この仕組みはおかしい」
と考える人が出てくるのは当然です。
そこで登場したのが、後に「空想的社会主義者」あるいは「ユートピア社会主義者」と呼ばれる人々でした。
今回は、ロバート・オウエン、サン=シモン、シャルル・フーリエの三人を取り上げます。
三人とも、当時の社会の問題をかなり正確に見ていました。
しかし、理想社会の設計図を開くと、別の問題が見えてきます。
誰が決めるのか。
誰が管理するのか。
誰が責任を取るのか。
そして何より、
その管理者を、誰が管理するのか。
西尾社会編集部は、ここに疑惑の目を向けました。
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オウエン――自分の金で試した男
まずはロバート・オウエンです。
オウエンはイギリスの実業家で、紡績工場の経営者でした。
彼は、人間の性格は、その人が置かれた環境によって作られると考えました。
労働者が荒れ、酒に溺れ、教育を受けられないのは、本人の道徳だけの問題ではない。
長時間労働、低賃金、劣悪な住宅、児童労働。
そんな環境に置かれれば、人間はそうなっていく。
ならば説教するのではなく、環境そのものを変えればよい。
オウエンは、実際に自分の経営するニュー・ラナークの工場で、労働時間の短縮、児童労働の制限、教育施設の整備、生活環境の改善を行いました。
ここは評価するしかありません。
理想を語るだけではなく、自分の会社、自分の財産、自分の責任で実行した。
結果がどうであれ、言行一致です。
後世から見れば、
「失敗することくらい分かっただろう」
「もっと別の方法があった」
と言う人もいるでしょう。
しかし、無傷の場所から理想を語る人より、自分で試した人の方が信用できます。
オウエンは、その後アメリカでニュー・ハーモニーという共同体実験も行いました。
こちらは、うまくいきませんでした。
もちろん、原因は一つではありません。
参加者の考え方の違い、財政、労働配分、農業経営、共同生活の混乱。複数の問題が重なっていました。
ただし、ニュー・ラナークとの違いは見逃せません。
ニュー・ラナークには、オウエンというトップがいました。
所有者であり、経営者であり、最終決定者です。
方針を決める。人員を配置する。資源を配る。問題が起きたときに裁く。
最後はオウエンが決めることができました。
ところが、平等な人々による共同体を目指すと、最終決定の所在が曖昧になります。
全員が同じだけ働くとは限りません。
全員が共同体を優先するとも限りません。
取り分は欲しいが、責任は負いたくない人も出てきます。
そのとき、誰が秩序を守るのか。
オウエンの実験は、理想だけでは共同体が動かず、統治の仕組みが必要であることを示しました。
だから私は、オウエンを失敗した人とは見ません。
自分で試した人です。
それだけで評価に値します。
サン=シモン――専門家が新しい貴族になる疑惑
次はサン=シモンです。
彼はフランス革命からナポレオン時代、その後の王政復古までを生きた人物でした。
当時は、無能でも貴族だから上に立てる。
何も生産しなくても、身分や特権によって富を得られる。
一方で、科学者、技術者、実業家、労働者など、実際に社会を動かしている人々は、十分に評価されない。
それを見たサン=シモンは考えました。
貴族や聖職者ではなく、科学者、技術者、銀行家、実業家など、産業を担う者たちが社会を運営すればよい。
身分ではなく能力を見る。
血筋ではなく、社会への貢献を見る。
その時代にしては、かなり先を見た発想です。
ここは称賛しましょう。
ただし、サン=シモンは単に「専門家に任せればよい」と思いついただけではありません。
彼は、社会全体を大規模に計画し、産業者や専門家が中央から管理する体制を構想していました。
つまり、サン=シモンの設計図には管理者がいないのではありません。
むしろ、かなり強い管理体制があります。
問題は、その管理者を誰が管理するのかです。
科学者、技術者、銀行家、実業家が巨大な権限を持ったとき、誰が彼らを監督するのでしょうか。
社会のために合理的に判断するはずの専門家が、自分たちの利益を優先し始めたら、誰が止めるのでしょうか。
専門能力が高いことと、公共の利益を代表できることは同じではありません。
企業経営に優れていることと、国家全体の運営に優れていることも別です。
さらに、能力があったとしても、権力を私物化しない保証はありません。
サン=シモンは、無能な特権階級を追放しようとしました。
しかし、その後に有能な専門家が新しい特権階級にならない保証はあるのでしょうか。
ここに疑惑があります。
問題は、管理者を置くかどうかではありません。
管理者をどう選び、どこまで権限を与え、どう監督し、どう交代させるかです。
有能な人に任せれば大丈夫。
それだけでは制度になりません。
フーリエ――人間の欲望は本当に調和するのか
最後はシャルル・フーリエです。
フーリエは、人間が労働を嫌うのは、人間が怠け者だからではないと考えました。
仕事の割り振り方が悪い。
人にはそれぞれ好みがあります。
農作業が好きな人。料理が好きな人。計算が好きな人。掃除が好きな人。
それぞれの好みに合う仕事を与え、長時間同じ作業をさせず、複数の仕事を交代すれば、労働はもっと楽しくなる。
さらに、人間の欲望を悪として抑えつけるのではなく、うまく組み合わせれば社会の役に立つ。
この発想自体は面白い。
人間を無理に作り変えるのではなく、人間の欲望を制度の材料として使おうとしたからです。
フーリエは、ファランステールと呼ばれる共同生活施設を構想しました。
人々が共同で暮らし、共同で働き、それぞれの好みや能力に応じて仕事を分担する。
しかし、ここでも問題が出てきます。
人間の欲望は、本当に自然に調和するのでしょうか。
誰もやりたがらない仕事が残ることもあります。
人気の仕事に人が集中することもあります。
自分の希望ばかりを主張し、共同体の負担を引き受けない人も出てきます。
分配に不満を持つ人もいれば、仲間を集めて派閥を作る人もいるでしょう。
フーリエは、人間の情念を上手に配置すれば、自発的な協力が生まれると期待しました。
しかし、予定どおりに調和しなかった場合の統治コストを、軽く見ていた疑いがあります。
対立をどう調整するのか。
規則を破る者をどう扱うのか。
共同体への負担を拒む者を、どこまで許すのか。
そこを決めなければ、理想的な配置は制度にはなりません。
フーリエ本人は、オウエンのように大規模な共同体を完成させたわけではありません。
設計図は細かい。
理想もある。
しかし、人間が設計図どおりに動かなかったときの処理が弱い。
そこがフーリエの限界でしょう。
権力は消えない
三人とも、当時の社会に対する問題意識は理解できます。
労働者が苦しみ、特権階級が富を得る。
働くことが苦痛になり、身分によって人間の価値が決められる。
そこを疑ったことは間違っていません。
しかし、理想社会を作るときには、必ず統治の問題が現れます。
決定する者が必要です。
日常を管理する者も必要です。
責任を引き受ける者も必要です。
だからといって、強い管理者を置けば解決するわけでもありません。
今度は、その管理者の権力を誰が制限するのかという問題が始まります。
権力をなくせば平等になる。
有能な専門家に任せれば合理的になる。
人間の欲望を上手に並べれば自然に調和する。
どれも魅力的な発想です。
しかし、制度は魅力だけでは動きません。
人間が理想どおりに動かなかったとき、どう修正するのか。
管理者が腐敗したとき、どう止めるのか。
責任を負わない者が現れたとき、どう扱うのか。
そこまで決めて、初めて制度になります。
正式なトップが消えた場所には、声の大きい者、力のある者、仲間の多い者、情報や配給を握った者が、非公式なトップとして現れます。
権力は消えません。
見えなくなるだけです。
そして見えない権力は、責任も取らなくなります。
反対に、権力を一か所へ集めれば安全になるわけでもありません。
その権力を誰が止めるのかという、新しい疑惑が始まります。
ユートピア社会主義者たちは、資本主義の欠陥を見つけました。
しかし、理想社会を描くことと、制度を作ることは違います。
理想社会の設計図には、管理者の名前だけでは足りません。
管理者を監督する仕組みまで書かれている必要があります。
理想社会の管理者を、誰が管理するのか。
西尾社会編集部は、引き続き疑惑の行方を見守ります。
発行:長坂総研
編集:西尾社会編集部
取材協力:脳内共同体管理委員会、ChatGPT
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