見出し画像

清潔感のある日本の小説10選➀

清潔感とはなにか。清潔感を定義したいと思った。それは小説を定義することにつながる。たとえば二つの詩がある。

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ
(三好達治「甃のうへ」)

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとさゝやく
それは神の生誕の日。
(西脇順三郎「天気」)

どちらも高校生の頃、国語の教科書で読んで、強くひかれた。どちらも清潔に感じる。この印象が何によってもたらされているか、考えるとそれは、時間性からの逸脱、ないしは離脱なのだと思う。二つの詩は無時間という特徴を共有しているように思う。

そしてそれは湿度の低さと言い換えることができるかもしれない。時間とはウェットなものだから。

しかし時の流れの外に置かれてあること、じめじめしていないこと、それ以外にも、言葉が清潔をまとう契機があるにちがいない。なぜなら「甃のうへ」と「天気」、二つの詩では後者において清潔感が一層強い。この違いをもたらすものはなにか。小説における清潔を構成する要素にはどのようなものがあるのか。

それを探る意味も込めて、日本語で書かれた清潔感のある小説を10篇選んでみた。

➀国木田独歩「武蔵野」

ひとことでいえば小説らしくない。随筆のようだ。散文詩であるという人もいる。柄谷行人は「風景」であるといった。

小説における不潔とは、まずなにより小説らしさのことである。誰が読んでも躊躇なく小説といえるのは、それだけでもう重度の汚染を被っているなによりの証拠であろう。小説という観念がこびりついているのである。

西脇順三郎は詩集「あむばるわりあ」の「詩情(あとがき)」にこう記している。「この詩集に出てゐる詩の中で詩でないものもある」と。「しかし詩にしようとして努力してる点だけはみてもらひたい」

「武蔵野」にはこの種の努力が感じられない。見えてこない。そこがいい。

引用が多い。二葉亭訳「あいびき」から、それに自分の日記、友人の手紙からも長々と引いている。

ワーズワースの詩、熊谷直好の和歌、与謝野蕪村の俳句の引用も見える。

小説への意志が希薄なのだ。

ところで、ひさしぶりに読み返してみて、自分が「武蔵野」の文章それ自体にひかれているわけではないことに気づいた。

全体的に簡潔な調子を保っているが、ねじれ文や挟み込みなども確認できる。

今より三年前の夏のことであった。自分は或友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五町ゆくと桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向て、「今時分、何にしに来ただア」と問うた事があった。

自分が一度、今より四五年前の夏の夜の事であった、かの友と相携えて近郊を散歩した事を憶(おぼ)えている。

とくに前者の文は保坂和志ばりのアナーキーさだ。

ともかく、小説における小説でないところ――これが清潔感を醸し出す要素の筆頭に来るといえそうだ。小説の不潔さ。

いいなと思ったら応援しよう!