見出し画像

清潔感のある日本の小説10選②

②森鴎外「寒山拾得」

「小説だとか、小説でないとか云つて、友人間にも議論がある」(「歴史其儘と歴史離れ」)歴史小説から、「如何に小説の概念を押し広めても、小説だとは云はれまい」(「観潮楼閑話」)と語られる史伝へと向かう途上、すなわち歴史離れ期の掉尾を飾る作品であり、鴎外最後の小説であるともいわれる。

この短い小説を特徴づける最大の要素は、ふくらみのなさ、とでもいい得る何かである。

それは言葉のためのなさ、ためらいのなさ、すばやさとしてあらわれているように思う。

台州の主簿に任ぜられた役人、閭丘胤が、天台国清寺から来た謎めいた僧、豊干に尋ねる。

「わたしもこれから台州へ往くものであって見れば、殊(こと)さらお懐かしい。序(ついで)だから伺いたいが、台州には逢いに往(い)って為(た)めになるような、えらい人はおられませんかな。」
「さようでございます。国清寺に拾得(じっとく)と申すものがおります。実は普賢(ふげん)でございます。それから寺の西の方に、寒巌(かんがん)と云う石窟(せっくつ)があって、そこに寒山(かんざん)と申すものがおります。実は文殊(もんじゅ)でございます。さようならお暇をいたします。」こう言ってしまって、ついと出て行った。

寒山と拾得、二人の僧の正体はこうして一息に明かされる。そうして正体を明かした豊干も、「さようならお暇をいたします」とだけ言い残し、たちまち姿を消し去る。

あるいは最後の場面。

国清寺を訪れた閭が、出迎えた僧、道翹に拾得、寒山との面会を求める。道翹によれば、いま二人は厨房の竈で暖をとっている。拾得は寺で皿洗いを務めており、石窟に暮らす寒山はその拾得にいつも残飯を恵んでもらっているのである。案内されて厨房に入った閭が、「入口から一番遠い竈の前を見ると、そこに二人の僧の蹲(うずくま)って火に当っているのが見えた」

 道翹が呼び掛けたとき、頭を剥き出した方は振り向いてにやりと笑ったが、返事はしなかった。これが拾得だと見える。帽を被った方は身動きもしない。これが寒山なのであろう。

この判断の逡巡のなさ。

 閭はこう見当を附けて二人の傍(そば)へ進み寄った。そして袖を掻(か)き合わせて恭(うやうや)しく礼をして、「朝儀大夫(ちょうぎたいふ)、使持節(しじせつ)、台州の主簿、上柱国(じょうちゅうこく)、賜緋魚袋(しひぎょたい)、閭丘胤と申すものでございます」と名(な)告(の)った。
 二人は同時に閭を一目見た。それから二人で顏を見合せて腹の底から籠(こ)み上げて来るような笑声を出したかと思うと、一しょに立ち上がって、厨を駆け出して逃げた。逃げしなに寒山が「豊干がしゃべったな」と云ったのが聞えた。

この逃げ足の速さ。

謎を作り出さず、余韻さえ響かせず、言葉が逃げ去る。

だから話がふくらまない。

ふくらみとは小説のことであろう。あるいは感動や無感動の厚みのことだ。

鴎外の歴史小説にさえ見られる情感の厚みが、言葉の速度により打ち消しにされている。

ただの速度ではない。ただの速度なら、それ以前の作品にもあった。

たとえば「山椒大夫」の女中が「ええ。これまでじゃ。奥さま、ご免下さいまし」といってさっと入水するところ、「阿部一族」で高見権右衛門の小姓が「あの丸(たま)はわたくしが受け止めます」といって即死するところ、あるいは「最後の一句」で父親の身代わり自分たちの命を差し出そうという姉の話をきいた妹のまつが「でもこわいわねえ」と漏らすところにもそれはある。

しかしこれらの場面が喚起する一定量の情動がある種の満足感――小説的なそれ――をもたらしていることは否めない。

「子供はこの話には満足しなかった。大人の読者は恐らくは一層満足しないだろう」(「寒山拾得縁起」)

不満足の極北。清潔というほかない。

いいなと思ったら応援しよう!