私は私のままで愛されていいんだ 体で分かるになった日
「私は私のままで愛されていいよ」
「私は世界から愛されちゃっているから」
春の日差しでありたいライフコーチのなほです。
剥がれては還り、ころん、と生きる。
きらきらしたら、ぷかぷかに戻るリズムの中で、私のままで、もうすべてそろってる。
私にかけるおまじない。
それが冒頭の言葉だ。
今日、それが「分かる」になった。奇跡みたいなこと。
愛が循環していってここに歩いてきた。
私、今のままで愛されていいんだ。
ストン。
静かだ。
「私は私のままで愛されていいよ。」
それは、許可の言葉を私が心地いいように調整したおまじないです。
さらに、「私は世界に愛されちゃっているから、安心していいよ。」
世界は私を傷つけてくる、そのままの私は受け容れてもらえない、拒否される、と世界を見ていた私には、安心が必要だ。
「そのままの私で愛されている。」
これだと、私にはまだ早いと思った。
おまじないは、叶っている状態にすると、言葉の力を借りて、引っ張ってもらうことが出来る。
願いは願いのままの形、「~なりますように、なりたい」ではなく、もうその状態になっている感じを言葉でもイメージでも、体感でも、何でもいいけど、味わうのが大事。特に感情を味わう。
先取り体験。
だけど、その前に私が本当に愛されている、私は愛されていい存在だって思えていないのに、言い切るのは毒になるかもしれなかった。
強制的に力でねじ伏せて思い込ませるみたいなことだ。
強い言葉だと、自分で自分を洗脳するみたいな感覚。騙す。
だから、私にやさしく、「愛されていいよ」と語りかけることにした。
私は愛に足る存在か。
人の役に立っている私じゃなくても、みんなは受け容れてくれるのか。
「受け容れられたい」は、愛という言葉が私の世界には存在していなかったから、愛されたいの代替語。
そう思う私には、「いいんだよ」って言ってあげる所から。
私は、愛が「ない」設定の世界を生きていた。
私にも愛があるんだ、愛が「ある」にOS更新してから、本当にたくさんの愛に出会って、ふれて、照らしてもらって、浴びて、贈ってもらって、循環して、浸からせてもらって、受けとっている。
感謝で、ありがたくて、幸せだと何度も感じる瞬間があった。
こんなに目がくらむような幸せを、あたたかい愛を私に贈ってくれていて、届けてくれているって感じることが出来るようになったから。
それが今日、私は愛されているが体に落ちて分かるになった。
頭で理解したり、感情的に分かるじゃなくて、腹落ち、体感。
天啓みたいに、急に分かるになった。
こんな私でも愛されている。
愛されていいんだ。
だって、愛が私をまっすぐに照らしてくれている。
私のかけらを受けとったよって。
元気にしているかなって、気にかけてもらっていたと知らせてもらった。
同志のような人って。
愛はあふれるもので、能動的に誰かに注ぐものではなく、相手が感じとるもの、空気のように存在するもの。
だけど、今日は私に名指しの愛をもう一度届けてもらった。
特別だ。
誰がなんと言おうと、この瞬間、私は愛されている。
そう思った。
家族でも友だちでもないけれど、たった1人のあなたが私を愛してくれている。
厳密には私の両親も友達も私を愛してくれているのだろうけど、そうじゃない。
私は愛に出会っていると思った。
なんて言ったらいいのかな。
愛そのものに出会ったみたいな感じ。
「なほさんが幸せだといいね」は、願いで祈り。そこには愛がある。
そういう一面的なもの、愛に含まれるものに出会ったじゃなくて、愛の全体性、本当の愛みたいなものに、出会ったと思った。
今までたくさん出会ってきた愛が満ちたからなのか、それともあふれている愛ではなく、私に名指しで愛を届けてもらったからなのか。
愛が向こうから来た。
私は、届けようと思って届ける愛を名指しの愛と呼んでいる。
分かりやすいのは、誰かにプレゼントを贈る行為。誰宛てのものか大抵決まっているし、目に見える形のある愛。
特別なものだと認識していて、空気のように届けようとしていなくても愛があふれている人と接すると私はその愛にふれることができる。
この愛とは違うものと思っている。
名指しの愛を届けてもらっていて、しかも言葉で贈ってもらっていた。
私にとって言葉は友だちで、愛を認識するのにも私は言葉を愛の通貨だと思っていて、とても受けとりやすい愛のかたちだ。
愛にふれることから始めてきた。
受けとるのはちょっとハードルが高かった。
愛が恐いになった時、私は返せないと思って途方に暮れていて、受けとれないって思ったから。
だから、受けとろうとは思わずにふれるから始めた。
それなら出来そうだと思ったから。
手でふれる。受けとれることもある。
そこから、私は最近「浸かる」をしてみてきた。
ふれるは、多くても両手。浸かるは肩まで愛に浸かるイメージで体の表面積全体で愛にふれる。
受けとるの前の段階、「ふれる」と「受けとる」の間に架ける橋として使っている。
今日、私は愛されていいんだ。
この瞬間私は愛に愛されている。
それは、私のこのイメージの中で見てみると、手でふれるでも肩まで浸かるでもなく、愛を受けとって私の中に取り込むでもなかった。
私のふれている手がそのままスッて1枚隔てていた膜を通って中に入るようなイメージだった。ぺたぺた手でさわっていたり、愛の溶けているプールに浸かるでもなく、私の腕が愛の中に入る。
私の中に愛が入ってくるじゃなくて、私の腕が愛の中にスッと入った。
「浸かる」と同時に、私にある愛を直視するようにしてきた。
「今日、私がした愛の動作は?」って毎晩問いかけている。
私にある愛が分からないんだ、って分からないままにしていたけれど、私にも愛があることをちゃんと見て、自分で受け容れる努力をしてきた。
愛が私にあるって分かってしまったら、私は与える側に立たなくちゃいけないみたいに思っていて、だから、自分にもあると思う愛を見ないふりしていたから。
周りの人は私にも愛があるよって言ってくれるけど、自分ではよく分からないとしていた。
愛されたいのに、与える側に立たなきゃいけないのなんてごめんだって思っていた。
私には愛があるを自分で認める。
そんな風に過ごしていて、最近とても愛にふれて浸からせてもらうことが続いていて、愛の探求の季節がめぐってきていた。
愛を思い出す道を歩いていて、さんぽしているだったのがスキップしているみたいになっていて、目まぐるしかった。
そこに、とても静かにストン。
私、愛されていいんだ、の許可が腹落ちした。
もう誰が何と言おうと私は今あなたに愛されている。
やっぱり愛はあるんだ、って私は分かってしまった、と思った。
「なほさんが幸せだといいね」という言葉を贈ってもらった時だ。
愛はあるが分かったじゃなくて、分かってしまった。
頭では分かるし、感情的にも私は愛で照らしてもらった時、嬉しいって感じてきた。
だけど、この時は嬉しいだったけど、涙が静かに流れた。
今までふれてきた愛よりも愛に深さがあるなら、深い所で私のかけらを受けとってもらって、祈りという愛を贈ってもらったと感じたからだ。
おそらく、この時に1歩、愛があることが分かるに近づいたんだと思う。
愛を探求中だから、愛のすべてが分かっている訳ではない。
私に向けられる、感じられる愛にどこかで抵抗していたのかもしれない。
本当に私のままで愛されているのか?という疑問というか、信じ切れないに近い状態。
その信じられないという部分がきっと今日剥がれた。
だから、ストンで今の私で愛されていいになった。
カチリじゃなかった。
分かるになる時、頭でカチリと音がする。
だけど、体が分かる、腹落ちするのはストンでとても静かだった。
ああ、そうだったのかって意味が後から追いつく感じだ。
私は私のままで愛されていいが分かった日。
おまじないは今日から変える。
私は私のままで愛されている。
そして、世界からも愛されちゃっている!
紙に書いて鏡の上に貼っている。
口に出して鏡の中の私に語りかけながら笑いかけることもあるし、心の中でつぶやく時もある。
1つ愛を思い出した。
「私は世界から愛されちゃっている。」
このおまじないは、凪いでる海のような人から授けてもらったおまじない。ありがとうございます。
私に名指しの愛を、願いで祈りを、私の幸せを願ってくれて、本当にありがとうございました。
そして、泣いちゃった私のことも受けとめてもらって、またあたたかい愛で照らし返してもらってありがとうございます。
あいを産んでくれた人だから、愛があたたかくてほんの少しふれさせてもらっただけで、私は愛をいっぱい感じられたのかもしれません。
そのあたたかい手にふれさせてもらったような愛です。
私のことを元気かな?って気になるなってそう思ってもらえる気持ちだけで、私は大丈夫になれると思いました。
私もまた会えたら嬉しいです。
心から私もあなたの幸せを、ひとひらの愛が毎日にあるように願っています。
出会わせてくれた「あいさん」にも感謝です。
今日もここまで読んでくださり、ありがとうございます。
私の愛を思い出す旅の途中で、出会ってくれたあなたのことも愛が照らしてくれますように。
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