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個展「桜標」— 写真と時間、そしてポートレート

父の古いアルバムから、今回の個展は始まりました

いよいよ個展「桜標」まで10日となりました。
今回の個展は、これまでの展示とは少し違います。
写真と時間について、ずっと考えてきたことを形にした展示です。


桜標に込めた想い

桜標は「さくらしるべ」と読みます。
サブタイトルは、On Time and Portraiture。
「桜標」の「標(しるし)」という字には、目印や里程標のような意味もあります。
写真もまた、その人が生きてきた時間の中に残る、小さな“標”のようなものだと思っています。

<ステートメント>

人は時間の中で、少しずつ変わっていく。
写真もまた、時間の経過によってその意味を変えていく。
時を重ねることでしか写らない表情がある。
失われていくもの、静かに残り続けるもの。
そして、後になって初めて気づく“意味”もある。

写真に写るという行為は、
その人が確かにそこに在ったという、ひとつの痕跡である。
誰かのまなざしに受け止められることで、
人は自分の存在を、あらためて知るのかもしれない。
毎年同じ場所に咲く桜が、同じ姿ではないように、
人の表情や存在もまた、時間の層をまといながら変化していく。
「桜標(さくらしるべ)」とは、
移ろいゆく時間の中に刻まれた、その人、その瞬間の“しるし”である。

本展は、写真と時間、そして他者と自分の関係を、
あらためて見つめ直す試みである。

今回の個展は、ずっと前からやろうと決めていました。
助成金の申請なども進めていたのですが、なかなか内容が固まらず、展示の許可なども難しい面があり、実は産みの苦しみでした。
そんな中、父ががんを患っていることもあり、実家へ帰ったときのことです。

居間で母と話していると、寝ていたはずの父が古いアルバムを持って現れました。
「見てみて、父さんは若い頃、かっこよかったんだ!」
満面の笑みで父が言います。
母が撮ったのでしょう。初デートらしき父の写真。
確かに、すらっとしていてかっこいい。
めちゃくちゃおしゃれしてる!
ジャージ姿で農作業をしている父からは想像もできません。
若かりし父の写真の隣には、父が撮った母の写真。(この頃はスマホがないから、自撮りで2ショットが撮れなかったのね)
しかも、父も母も結構上手い。(上から目線でごめんなさい)

(左)若かりし父 (右)ネギを収穫する父

そして、ふと目に入ったのが、母が幼い私の洗濯物を干している写真でした。

若かりし母

母とは、なんとなくウマが合わないというか、幼い頃から
「橋の下から拾ってきた」だの、
「ブスなんだから嫁の貰い手がない」だの、
まぁまぁ傷つくようなことを、悪気なく言う人でした。

極めつけは、小学校一年生の初めての遠足。
レジャーシートの代わりに、「生ごみ」と大きく書かれた生ごみ袋を持たされたことがありました。

似たようなことは高校を卒業するまで続き、
私は「愛されていないんじゃないか」と本気で思ったこともあります。

でも、この写真を見たとき、
「あぁ、私は愛されていたんだ」と思ったのです。

写真は、その瞬間をただ残すだけのものではなく、
後になって、私たちの記憶の意味を変えていくものなのかもしれません。

写真と時間、他者と自分の関係を、あらためて見つめ直す

私は写真家になってから、実家に帰るときも、たくさんの機材を持って帰り、家族の写真を撮るようになりました。
記念写真も撮りますし、普段の何気ない、居眠りしている姿なども、こっそり隠し撮りしています(笑)。

ここ数年で撮った家族の写真と、昔の写真を並べて見たとき、
「これだ!!!!」と思いました。

単純な比較というよりも、その間に流れた時間に思いを馳せたのです。

若かりし一人の人間が父となり、私たちを学校に通わせるために兼業農家として働き、単身赴任までしてくれたこと。
そして今は、がんを患いながらも、笑顔で米やネギを作り、出荷していること。

すべてを語らなくても、
二枚の写真が、さまざまなことを思い起こさせてくれました。

たとえ父のことを知らない方がご覧になっても、
父の人生を想像し、
そこにご自身の記憶を重ねてくださるのではないかと思ったのです。

受け継がれる写真

父のカメラはミノルタ。
私はニコン。

そして、写真好きは妹の娘へと受け継がれました。

私がいつも撮る姿を見て興味を持ったのか、
ある日「ひろみちゃん、教えて!」と、かわいいカメラを持ってきたのです。

それが、次に帰省したときには、
なんと SONYのミラーレス になっているではありませんか。

撮る姿もなかなか様になっていて、
父も私も、嬉しくてたまりませんでした。

子どものスポンジのような吸収力は本当にすごくて、
どんどんいい写真を撮るようになっていきます。

抜かれないように、私も気を引き締めなければ……!(笑)

次に帰ったとき、どんな写真を見せてくれるのか。
今からとても楽しみです。

今回の展示では、そんな姪っ子もモデルを務めてくれました。

セルフポートレートへの挑戦

セルフポートレートは、夏歩さんからずっと勧められていました。
撮ろう、撮ろうと思いつつ、自分の容姿や体型と向き合うのが怖すぎて、なかなか撮れずにいました。

もちろん、無理に撮る必要はないのですが、
撮られることを学ぶことも、写真家としては大事なのではないかと思い、少しずつ撮り始めました。

実際撮ってみると、これが難しい。
想像をはるかに超えて難しい。

技術的なこと以前に、まず自分の容姿と向き合うことが、とても苦しかったのです。
顔の形やパーツ、体の骨格が、ビジュアルとして全く美しくない。

中学生のとき、隣の席の男子に
「顔がでかい!もっとしゅっとすればマシなのに」
と言われたことを、ふと思い出しました。

自分がいつも撮っているモデルさんたちを真似して撮り始めましたが、
そもそも美しさが違いすぎるので、
撮った写真が残念な印象になるのは、ある意味仕方がありません。

だから、ゴールを
「いつも自分が撮っている写真」と同じ場所に置くのではなく、
まったく別のところに置く必要がありました。

そこで私は、
「美しい人を撮る写真」ではなく、
「生きている人の時間を写す写真」
を探すようになりました。

そんなとき出会ったのが、
フィンランドの写真家 Elina Brotherus の写真集、「Seabound」です。
(下のリンク先から作品をご覧になれますので、ぜひ!)

私より2歳年上の彼女が撮る、風景とセルフポートレートは、とにかく美しい。

それは、若くてかわいい、綺麗という意味での美しさではなく、
人生のストーリーが感じられる美しさです。

風景とマッチするカラフルな洋服。
ただそこに佇んでいるだけなのに、写真として、とても静かなパワーを持っています。

すごい!
私もこんな写真を撮りたい!!

今回の個展では、彼女へのオマージュともいえる作品も展示します。
まだまだ拙いセルフポートレートではありますが、
ぜひご覧いただけたら嬉しいです。

会場には彼女の写真集も持っていきますので、
お時間のある方はぜひ手に取ってご覧ください。

セルフポートレート。
衣装はもちろん、森英恵さんのヴィンテージ。

ルッキズムの呪いとどう戦うか?

ルッキズムの話はセンシティブなので、嫌な方は読み飛ばしていただければと思います。

よく、「ひろみさんは自分で言うほどブスじゃないよ」と言われます。
そうだといいのですが、幼いころから母に「あんたはブス」と言われて育ったこともあり、私の中にはその言葉が、まるで呪いのように残っています。

ある意味、昭和という時代は、ルッキズムが謳歌していた時代でもありました。

就職したのは平成10年ですが、昭和の価値観の人たちがたくさんいました。
それなりに酷い言葉を投げかけられることも、たびたびありました。

「前の担当者の方が美人でよかった」
そんな言葉は日常茶飯事でした。

ブスはブスなりに、ブスをカバーするために、
毎日ニコニコ笑って、とにかく仕事を頑張る。

そんな日々を、ずっと過ごしてきました。

令和になり、多様性が認められるようになって、少しはましな世の中になるのかなと思っていた頃。

まだ東京に来る前のことですが、当時の恋人にそれはそれは酷いことを言われたことがありました。

あまりにもひどいので詳細は伏せますが、1年以上立ち直れないほど、私の容姿や体型を、他の人と比較された上で否定されました。

彼は写真が趣味でした。
そしてこう言いました。

「ひろみを撮ろうと思ったことは一度もない。美しいものしか撮らないから」

その言葉を、私は一生忘れないと思います。

そんな出来事もあり、私のルッキズムへの恐怖は、ますます強くなっていきました。

自分が写った写真と向き合うのが怖い。
ブスな私は、無価値なんじゃないか。

そんな気持ちが、何度も何度も蘇ります。

それでも、今、私が撮った人たちは
「自分じゃないみたい。綺麗。嬉しい」
と言ってくれることが多く、その喜ぶ顔を見ているうちに、
私が私自身を受け入れて、私の良さを引き出せばいいのではないか
と思うようになりました。

尊敬する写真家・青山裕企先生の著書
『コンプレックスは武器になる。』 にも励まされました。

セルフポートレートで「いいな」と思う写真を撮ることは、
もちろん簡単ではありません。
でも、何度も角度や向きを変えて、設定を変えて撮るうちに、
少しずつ
「私だって、なかなかいいじゃない!」
と思える瞬間が増えてきました。
(本当は、ひねくれ者なので、ちょっとはマシじゃん!と思いましたw)

メイクも研究しましたし、体型の維持(いや向上!)も頑張りました。

一般の方、特に私と同世代以上の女性を撮るとき、
みなさんよくこう言います。
「もう年だから撮りたくない」
それでも必要に迫られて写真を撮らなければならず、
私に依頼してくださいます。

そんな彼女たちが、私はとても愛おしく感じます。
自分と重ねて、涙が出そうになることもあります。

なぜ日本は、若さや顔の綺麗さ至上主義なのか。

年齢を重ね、しわのある顔にも、その人の人生や尊さが写ります。
それは、とても美しいことだと思うのです。

先日、鹿児島で撮影させていただいた方が、こんなことを言ってくださいました。

「今の自分を写真で見るのは嫌だったけど、
ひろみさんに撮ってもらって、今の自分が好きになれた」

この言葉に、私の方が救われました。

「誰かの眼差しに受け止められることで、人は自分の存在をあらためて感じる」

ステートメントに書いた言葉は、
まさにこの言葉が教えてくれたことです。

今回の個展では、そんな友人たちのポートレートも展示します。

中には、「また撮ろうね」と言って渡した写真が、
遺影になったポートレートもあります。

多くのイベントでお世話になった
作曲家、故織田英子さん(1953-2025)

移り行く時代が写るもの

「桜標」という言葉に込めたのは、移ろいゆく時間の中に刻まれた、その人、その瞬間の“しるし”です。

個展の最後に展示するのは、コロナ禍に撮影した二人の女性の写真と、現在の彼女たちの写真です。

大学時代の彼女たちは、新型コロナウイルスの影響によって、私たちが当たり前に経験してきた「普通」の大学生活を送ることができませんでした。

人と人との間に大きな距離が生まれていたあの時間も、
たった数年前のことなのに、いつの間にか思い出す機会も少なくなりました。

そんな中、彼女たちは自主映画を制作するプロジェクトを企画しました。
私はその撮影に、ボランティアとして参加しました。

そのときに撮影した写真と、
社会人となった今の彼女たちの写真を、今回の展示で並べています。

その映画のタイトルは、「サイアノタイプ」
サイアノタイプとは、青色の発色を特徴とする19世紀に発明された写真方式です。所謂、青写真。
人生の分岐点に立つ若者の青春ドラマで、写真がメインモチーフとなっています。

私も少しだけ出演しています。
(メインはカメラマンとして撮影で参加しています。)
ラスト近くの夕焼けのシーンは、私にとっても渾身のカットです。

30分ほどの作品ですので、
もしよろしければ、ぜひご覧いただけたら嬉しいです。

最後に

個展会場はルデコの地下ということもあり、少し閉塞的なイメージがあるかもしれません。

混み具合にもよりますが、私のお気に入りのお茶をご用意して、お時間のある方とはゆっくり写真談義ができたらと思っています。

一番のお気に入りは、一保堂さんのいり番茶。
辻利のほうじ茶もあります。
鹿児島で買った知覧の深蒸し茶もあります。

まだ少し肌寒い春の日に、あたたかいお茶を飲みに、ぜひいらしてください。

きっと、古いアルバムをめくりたくなる。
大切なあの人を思い出す。

そんな展示になっていると思います。
(たぶん……笑)


渚ひろみ個展
「桜標(さくらしるべ)On Time and Portraiture」

2026年3月17日(火)〜22日(日)
11:00-22:00(最終入場21:30/最終日は17:00)
入場無料

ギャラリー・ルデコ
東京都渋谷区渋谷3-16-3 髙桑ビル B1F
(JR渋谷駅新南口出口、東横線・副都心線 渋谷駅:C2出口から徒歩3~4分。)
※1Fからエレベーターをご利用ください。
混雑時は階段のご利用も可能です。


桜のスナップ写真も展示します🌸

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