「私」の正体とは何か?(37兆個の細胞、38兆個の菌)
この記事の内容を、AIキャスターがラジオ風に分かりやすく解説しています。 移動中や作業用BGMとして、まずは音声でお楽しみください。
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鏡に映る自分を見て、「これが私?」と疑う人はあまりいないでしょう。
私には名前があり、過去があり、確固たる身体がある。
長年生きてきて、私はずっと〇〇という名前の個体として存在している。
そう信じて疑いませんでした。
しかし、ここ最近、ふとした瞬間に強烈な疑問に襲われることがあります。
「本当にそうだろうか?」と。
現代科学の知見と、古来からの仏教哲学。
この二つのレンズを重ね合わせたとき、私たちが当たり前だと思っている「私」という存在の輪郭が、急にぼやけ、そして溶け出していくような感覚を覚えるのです。
今回は、そんなミクロの宇宙と精神世界を行き来する、少し不思議な旅の話をさせてください。
「60兆個」の神話崩壊と、新たな相棒たち
かつて、人間の身体は「約60兆個」の細胞でできていると言われていました。
学校の生物の授業や、テレビの健康番組でもそう耳にした記憶がある方も多いでしょう。
しかし、科学の世界は常に更新されています。
2013年に掲載された論文(Eva Bianconi, et al. “An estimation of the number of cells in the human body.”)によって、その定説は覆されました。
現在、私たちの身体を構成する細胞の数は、より正確に「約37兆個」であると推計されています。
「なんだ、半分近く減ってしまったのか」と寂しく思う必要はありません。
なぜなら、私たちには強力な、いや、強力すぎるほどの「相棒」がいることが分かったからです。
それが「常在菌」です。
私たちの腸内や皮膚、口の中に住み着いているバクテリアたち。
かつては細胞の数の10倍、100兆個もいると言われていましたが、これも最新の研究(2016年)で修正されました。
その数は、なんと「約38兆個」。
お気づきでしょうか。
・人間の細胞が37兆個。
・菌の数が38兆個。
私たちの身体の内側では、「人間」と「人間以外の生物」が、ほぼ1対1の比率で拮抗しているのです。
さらに面白い話があります。
体内の菌の大部分は、大腸の内容物(便)に含まれています。
つまり、私たちがトイレで排便をするその瞬間、数兆個単位の菌が体外へ排出されます。
研究者たちは真顔でこう言います。
「トイレで用を足した直後だけ、人間の細胞数が菌の数を上回り、私たちは真の意味で『人間』になる」と。
私たちは「自分一人で生きている」ような顔をして街を歩いていますが、実態は違います。
37兆個の細胞という集合住宅に、38兆個の居候を住まわせている、巨大な「歩く生態系」。
それが私の、そしてあなたの物理的な正体なのです。
私たちは「固体」ではなく「流れ」である
さらに視点を変えてみましょう。「水」の話です。
「人間の身体の70%は水でできている」 これもよく聞くフレーズですが、厳密には年齢によって変化します。
生まれたての赤ちゃんはプルプルの80%近くが水ですが、成人男性で約60%、そして還暦が近づく年代になると、50%程度にまで低下していきます。
「老い」とは、ある意味で「乾燥」のプロセスなのかもしれません。
しかし、ここで注目すべきは割合よりも、その水がどう存在しているかです。
身体の水分の3分の2は、37兆個の細胞の中に閉じ込められています。
残りの水は血液やリンパ液として流れています。
そして、この水は一瞬たりとも留まっていません。
今日飲んだ水が身体を巡り、数週間、数ヶ月かけて細胞の中身を完全に入れ替えていきます。
生物学者の福岡伸一氏は、これを「動的平衡(どうてきへいこう)」と呼びました。
川を想像してください。
遠くから見れば、そこには昨日と同じ「川」があります。
しかし、近づいて見れば、流れている水は昨日とは全く別のものです。
人間も同じです。 昨日の私と今日の私は、物質レベルで見れば全くの別物です。
細胞は入れ替わり、水分は循環し、菌の勢力図も変わっている。
それなのに、なぜ「私」という意識だけが連続しているのか。
中身は完全に入れ替わっているのに、なぜ私は私であり続けるのか。
物質としての私は、確固たる「固体」ではなく、絶え間なく流れ続ける「現象」や「管(パイプ)」のようなものに過ぎないのではないか。
そんな思いが頭をよぎります。
仏教が見抜いていた「五蘊(ごうん)」の真実
科学がようやくたどり着いたこの「私なんていない(無我)」という事実に、2500年も前に気づいていた人々がいました。仏教の徒たちです。
お釈迦様は、人間という存在を「五蘊(ごうん)」という言葉で説明しました。
「蘊」とは集まり、という意味です。
人間は確固たる魂のような実体ではなく、以下の5つの要素(パーツ)が一時的に集まって機能しているだけのシステムだというのです。
色(しき): 肉体・物質(さきほどの37兆個の細胞や水にあたります)
受(じゅ): 感覚(熱い、痛い、赤いなどの生のデータ)
想(そう): 認識・イメージ(記憶と照らし合わせて「これはリンゴだ」と判断する)
行(ぎょう): 意志・作用(「食べたい」「手に取ろう」という心の動き)
識(しき): 識別(それらを統合して認識する意識)
例えば、目の前に美味しそうなケーキがあるとします。
「目(色)」がそれを捉え、「甘そうだな(受)」と感じ、記憶から「これはショートケーキだ(想)」と理解し、「食べたい(行)」と意志が働き、最後に「私がケーキを見ている(識)」という自覚が生まれる。
仏教の恐ろしいほどクールな分析によれば、この一連の高速処理プロセスがあるだけで、その奥に操縦席に座る「私」という主人公は存在しないのです。
車をバラバラに分解したら、タイヤやエンジンやハンドルという部品しかなく、「車」という正体は見つからないのと同じです。
五つの要素が渦を巻くように集まり、循環している現象。
それに便宜上「私(〇〇という名前)」のラベルを貼っているだけ。
そう考えると、私たちが抱える「老い」や「病」への苦しみも少し違って見えてきます。
「私の身体が悪くなった」のではなく、「自然界の要素のバランス(五蘊の流れ)が変化しただけ」なのですから。
意識はどこから来て、どこへ行くのか?
では、この精巧なシステムである「身体」を動かしている「意識」とは何なのでしょうか。
ここからは私の仮説、そして8年前にお酒をやめて以来感じている直感的な話になります。
哲学者や思想家など、先人たちの言葉を借りるなら、人間とは「宇宙とつながる受信機」のようなものではないでしょうか。
脳が意識を作り出しているのではなく、脳は意識という電波を受信するためのアンテナに過ぎない。
37兆個の細胞、38兆個の菌、そして体内を巡る水。
これらはすべて、その受信感度を高めるための精巧なパーツです。
私が8年間、一滴もお酒を飲まずに断酒を続けているのは、単なる健康管理というよりも、この「受信機」のノイズを取り除くためだったのかもしれません。
アルコールというノイズが消えたとき、身体という「管(パイプ)」の中を、何かがスムーズに通り抜けていく感覚があります。
それを「気」と呼ぶ人もいれば、「エネルギー」と呼ぶ人もいるでしょう。
私は記事でよく「身口意のエネルギー」について書きますが、そのエネルギーは私の小さな肉体の中で自家発電されたものではなく、大きな宇宙という根源から流れ込んできているもののように感じるのです。
空海の右手に握られた「答え」
この話の最後に、一つの象徴的なアイテムについて触れたいと思います。
真言宗の開祖、弘法大師・空海の像をご覧になったことがあるでしょうか。
彼は右手に、両端が鋭く尖った金属製の法具を持っています。
これは「五鈷杵(ごこしょ)」と言います。

元々は古代インドの武器でしたが、密教では「煩悩を打ち砕く智慧」のシンボルです。
注目すべきは、その爪が「五本」であることです。
先ほど、人間を構成する迷いの要素として「五蘊(ごうん)」の話をしました。
密教では、修行によってこの「五蘊」が、そのまま仏様の5つの智慧である「五智(ごち)」に転換されると説きます。
人間の迷い(五蘊)と、仏の智慧(五智)。
これらは別物ではなく、コインの裏表なのです。
空海が右手に五鈷杵を力強く握りしめている姿は、こう語りかけているように思えてなりません。
「お前たちの身体は、壊れやすく、移ろいやすい細胞と菌の集合体(五蘊)に過ぎないかもしれない。
だが、その危うい身体こそが、宇宙の真理(五智)を宿すための聖なる器なのだ」と。
私たちは、トイレに行けば多数の菌を排出し、水だらけの身体であり、頼りない存在です。
確固たる「私」なんてものは、どこを探しても見つかりません。
しかし、だからこそ面白い。
固定されていないからこそ、流れることができる。
空っぽの「管」だからこそ、そこに宇宙のエネルギーを通すことができる。
37兆個の細胞たちと、38兆個の居候たち。
彼らが今日も文句も言わずに、私の身体という「現象」を維持してくれていることに、深い敬意と感謝を感じずにはいられません。
「私」とは、個体ではなく、壮大なチームプレーの名前なのです。
そう思うと、老いることも、変化することも、そう悪いことではない気がしてきませんか?
私たちはただ、大いなる流れの中にいるのですから。
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