【ログ】愛を受けとるには? 浸かることと、愛のかたまりだよを認めること
愛にふれるは出来るけど、受けとるは抵抗がある。
冬の静けさと灯りになりたいライフコーチのなほです。
剥がれては還り、ころん、と生きる。
きらきらしたら、ぷかぷかに戻るリズムの中で、私のままで、もうすべてそろってる。
コーチには守秘義務があり、コーチングセッション(コーチと2人で対話する時間をこう呼びます)で話したことが外に出されることはありません。
このnoteは、私がクライアントとしてコーチングセッションを受けた記録です。
受けとることが恐いから、ふれるから始めている。
私は愛を受けとりたいでもあるけれど、具体的には、クライアントさんがコーチングを受けたいよって互いに出会える未来を受けとりたい。
愛がすべての土台だと思うから、そこが受けとれるようになることで世界は変わっていくと思う。
マイコーチはふかふかの愛がある人だから、愛について話して大丈夫だと思えた。誰にでも話せるじゃないんだよ。
noteに私は愛について書いているけれど、それはここがnoteという街で誰も私を傷つけてこないから。
マイコーチは、ふかふかの愛があって、すごく繊細な愛があるんだよ。
とても繊細に愛を感じとれる人なの。
だから、対話の場をプールとイメージしている私は、薄い緑色の愛(人によって色はちがう)が溶けた水の入ったプールに浮かばせてもらう時間を過ごしているんだけど、今日はそのプールに浸かって、一緒に泳がせてもらった~。幸せ。
コーチングという対話は、浮かぶも泳ぐも出来るんだ。
「受けとる」には強制や侵食という呪いがついていることが、垣間見えた。受けとるの前に私にとっては、浸かることが安心の中で出来ることで、吸収してみる。また、愛がある私を認めることは、愛を与える人になることじゃない。
私を満たすことで、まず私の中で循環し、それが周りとの循環になる。
前回からの振り返り
大きくは2つあって、1つは第2の私への理解。
終了という概念がないから、止まれない。合図が必要。
そして、私の内側で起きていることは、外でも起きていた。
場の空気を読んでいた私は、周りの人に私の主導権を渡してしまっていた、ということをコーチングで話したことがあって、それと同じことが起きていたとつながった、と話した。
第2の私に、任せるね、頼むね、ってリソースとして力を借りるではなくて、主導権すらも渡していた。
それは無自覚にしていて、だから関係がうまく築けなくて、乗っ取られていたという言葉になるし、困っていた。
ここからは、「対等に」パートナーシップを築いていく、一緒にがんばっていこうって言える新しい関係を築きたい。
コーチとして生きていくという場で私は活躍してほしいと思っていて、まずはリハビリから。短期間、具体タスクから。
長い付き合いだけど、関係性がはっきりと更新されると思った。
愛にふれるとは、受けとるとは
手のひらでそっとふれる感じです。
私が手を伸ばす。
手のひらだけで接しているから、境目がちゃんとある。
ちゃんとあるし、入ってこない。
今書いてみて思うのは、入ってくることに抵抗があるんだと思っていて、それは入ってくるじゃなくて、私にとっては侵食に近いんだ、と思った。
受けとるはどんな感じかと言うと、取り込む感じだったから。
途中で、受けとる時は中身が怪しい、点検できないって話していて、それも私の傾向だ。
受けとる=全部の式があって、選ぶを練習中だ。
選択したり、いらないものは置いておく、一部を受けとることは私にとって高度スキル。
愛を受けとる、出来ている時もあるんだけどなぁの今ここ。
ふれている私は何に呼ばれているのか?
みたいな問いをもらった(ちゃんと覚えてない)。
あたたかい愛に呼ばれていた。
「こっちにもっとあたたかい愛があるよ。」
今ふれさせてもらっている愛もあたたかいと思う。
けど、もっとあたたかい愛があって、呼ばれている。
愛を感じてみた
もっとあたたかい愛はどんな感じ?ときかれたら、
それは光で、あたたかいからオレンジ色って思ったけど、感じてみてと言われたら、
「浸かる」だった。
私は愛のある場をプールと捉えているから、そのイメージとつながっているのだと思った。
もっとあたたかい愛がプールのように限られた場なのかは分からないけれど、肩まで浸かった。
どのくらいのあたたかさ?
ぬるいのかな~と思ったけど、40度くらい。温泉みたいだ。
肩まで浸かると、ほどける~ってなった。
ほどけるで、何がほどける?
感覚。
感覚、心、私が開く。
安心があるんだと思った。
浸かっていると、安心できるからほどけて私が開いていける。
そして、染み込んでくる。
愛が染み込んできていて、私も何かを出していて、小さく交換みたいなことが起きてると話した。
染み込んでくるものは、必要なものだけだった。
しかも、スピードはとてもゆっくり。
必要なものだけ、つまりいらないものは染み込んでこない。
これが大事だと思う、とコーチに話しました。
受けとる時、それはいらないものも含まれているかもしれないから。私にとってはちょっと強制みたいな力が働いているように思っていて、選べない。
ああ、選べないよねって思った。練習中だからそれでいい。
「浸かる」と「ふれる」何が違うかというと、接地面の広さが全然違う。手のひら1枚か2枚の大きさでしかふれていなかったのが皮膚の表面積全部でふれていて、感じている。
これ、私にとっては大きな変化で、けれど、私の外側にある。
しかも、皮膚全体であたたかいなを感じていて、吸収するは起きているけれど、とても微細でゆっくり起こる。
ゆっくりも大事そうだと書いてみて思った。
受けとる=今すぐにが私にあった公式だ。
受けとる、ではなくて「吸収する」と捉えた方がいいのかもしれないなと浮かんだからメモ。
「受けとる」についているイメージ、学習があまりにも私にとってはしんどい。呪いがついてるんだ、って書いてて思ったからメモ。
呪いがついてるなら、祓ったらいいけれど、祓うよりも、吸収~、浸かる~、ほどける~の方がいいなぁと思う。
染み込んできているものは?
ざっくり言ってしまうと、愛。
だけど、いろんなものが含まれていて、誠実さ、責任、思いやり、あたたかさ、みたいな色んなものが含まれている、と話した。
そして、私が出しているものも、多分、愛。
「多分、愛」と話していて、私にも愛はあると思うけれど、それが不確かで分からないんだ、って話した。
周りの人から私にある愛を気づかせてもらう、「愛があるよ」って言ってもらえるから、あるとは思うけれど、分からないんだ、って。
けれど、今私が話した愛の中身の言葉、全部私にあるよって、「愛のかたまりだよ」ってコーチが伝えてくれた。
「え?私、愛のかたまり?」
ってなっていて、嬉しかった。嬉しかったけれど、ここで受けとれないが起きていた。
私は他の人に対して、「愛のかたまりだ」と感じたことがある。
だから、それを私に感じてもらう、そうだよって言ってもらう言葉には少し特別な意味があった。
誰かに贈った言葉が、私に返ってきた。
こんなに嬉しい言葉はない。言葉は私にとって愛の通貨だから。
「一部、受けとってもらったような感じがします。」
とコーチがおっしゃっていて、そうなんだと思う。
嬉しいと思う私と、愛のかたまりなの?って思う私。
愛がある私を受け容れる
愛がある私になる、その光を受け容れるとどうなるのか。
私には愛があると認めると、どうなるの?というような問いをもらった。
考えたことなかったよね。
けれど、そこが核心だ。
愛がある私、私には愛があるを常に誰かの言葉を通して、ワンクッションおいて認識してきた。
けれど、自分で直視はせずに、あるとは思うけれど、よく分からない、としていて、それは本当に分からないも含むけれど、分からないにしておきたかったからだ。
私に愛があると認めてしまったら―
私は愛を与えなければならない。
それがイヤだったんだ。愛を与える側に立ちたくない。
だって、私は愛されたくて、まだ愛を周りから注がれたいって思っているから。
なのに、私は愛がある人ですって認めてしまったら、周りに愛を与えなければならない。
そして、私はそうしたら枯渇すると思っていた。
与えることによって私にある愛の総量がどんどん減っていって枯渇する。
けれど、これはコーチと話すことで、そうじゃないがすぐに分かった。
仮に、愛が与えるものだったとしても、与えても減らない。
そして、愛は与える、能動的にそうすることもあると思うけれど、多くの場合は、「あふれる」だと思っていて、漏れていて、にじんでいる。
自然と与えようとせずとも、周りの人が受けとったり、与えてもらったって感じる。
それを周りの人が「感じとる」。
「自分に愛を注ぎたいんだね」、というような言葉を返してもらって、その通りだと思った。
与えるのは、愛があふれている人がしたら良くて、過去、私は与える側、相手のニーズを汲んで生きることをしてきた。
だから、またそこに、その舞台に上がれと言われるのはイヤだった。
私が好奇心で生きたいんだ、ってそう生きようとすることで、そこに愛があって、周りの人はそれを感じるんだよってコーチが声をかけてくれた。
コーチが、心からかけてくれるI messageほど最強の魔法はない。
「なほさんは愛のかたまりだよ」も、私が好奇心のままに生きようとすることを肯定してくれる言葉もこれ以上ない魔法だ。
私はこの魔法で、コーチからあふれている愛を吸収したい。
私が私の中で愛を循環させること、これが最優先で、相手のために愛を与えようとしなくていい。
私の中で愛を循環させていれば、そこから愛は感じとってもらえるんだ。
愛があるか、ないかが分かるでしょう?
それは、愛を知っている人じゃないと出来ないよってコーチが教えてくれた。
私、全然愛について分かっていると思っていなかったけれど、自分で思っているよりも愛を分かっているのかもしれない。
愛に気づく道、思い出す道を歩いているけれど、意外と歩いてきた道は長くなっているのかも。
愛がない設定の世界を生きていて、去年の夏に愛がある世界が見える、ふれられるようになったんだ、とコーチに最初に話していた。
「愛を思い出している」。
「ない」から「ある」への転換は大変だけど、もうあるものを思い出す方が簡単だよね、という話をコーチとしていて、私も愛がない世界、正しくは、ない設定にした世界を生きていただけで、眠らせていた回路を起こす、私の中にある扉を開くことをしてきた。
ない世界からある世界に引っ越したのではない。
私のままで、もうすべてそろってる。
まとめ
急がなくていい。
「受けとる」は私にとっては、ちょくちょく考えてきたりふれてきたテーマで、早く受けとれるようになりたい、になっていた。
他方、時間が解決することでもあるのだろうな、とも思っていた。
「ふれる」→「受けとる」に移行するのは、私にとってはかなり差があった。
だから、いきなり「受けとれる」になろうとしなくて良くて、
①浸かるをする
浸かるのは、ふれるよりも圧倒的に表面積が広くなるし、ほどけていて、微細な交換が起きていて、ゆっくり吸収できるから。
②私は愛がある人だ、を自分で受け容れる
受け容れていなかったのは、私を守るためだった。
愛があるって認めてしまったら、それはもう与えなきゃになっていたから。
けれど、愛は与えることもあるけれど、多くはそうではない。
相手が感じとるもので、まずは自分で自分に愛を注いで循環させていたら、周りとの循環も起きる。
愛がある私になったら、どんな風にこれからの生活が変わる?
周りの人との関係が軽くなる、もっとあたたかいものになる。
私には素敵なコーチに出会える運があるけれど、愛がある、それもあふれていて、周りの愛を感じることも、それを伝えてくれることもしてくれるコーチに出会えている。
今日も、ふかふかの愛があるコーチに感謝です。私とともに私にとってのあたたかい愛がある世界、愛にふれること、受けとることについてともに探求してもらいました。
私は、コーチにふかふかの愛を感じているので、ふかふかの愛にモフッと大の字になって寝ころばせてもらったような時間でした。
ふかふかは、畑の土だよ。それはずっと変わらない。
ありがとうございました。
私、あたたかい愛がある人と出会える運もあるんじゃない?
私は世界から愛されちゃっているし、愛のかたまりです(ちょっとどきどきするけど、言ってみる)。
そして、愛されたいんだって思っているのもほんとのこと。
だから、まずは私が私の中で愛を循環させるために今日も私に愛を注ごう。
愛は、気づいたら漏れてたくらいでいきます。与えようとしなくていい。
(「受けとる」という言葉についている呪い、祓えそうなら祓うことはそっとメモ。→祓うじゃなくて、分解して戻してあげるかな?)
今日もここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この場所に、その日の気づきを静かに置いています。
また、書きにきます。
もし、この文章を読んで少し話してみたいと思うことがあったらプロフィールnoteに静かな入口を置いています。
▽前回ログ
▽私の中での前回から今日までの気づきの固定
▽現実でも主導権を渡してしまっていた私と他者との関係
愛に浸かるで、浴びるでもいいなーと思ったから追記。
愛はみんなの胸から出ている光。
そんなイメージも私は持っているから、浴びたらいい。
浴びるのは、調整できるんだ。
まぶしかったら、日陰にいってもいいし、カーテンを引いてもいい。
浴びたら私はただあたたかいな~を感じるだけでいい。
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