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清潔感のある日本の小説10選⑤

⑤大江健三郎「飼育」

前回読んでから三十年以上が経過している。学生の頃は、その抑制された文章、イメージのみずみずしさ、構成の堅牢さ等々に圧倒され、完全体の小説か、と感嘆したものだが、いま読み返すと優等生的な、よくできた作品にすぎぬという印象が勝っている。「奇妙な仕事」「死者の奢り」といったそれ以前の諸作に見られる初々しい稚拙さが喪失されているか、影を潜めている。だから手堅い小説、小説らしい小説にうまくなりおおせているが、その小説的な調和や起伏がむしろ鼻につくのである。そしてこの優れて小説的な様相こそが、その文章の発揮する清潔感にくっきりと汚点を打ち込んでいることに、いまさらながら気づくのである。

 僕と弟は、谷底の仮設火葬場、灌木の茂みを伐り開いて浅く土を掘りおこしただけの簡潔な火葬場の、脂と灰の臭う柔らかい表面を木片でかきまわしていた。谷底はすでに、夕暮と霧、林に湧く地下水のように冷たい霧におおいつくされていたが、僕たちの住む、谷間へかたむいた山腹の、石を敷きつめた道を囲む小さい村には、葡萄色(ぶどういろ)の光がなだれていた。僕は屈めていた腰を伸ばし、力のない欠伸(あくび)を口腔いっぱいにふくらませた。弟も立ちあがり小さい欠伸をしてから僕に微笑みかけた。

書き出しの一節。「火葬場」、「霧」の同格的な反復、「欠伸を口腔いっぱいにふくらませ」という構文、「弟も(中略)僕に微笑みかけた」という言い回しと、それに付随するアルカイックなイメージ――いわゆる欧文脈が文章の基調をなしているということだ。

とくに同格的な名詞句の律動ある配置が、この作品において文体上の一大特徴をなしている。

 僕も弟も、硬い表皮と厚い果肉にしっかり包みこまれた小さな種子、柔らかく瑞みずしく、外光にあたるだけでひりひり慄(ふる)えながら剥かれてしまう、甘皮のこびりついた青い種子なのだった。そして硬い表皮の外、屋根に上がると遠く狭く光って見える海のほとり、波だち重なる山やまの向こうの都市には、長い間持ちこたえられ伝説のように壮大でぎこちなくなった戦争が澱んだ空気を吐きだしていたのだ。

欧文脈の採用を「動的な新しい文体」を実現するための条件のひとつに数える江藤淳は、このくだりを激賞している。

欧文脈をこれほど自由に摂取できる柔軟な性質が現在の流動的な日本語にあることを、このような文体ほど雄弁にものがたるものはない。「小さな種子」「青い種子」というイメイジは、それぞれ長い修飾句の重量をうけとめながら重層的に重ねあわされ、さらに一転して「硬い表皮の外」、「海のほとり」、「山なみの向こうの都市」というはなはだ論理的な放射状の行動にうつって、「壮大でぎこちなくなった戦争」というパセティック・ファラシイのなかに解決される。(中略)大江氏の試みに匹敵する文体を過去の日本の小説に見出すことはほとんど不可能に近い。未完成な、柔軟な国語によって行動できるということは、このような有利な条件を作家にあたえるのである。日本語はいまだにきわめて可塑的な状態にある。
(江藤淳『作家は行動する』)

江藤淳のいいたいことはよくわかる。たしかに「飼育」の視点は旺盛に動き回り、飛び回っている。そのことは国木田独歩「武蔵野」に描かれた静謐な、大人しい情景などに比較すれば一層明らかだ。しかし、この動的な「飼育」の文章にもやはり拭い難く静的なところがあることに留意すべきであろう。どこか不自由な感じ、あるいは言葉と感情との間に紙一枚挟まっている感じがする。「飼育」の文章の自由な動きには一定の制約がかかっている気がする。

何が制約しているのか。

大江健三郎は次のように話している。

大学三年から四年にかけての春休みに、ピエール・ガスカールの『けものたち・死者の時』の原書と、渡辺一夫(かずお)さんの翻訳を合わせて読み、小説を書いてみようと思い立って、すぐに三十枚ほど書けたので、五月祭賞に応募したんです。いま読んでみると、もうガスカールそのもので、よくこんなものを自分のオリジナルな小説と自信を持っていたと不思議に思うほどですが。
(『大江健三郎 作家自身を語る』)

何が制約しているのか。

いうまでもない、翻訳であろう。

僕は果てしもない欺瞞(ぎまん)のなかに引きずりこまれたような気がしてきたし、赤い家の奥では、今日から一匹余計な羊、一種の羊人間が加わり、こき使われ、平手打ちを喰わされ、追い廻され、まるで裏切者のように一人ぼっち、じめじめした夕暮れのなかに一人ぼっちになり、その周りには、吊るされた獣が森のようにのしかかり、洞になった幹のような胴体には血が蟻の這うように流れていて、鋸屑(のこくず)特有の静寂が立ちこめ、切り開いた腎臓の匂いがジェラニウムのように花咲いている、というような感じがしはじめた。
(ピエール・ガスカール「真朱な生活」二宮敬・渡辺一夫訳)

動的な文体をもたらす欧文脈が、そのまま、文体に枷をはめる不自由な制約として機能しているのである。

そして言葉と主体との間に一定の距離を設けるこの制約が、文章における湿度の低さと、初期大江に固有の、すばらしく清潔な抒情性をもたらしていることに疑いを入れる余地はないと思う。

母語のべたつき、なれなれしさが、異言語との接触、翻訳という経験により、すっかり濾過されているのである。

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