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"好き"という祈り

「昔の私は、“好き”を心にしまっていました。」

「好き」が重たいと思われるのが怖かった。

そこには本当に一片のくもりもない私の気持ちが詰まっている。
大げさでもないし、相手に媚びを売るでもない純度100%の私の気持ちが詰まっている。

だから、偽りのない私の「好き」を伝えれば良かったのかもしれないけれど、それができなかった。

ありのままの私じゃ、近づいたら拒まれるかもしれないと思っていた。

ありのままの私が素晴らしい人間だ、相手からも好かれる人間だとは思っていなかった。

ありのままの私が好かれるなんて、信じられなかった。

近づいた結果、「来ないで」と言われるのではないかと思っていた。

何とも思っていない人に、拒まれるのはダメージが少ないけれど、「好き」だと感じている人に拒まれるのは辛いし避けたい。

だから、“ちょうどいい距離”をつくるのがクセになっていた。

仕事で大好きだと思う人とちょっとした雑談になると、途端に私は調子が狂った。

仕事上での私、業務の話ならいくらでもできる。
仕事の私として接することが、私の距離の保ち方になっていた。

「休みの日は何してるの?」というありふれた世間話でさえ、自分を開くのが怖かった。
「好き」を伝える前に、ありのままの私を伝えることが怖かった。

同僚と個人的に飲みに行ったことは一度もなかったし、趣味の話もしなかった。
初めて先輩とお茶をしに行ったのは退職した後だった。

最初の一歩はとても大きなものだった

「好き」の前にそのままの私の気持ちを伝えるということをした。

「好き」も入っていたけれど、それ以上に怖さを抱えているということも伝えた。
ありのままの今の私、これ以上ない正直な私を伝えた。

父親へ手紙を出すこと。

両親が別れてからもう20年近く会っていない。
目的は、「子どもの頃の私は父が大好きだった」を伝えることだった。

そこには大きな葛藤があった。
単純に父と別れてから蓋をしてないものとしていた気持ちに、気づいたからには伝えたいだけではなかった。

父に私を受け容れて欲しいという気持ちも強くあることに気づいた。
ただただ私という存在を分かってほしかった。

そして、誰よりも父に拒まれることを恐れている私がいた。

他の人にも「来ないで」と拒まれることは恐かったけれど、誰よりも私は父に娘としての私を受け容れてほしかった。
世界で一番父に拒否されることが私は耐えられないと気づいてしまった。

今の私が父のことを好きなのか、これからも交流したいのか、それすらも分からないのに、冷たくされることだけは耐えられないと思った。

何もいらない。

ただ「元気にしてたか?いつも気にかけていたよ」って言ってもらうだけでよかった。

拒まれることを恐れているという気持ちですらも手紙に書いて伝えることをした。

涙が止まらないこともあったし、書くまでにも時間が必要だった。
私の気持ちを整理するために何度も私の心を聞いてもらって、ともにいてもらった。

私のために伝えるがあってもいい。

この手紙には返事がきた。私の気持ちは届いた。

だけど、幸せな返事とはかけ離れていた。
私が拒まれるは起きてはいなかったけれど、受けとめるには重過ぎた。
1人で抱えることができない重さだった。

伝えることをしなければ、届くこともなかった。
そのままの私をまっすぐに伝えたからこそ起きた。
ただ望む形ではなかっただけ。

願ったことが叶わなかったこと、それは別のもの。

願わなければ、私は伝えることもしなかった。
けれど願ったからこそ私はまっすぐにこれ以上ないほどにありのままの私を正面から差し出した。

叶わなかったのは、悲しいと思う感情を引き起こしたし、どうにもならないさまざまな感情が私の中にわいてきた。
怒りも諦めも悲しみも辛いも、名前のつけらない気持ちがあふれて、
どうしたらいいの?という言葉だけが鳴り響いた。

もう感じることはできない。
そうやって感情をゼロにした。

叶わなかったことは、痛み。
だけど願ったことまで、伝えたことまで後悔しない。

現実は願った通りにはならない。

けれど、願った私までなかったことにはしない。
私は私のために手紙を書いたんだ。
私が少し深く息を吸えるように、未来を明るく生きるために。

幸せに生きていくために向き合うことが必要だった。

父親には子どもの頃の私はあなたのことが大好きだったと伝えた。
一番恐れていた私が拒否されるは起きなかったけれど、私の望んだ形の受け容れられるは起きなかった。

「好き」を言葉にするきっかけ

ある時、思いきって「好き」と言葉にしてみた。
これにはちゃんときっかけがあった。

大好きになった人が教えてくれた。

「思ったことは正直に伝えるようにしている」

それは、「好き」という気持ちだけでなく感じたこと、考えたことを相手に言葉にして分かるように伝えているということだった。

それも決して押しつけるのではなく、自分が主語で相手を尊重した伝え方だった。

あえて言葉にしない、察してね、分かるでしょう?という空気を読むことが美徳とされるような考え方もある。

けれど、ちゃんと私に正直に言葉にして届けてもらったことで、私の心は動いた。

まっすぐに伝えてもらうことは人の気持ちを動かす。
私の気持ちはまっすぐに伝えていいんだ。

そう感じたので、私は「好き」を伝えてみることをしようと思った。

それまでも、私は率直に自分の気持ちを表現してきた。
けれど、それは安心できる人間関係の中だけでそうやってふるまえていただけ。

そして、好きだと思う人たちに対しては、慎重に距離をはかりながら「好き」を全部伝えちゃいけないよって自分に課していた。

全部を全力で伝えるのは相手にとってきっと重い。近づき過ぎることになる。
だから、抑えるし削る。

「好き」を文章にのせて伝える

ここではじめの一歩になったのが、文章で伝えるということだった。
私は書くことが好き。それも心から楽しい。

だから私はそっとnoteに「大好きです」の気持ちをのせてみた。

今までも、「大好きです」とnoteに書いていた。
感謝の気持ちとともに、大好きを贈っていた。

けれど、意識して伝えたいの意志を持って書くようになった。
「届けばいいな」ではなく、「届けたい」と思って書いた。

「好き」は届くし返ってくる

すると、ちゃんと返ってきた。
「好き」という言葉以外にもたくさんの気持ちを書いていたのに、「大好きが一番嬉しいです」ってお返事がきた。

たった一言かもしれないけれど、やさしいその言葉に私は伝えて良かったと思えた。

届く、重いって言われない、拒まれない。
そういう私の恐れていたことは起きなかった。

そればかりか、「届いたよ、嬉しいよ」っていうあたたかい言葉になって返ってきた。

私は意識的に「大好きです」を伝えようと思ったから、何人かに「大好きです」を伝えた。
その瞬間、本当にそう感じたからそう伝えた。

けれど、必ずしも返ってくることばかりではない。

だから、返ってくることはとても尊いことだということも学んだ。

何を返すかどうかは、受けとった相手の自由。
返さないことも、もちろんあっていい。

だから、責めたり何で返してくれないの?という気持ちはないけど、返ってくるが起きた時、とても嬉しかった。

そして同時に欲張りな私も見つけた。
「大好き」に返してもらいたいな~って思っている私。

そこには、相手とあたたかい関係を作っていきたいと願っている私がいる。

届くし、返ってくることがある。
だから、文章に「大好きです」と書くことはますます出来るようになった。

会話でも「大好きです」って伝えられるようになった。

そして、あなたのこういう所が素敵だと思うと全力で言えるようになった。
今までも、素敵だと思う所を伝えることはしてきた。

けれど、「重い」って思われるのではないか?と思っていたから、削っていた。
削って抑えていた。

今はこれが私の伝えたい気持ちだから、そのままの質量で言葉にのせる。

相手がどう受けとるか、受けとれるのか?は思いやるけれど、私の「好き」を抑えずに全部伝えることを解放した。

「好き」を伝えることは、私にあたたかい気持ちを感じさせてくれる。

そして、こんな所が素敵に見えているんだって言葉にすることは、私の好きを形にしてくれる。
大好きな人の輪郭がより鮮明になる。

好きは相手だけでなく、私も照らしてくれる

好きだと思う気持ち、どんな所が好きで魅力に映っているのか。
それを言葉にしていくと、相手の姿が立ち現れてくる。

と同時に私という人間も照らされると感じる。
こんな所が素敵で、好きだ。
けれど、私は少し違う。

ここが好きだと思うのは、私もあなたと同じようにこれが好きだから。

そんな風に、相手の好きな所を考えて言葉にしていく時間は、相手を照らしているようで、同時に私が照らされる時間でもある。

また、好きを言葉にしていると、もっと知りたい、ここが少し分からない、さらに好奇心がわいてくることと出会う。

好きな人のことを考えながら言葉にしている時間そのものも私を満たしてくれるけれど、新たな好奇心の芽が出てくる時間でもある。

それを相手に「どうしてなの?」ときいてみると、また1つ相手に近づける。
もっと好きになる。

世界がやわらかくなる

好きを伝えるを解放する前、私は人間関係において1つの発見があった。

私の周りには「好きな人」か「大好きな人」しかいない。
私の世界には苦手だと思うような人はいない。

素敵な人ばかりが周りにいるってなんて幸せなんだろう、と気づいた。

好きを言葉にして贈れるようになった私の変化はどこにある?

以前の私は、相手にどう思われるのか、「来ないで」と拒まれるのではないか。
その気持ちが先に立ち、そっと心にしまっていた。
伝えたい気持ちもあふれる言葉もたくさんあったけれど、全部をこのまま伝えてはいけないと思っていた。

けれど、相手のことの前に私を大事にすることが出来るようになった。
私が伝えたいなら、伝えたらいい。

「好き」という気持ちを伝えて、イヤな気持ちになる人はそんなに多くない。

私には心から好きだと感じられる心も、伝えられる言葉もある。
なら、私のために伝えるがあってもいい。

表情も雰囲気もまなざしも、「好き」という気持ちを伝えてくれる。
けれど、言葉で伝えることの強さを私は経験させてもらって知っている。

言葉にして贈れることは、あたたかい人とのふれあいを私に感じさせてくれた。相手に届いて分かち合える、そして返ってくる。

言葉にしていく時間は私が満たされていく時間で、楽しくて幸せな時間を味わわせてくれる。そこはある意味「私だけの閉じた世界」で、もうその幸せな時間できれいに完成されている。

相手からも「届いたよ」と返ってくる喜びは、その先にある世界。
こうして「好き」をまっすぐ伝えたり、言葉にして贈ることをしなければ、私に降り注ぐことはなかった。

人との関係は、怖さよりも、光のやりとりでできているのかもしれない。
言葉にして私の手から羽ばたいていくと、もうそれ以上先に望むことなんてなくてもいい。

だけど、届いた先からまたあたたかい光となって私を照らしてくれることがある。
この光は、ちょっと欲張りになった気持ちが返ってくることの幸せを知った私をあたためてくれる。

この欲張りは、「来ないで」ってそんなに近づかないでって言われる怖さを取り払うためにも今は許して欲しい。

今も「練習中」の私

初対面が得意になったわけじゃない。
でもまっすぐに私が感じたことを伝えてもいい、「大丈夫、伝えられる」という確信が私にはある。

怖いよって思う私もいる。だけど、相手がどう感じるのかを思う時、それはただの想像だよねって言ってあげることができるようになった。

そして、おまじないを私は教えてもらった。
「相性が合わなかっただけ」
「万人に好かれる人はいないよ」

だから、相手を信じて私から伝えることを練習中。
自分から開いていく。

私は今、人と自分からつながること、あたたかい関係を作ることを練習している。
それは、世界とつながる方法。私の言葉で扉を開けていく。

「好き」は勇気。でも、私が私であるための勇気だと思う。
好きを感じるたびに、私は相手の中に光を見る。
そして、その光は私を照らして、私という存在の輪郭をくっきりとさせる。

光のリレー

伝えいたいなら、伝えたらいい。

「伝えたい」、そう思う気持ちには何か強いものが宿っている。
「好き」という気持ちなら、それはあたたかいものに違いない。

だから、あなたにも伝えたい「好き」があるなら、少し勇気を出して伝えてみて欲しい。

とっても軽やかに伝えてみるだけで大丈夫。
世界は思っているよりもやさしい。

「好き」を言葉にする時、相手を照らしているつもりが私が照らされる。
そして、その光を届けると、届いたよってあたたかな光となって返ってくることがある。

光はそうやって広がっていく。

あなたにもあたたかな光で誰かを照らす時間、照らされる時間、光を贈り合ってあたたかく人とふれあえる時間がありますように。

「好き」を言葉にするのは、まるで祈りのようだ。





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