ほうれん草を概念にする朝
朝五時。目覚まし時計より先に、犬の舌が私の顔面に出勤してくる。
以前は、私が起きないと前足で容赦なく顔を掘削していた。発掘現場のような勢いだった。しかし最近は違う。おでこのあたりに、そっと前足を置く。
ぽん。
まるで「お時間ですが、いかがなさいますか」とホテルマンが肩を叩くみたいに。
優しくなった。
優しくなったのだが、その優しさが妙に効く。乱暴に起こされるよりも、「この信頼を裏切ってはいけない」という気持ちになり、結局起きる。
犬は私が起き上がったのを確認すると、自分は再び寝た。
管理職みたいだな、と思う。
出勤確認だけして帰る人。
私は右腰をかばいながら、整体の先生に教わったストレッチを布団の上で一セット行う。腰は良いとも悪いとも言えない。今日もこんなものかと体を起こす。
その後、高校生の息子の弁当作りに取りかかる。
給食という存在は偉大だった。
家庭で栄養バランスが多少崩れても、「まあ給食があるし」と思えていた。しかし弁当生活になると話は違う。彼の昼の栄養はほぼ私の双肩にかかっている。
そう考えると急に怖くなる。
だが当の本人は、そんな母の使命感など知らない。
トマトを入れれば残す。
たとえ彩り担当として採用しただけのミニトマトであっても、彼は容赦なく戦力外通告を出す。
好き嫌いのない子に育てよう、などという理想は何年も前に消えていた。
今は「ギリ食べられる野菜を探す」という現実路線である。
いんげん、にんじん、まいたけ。
それらを肉で巻き、焼肉のタレでまとめる。
焼肉のタレには不思議な力がある。
ほとんどの野菜を「まあ、食べてもいいか」という存在へ変えてしまう。
卵焼きにはほうれん草を入れる。
細かく刻む。
さらに刻む。
まだ刻む。
ほうれん草だったものが、もはや概念になるくらい刻む。
野菜の食感が嫌なのだという。
そんなに繊細な舌なら、一度自分で弁当を作ってみてほしい。
きっと二日目には冷凍食品に土下座している。
ブロッコリーは茹でたあと、キッチンペーパーの上で水分を取る。
これも薬剤師さんママから教わった知識だ。
私の弁当づくりは、近所のママたちの叡智と冷凍食品メーカーの技術革新によって支えられている。
おかずが完成すると、犬の散歩へ出る。
犬にとっては朝の運動だが、私にとってはおかずの冷却タイムである。
帰宅して弁当箱に詰める。
ご飯の上には瓶詰めの秋刀魚のそぼろ。
これも薬剤師ママさんから教わった。
薬剤師ママさんは薬だけでなく、人生も処方してくれる。
冷めた肉巻きを切る瞬間が好きだ。
断面から野菜が顔を出す。
まるで色鉛筆の箱を開けたみたいで少し嬉しい。
今日は八切れ。
自分の昼用にも詰める。
同じものを食べると、「ちゃんと作った感」が出る。
完成した弁当を保冷剤とともに袋へ入れ、テーブルに置いた。
すると息子が、昨日の弁当箱を出していなかったことに気付いた。
気付いたというより、発見された遺跡のようにシンクへ置いた。
慌てる様子はない。
私は言う。
「学校から帰ったらすぐお弁当箱出して」
少し間を置いて、
「ついでにシャワーも浴びちゃいな」
と続けた。
普段なら言わない。
だが、昨日の弁当箱を一晩熟成させた人物に対しては、こちらにも交渉材料がある。
息子は珍しく素直に、
「うん」
と言った。
そして弁当を持ち、
「どうも」
と一言残して出ていった。
玄関が閉まる。
私は静かになった家で、自分用の弁当を見た。
犬はふたたび寝ている。
息子は学校へ行った。
私は今日も肉巻きを作った。
誰も褒めないし、私も別に褒められたいわけではない。
ただ、秋刀魚のそぼろをかけたご飯と、ほうれん草を限界まで刻んだ卵焼きを見ていると、家族というのは案外こういう地味な工夫の積み重ねでできているのかもしれないと思う。
そして明日もたぶん、トマトは入れない。
