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【小説】「喫茶ひなたに春が来て」第11話

〈 香乃 〉

 朝から香乃は機嫌が悪い。母親と喧嘩をしたからだ。いや、喧嘩だったらまだマシだな、と香乃は思う。喧嘩にさえならない。あの人はアタシの怒りを理解していないのだから。思春期。反抗期。そんな単純な言葉でアタシの気持ちは言い表せない。

 日曜の朝は、本当なら大好きな朝だ。家には相変わらず誰もいなくて、静かな空気が漂っている。香乃はいつもよりずっと遅くに起きて、シリアルにヨーグルトをかけた簡単な食事をとった。簡単な、というのがミソだ。シンプルと言いながらも、一般家庭に置き換えれば絶対複雑な部類に入る料理に慣らされている香乃にとって、自分で用意できる日曜の朝食は大きな楽しみの一つだった。

 そして最後にコーヒーを入れる。啓介の入れるコーヒーには程遠いけれど、自分なりのコーヒーを入れてゆっくり味わう。ボリュームを絞って音楽をかける。歌詞のあるものより楽器だけの、静かめのジャズみたいなのが香乃は好きだ。その方が時間がゆっくり流れる感じがする。

 それなのに、今日は突然母が店から帰ってきた。大きな箱を抱えてダイニングに入ってきた母親を見て、すでに香乃は嫌な予感がした。その予感はもちろん当たっていた。箱の中には大振りのイチゴが山のように整列していた。

「香乃ちゃん、今日もバイトに行くんでしょう? それならこれ持っていってあげて。」

 フランスの契約農家から、注文した以上にイチゴが届いたのだと言う。いつも贔屓にしているから、プレゼントとして贈られたものらしい。

 香乃は即座に断った。だってイチゴだ。見るからに高そうな、立派なイチゴ。フレイズの看板商品であるショートケーキやタルト。イチゴが売りの沢山の商品。それそのものを持っていくなんてひどすぎる。傲慢だ。まるで星野夫妻にケチをつけるみたいじゃないか。そもそもフレイズっていう店の名前だって、フランス語のイチゴって意味なのに。この人だってそれぐらいわかっているはずなのに。皮肉が効きすぎて笑いもできない。

 それなのに香乃が嫌がると、母親は小さい子供のわがままに困ったような顔をして溜め息をついた。

「せっかくのイチゴだから、おすそ分けしたいのよ。いくらウチの店で使うっていってもあまり置いておけるものじゃないし。これがあと二箱もあるの。だから、」

「ジャムにしちゃえばいいじゃない。」

むっとした顔で香乃が提案をすると、母親はまた困った顔をした。

「ジャムにするにはあんまりいいイチゴだから、もったいないじゃない。ね、星野さんにはお世話になってるんだし。」

 そればっかりだ。お世話になってる、お世話になってる。実際お世話になってるのはアタシなのに。香乃は苛立ちを抑え切れず、かといって上手く表現する方法も見いだせず、部屋に入ってぴしゃりとドアを閉めてしまうしかなかった。それでも母親が、その箱を冷蔵庫に仕舞ってから再び出て行ったことだけはわかった。見なくても、確信した。

     ☆

 右に左に傾きながら、赤い自転車が全速力で通りを抜けていく。角々を曲がっても失速しない赤い矢。風景はおもちゃのように後ろへと流れていく。そうやって、どんなに景色を振り切っても心のわだかまりだけは振り切れないことなど、当然香乃も承知していた。それでもどうにかしたくて、香乃はただ自転車を飛ばした。

 フレイズへの最後の角を曲がると、突然の向かい風が香乃に吹きつけた。カーキ色のミニスカートの縁があおられ、香乃は慌ててそれを押さえる。埃が勢いよく舞ってきて、たまらず香乃はブレーキをかけた。風をやりすごしてそっと顔を上げると、途端に華やかな色が目についた。喫茶ひなたの店先のごく小さな花壇に、ツツジの花が咲いている。自然と視線は店の窓に向かう。 ちょうど窓際のテーブルを拭いている啓介と目が合った。

 お、と啓介の口が動いた。香乃はこういう時、どんな顔をしていいのかわからなくなる。笑うべきだろうか、無表情に視線をそらせるべきなのか。結局香乃はどちらも選ばなかった。その代わり自転車を停め、イチゴを詰めた保冷ケースを抱えると、喫茶ひなたの重いドアを開けて中へ入っていった。

 箱をどしんとカウンターにのせて仏頂面で突っ立った香乃を見ると、啓介は布巾を動かす手を止めて、口の端をへの字に曲げた。

「また世界を敵に回してるのか?」

 そうやって啓介はすぐに何でも見抜いてしまう。だから口ごたえしたくなる。

「世界じゃないもん。親だもん。」

「似たようなもんじゃないかな。」

 そう言いながら次のテーブルに移ってごしごしとこする。大して汚れてもいないくせに、啓介は毎日こうやってあちこちを磨いて回る。

「そんなに磨くとすり減るんだから。」

 香乃は大きな声を上げる。かまってほしくてやっているのだと、わかっていても止められない。啓介はちっとも動じず、一つ、また一つとテーブルを拭きながらこちらに迫ってくる。香乃は今度は黙ってそれを眺めた。仕事をしている啓介の横顔はとても美しいと思う。真剣で、ちょっと頬に喜びをたたえて。好きなんだな、仕事が。香乃は少しの不満とともにそう思う。人は好きになれなくても、仕事や物が好きになれるんなら、アタシは物でもいいや、などと埒が明かないことを考える。啓介に愛されるなら、コーヒーフィルターにだってなってやるのに。

「それは何だ?」

 やっと布巾の旅から帰ってきた啓介がカウンターの向こうに回って尋ねている。感情の塊が胸の中から込み上げてきて、香乃はそれに押し流されそうになる。だからただ、イチゴ、と答えた。

「イチゴ?」

  首を傾げた啓介の前で、香乃は保冷ケースの中から箱を取り出し、それを勢いよく開けた。 目を射る赤い列。啓介はそれを見ると目を丸くして再び香乃にその目を向ける。

「全部はあげない。けど一パックだけおすそ分けしてあげる。」

 そう言いながら香乃は箱に手を入れて、プラスチックトレーで仕切られた、その一つを手にとって引っ張り出した。

「いいのか? これ、フレイズに持ってきたんだろう?」

 香乃は再び憮然とした顔つきに戻る。アタシがそんなことしたかったわけじゃないもの。そんな失礼なこと。

「いいんだもん。あげる。食べて。」

 知っていてほしいと香乃は強く思う。アタシの朝の混乱を。でもそれを言葉で上手く説明する術を香乃は持たなかった。だから、せめて啓介の傍にいたかった。

「じゃあ、食おうか。」

 そう呟くと啓介は、トレーの中身をボールにあけて蛇口から流れる水でさっと洗うと、カフェオレ用のずんぐりしたカップにそれを移してカウンターにのせた。そのてっぺんの一つを口に運ぶ。口に入れた瞬間、啓介はきつく目を閉じた。

「旨いじゃないか。香乃も食べてみろ。」

 ぱちりと目を開けて言う。

「アタシはいらない。」

 啓介がカップをこちらに押してくるのを避けるように香乃は言った。それでも啓介はぐいぐいカップを押してよこす。そうしながらもまた、一つ手にとって口に入れる。啓介が食べていると、腹立たしいイチゴも美味しそうに見える。

「ほら。」

 最後に一押しされたのに負けたように、香乃もそれを手にとってみた。形は不格好だが艶やかで深い赤。それが水滴をつけて輝いている。半分かじると、酸味が先にたって、その後甘い味が舌先に残った。

「旨いだろう?」

 気づくと、イチゴをほお張っている啓介の顔が目の前にあった。こんなに顔を寄せ合って二人でイチゴを食べているなんて、と意識した途端、身震いが出ると同時に顔が火照った。すぐにイチゴの味なんてわからなくなった。啓介がここにいて、一緒にイチゴを食べている。これだけのことでこんなに幸せなんてどうしたらいいのだろう。このままこの時間が続いてくれたらどんなに楽しいだろう。

 しかしそのふわふわとした感覚は、突然窓の外から聞こえたベルの音にかき消されてしまった。二人してそちらを見やると、すでにワインレッドのエプロンとスカーフを身につけた、バイト仲間のノンちゃんが、置きっ放しにしていた香乃の赤い自転車のベルをチリンチリンと鳴らしてこちらに合図を送っている。反対の手は腰に当てられており、顔はしかめっ面だ。

「おまえ、もう時間じゃないのか。」

 香乃は僕てて啓介の腕時計を覗き込む。この店には掛け時計というものがないのだ。あと一分で二時になろうとしている。

 香乃はひゃー、と悲鳴を上げるとスツールから飛び降り、イチゴの箱をかっさらうようにしてドアを飛び出した。そのまま転がるようにフレイズのレンガ模様の段々を上がる。追いついてきたノンちゃんが先に店の奥に入っていきながらすれ違いざまくすっと笑う。

「香乃ちゃん、また、耳真っ赤。」

 香乃は咄嗟に、先程啓介と二人で食べたイチゴと今のアタシの耳と、どちらが赤いのだろう、と思った。

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