【短編】北の街で(お題:レシートに)
「レシートに、店名や電話番号はなかったの?」
尤もなことだ。しかし……
「あの店にはキャッシャーがなかったんだ。それに、きっちりしたレシートが出るのも、それを几帳面にとってあるのも、ハードボイルドじゃないやん?」
アイスティーのグラスに挿したストローを“カラリン”と一周させた彼女は、“しょうがない人ね”を意味する微笑を湛えたまま
「何、それ?」
と言った。
「だから、こう……店を出る時には、店主との目配せで。店主がメモに走り書きで金額を記して、こちらも無言で払う、みたいな」
「それがハードボイルドなの?」
軽く首を傾げて、彼女が問う。
女性には分かるまい、あの感じ。
いや、多くの男性にも分からないかもしれないし、今どきの私立探偵は、経費精算のためにレシートが要るのかもしれない。若かりし日の佐久間公はどうしていたんだろう?
「じゃあ、洒落たショップカードもなくて、紙マッチの世界観ね」
彼女には、ハードボイルドのココロがあった。
そもそも、以前、仕事で訪れた札幌で行った(はずの)、店名も分からず、場所も憶えていない珈琲屋を探したい、という動機の旅行に「なんだか楽しそうね」と言って付き合ってくれている時点で、好奇心と冒険心の佳き理解者である。
そんな女神様は、案外少ない。
「酔って一人で街に出て、どうやって辿り着いたか分からない、と。イヤなことでもあったの?」
「いや、仕事は最良の結果だったし、むしろ気分は良かったんだ。それで、ちょっと独りになりたかった。多分ね」
彼女は、例の微笑を浮かべて、
「その夜の話を聴かせてごらんなさい、探偵さん」
と言い、もう一周、グラスの中の氷を“カラリン”と回した。
~♫♩~
もう10年以上、お付き合いいただいている企業の株主総会が終わった。
幸いなことに、増配までする好業績で、株主との懇親会は大いに賑わい、皆さん笑顔で帰路につかれた。
その中の幾人かは、二次会と称して薄野の何処かに流れていくのだろう。
当方は、総会が催されたホテルに宿泊、明日の午後便で帰るだけ。
ひっきりなしに注がれた酒の酔いを覚ますのか、独りでさらに酔うのか、決めかねたまま夜の街に迷い出た。
妙に褒められ、感謝された夜は、大抵こうなる。
「そんなわけないだろ」と思うからである。
梅雨がない、と言われる街も、今日は暑かったと当地の人が言っていた。
それでも、吹く風は心地良かった。
ふらふら歩くうち、この店に行き当たった。
日付が変わろうかという、深い時間まで来訪者を迎える珈琲屋。
酔いを覚ます方になった。
客は僕の他にもう一人、気配を消すように、何か書き物をしている。
マランツのアンプを核にした、玄人好みのオーディオセットがキース・ジャレットのピアノを低く鳴らし、店主の背後のラックには一つとして同じものがないカップ&ソーサーが並ぶ。
マンデリンを頼むと、“銀髪”と表現したくなる髪を短く整え、蝶タイを結んだ店主がポットを火にかけ、一人分の豆を挽き、一見では憶えられないルーティンを経て丁寧な一杯を淹れてくれた。
カップに口をつけ、望んでいたとおりの深煎りであることを感じて深いため息を吐いたとき、ピアノが木住野佳子に代わった。『Praha』だった。
店主は微かに笑い、一つ頷いて背を向けた。
学生だった遥かな昔、駅から大学に向かうのとは反対の方向に「朱夏」という名の喫茶店があった。
部活で入ったオケでも学部のゼミでも、人に、集団にまみれていたくせに、どうしようもなく独りで、時折、隠れるようにマンデリンを飲んでいた。
この歳になっても、同じことを北の街でやってる。
店主は何も喋らない。
けど、時々控えめに咳き込んでいる。ハードボイルドだって風邪はひく。
キャッシャーのない店だから、カウンターで店主に代金を払い、礼を告げて店を出た。
カウンターの隅にはジェイムスンのボトルがあった。
いつか、もっと深い時間に訪ねて、その水割りを頼んだら、寡黙な店主は「どうしたんですか」と問いかけてくれるのかもしれない
~♫♩~
話し終えた時も、彼女の瞳にはあの笑みが浮かんでいた。
「ちょっと気障、いえ、おセンチね。どうして“独り”だったの?その会社の皆さんや、株主の方々は、あなたの仕事に感謝してくださったのでしょ?」
「僕は非常勤なんだ。この土地に生きて、現場で悩み、汗をかくわけじゃない。現場で働き、経営に迷いが生じた人に、彼らとは違う視線で一つか二つ、思うところを話して、あとは信じて、勇気を持ってもらうだけだ。だから、好業績の慶びは全て、彼らのものなんだよ。僕はそのお相伴に預かってるだけだ。」
「面倒な人ね。あなたが皆さんから好かれているのも、同じ理由だと思うけど。札幌に来ているのを内緒にしなきゃいけないくらい」
「君と一緒に来てると伝えた瞬間、祝宴と接待になる」
「それは避けなきゃね。この後はどうするの?おセンチな探偵さん」
昨日のお昼前に新千歳空港に着き、札幌に移動して、チェックインと夕食を挟んで23時過ぎまで、記憶を呼び起こそうと街を歩いた。
歩きながら、この街での僕の仕事ぶりを、彼女はそのデビュー戦から知りたがり、僕はそれを話した。彼女はそれを楽しげに聴く、優秀なインタビュアーだった。
「そうだなぁ……“幻の珈琲屋”のままで佳いのかもしれない、って気分になってきた。きっと……」
「きっと?」
「きっとあの店は、ああいう店は、独りでいる人の前に現れて、扉が開くんだ。それがこの街じゃなくても。なら、もうずっと、あの扉は開かなくていい」
「せっかく来たのに?」
「来た甲斐はあったよ。昨日からこっち、いや、そのずっと前から、隣で話を聴いてくれる人がいる僕には、あの店を探し当てて、ジェイムスンの水割りを頼む必要がないと分かった」
「私も、一緒に来た甲斐があったわ。私が隣にいなかった頃のあなたのことを、また一つ聴けた」
「探偵ごっこは終了。ここからは、ハードボイルドに寛容な女神様をもてなす旅だ。第一夜は、この街でとっておきのイタリア料理屋にご案内」
この土地の食材に惚れ込んで神戸から移住し、そこでバイクに目覚めた料理人が営むトラットリアだ。同じ時期に通った大学では工学部で、FC3Sを巧みに操る車好きだった。「二人で訪ねるよ」と伝えた際には、「腕によりをかける」と意気込んでいた。
「そのお店でも、私の知らないあなたの話が聴けるかしら?楽しみ」
“ご機嫌さん”の彼女と歩く、夜が始まったばかりの街は、心地よい風にライラックが薫る。
今夜は、彼女が探偵だな。
(了)
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