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【読んでも成功できません!】スーパーは夢と魔法の国だった

8月の初めに、うなぎを食べた。今年は土用の丑の日には食べそびれてしまったのだが、「絶対に丑の日に食べなきゃ嫌だ」というこだわりもなく、なんとなくこの時期に一度はうなぎを食べておきたいな、くらいの気持ちだったし、丑の日を過ぎた今のほうがむしろ安く手に入るのではないかという希望的観測もあった。

いやこれうなぎの頭じゃないだろ……

実のところ値段はまあそんなに変わらなかったし、蒲焼きを買ってきてレンジで温めるだけという、平凡極まりない食べ方ではあったものの、「あー、今年もうなぎを食べたぞ」と満足した。むしろ平凡極まりない食べ方だったからこそ、なおさら「食べた感」が沸いたのかもしれない。

ところで、西日本の福岡で腹開きのうなぎを初めて見たとき、少し驚いた。頭がついているのだ。私は東日本の出身で、うなぎは背開き。背開きの場合は捌くときに頭を残すのが難しいようで、頭のついたうなぎの蒲焼きなど見たことなかったのだ。それゆえ、「頭つき」を最初に見たときは「おお、こっちの人は頭まで食べるのか」と思ったものである。私は頭は食べなかった。頭まで食べる西日本の人はむしろ少ないようだ。

それはさておき、このような小さな違いを発見すること自体が楽しい。新しい場所に住んだり、旅をしたりするときに特に自分の住んでいる地域とのちょっとした違いを感じて嬉しくなったりするが、日常に潜む小さな違いに気づくことで、見慣れた世界が少しだけ豊かになることもある。そのためには観察用のアンテナをしっかり張り巡らせておくことが大切だ。

私が子どものころから好きだったのは、スーパーでの観察だった。肉売り場や惣菜売り場でおいしそうなお肉や揚げ物をじっと見つめるのが好きだった。特に記憶に残っているのは「チューリップ」と呼ばれる手羽の骨を出して持ちやすくした唐揚げであり、形やにおい、そして売り場の温度感さえも今なお鮮明に覚えている。

お肉に夢中になる幼児

そういえば、夢中になりすぎて、母に置いていかれたこともあった。私はいつものように肉売り場の前でじっと立ち止まり、商品を一つひとつ眺めていた。その間に母は先に行き、お会計を済ませたころにはわが子の存在をうっかり忘れてそのまま帰ってしまったのである。

家に着いて気付いた母は慌てて店に戻り、売り場を探したそうだが、目に入ったのは微動だにせず相変わらずお肉をじっと見つめている私だったという。私は置かれていた状況に全く気づいていなかったのだ。泣き虫だったから、気づいていたらとっくに号泣していたはずだ。このことは今なおわが家で語りぐさとなっている。

そして今、私は相変わらずスーパーに並ぶお肉をじっと見ては「おお、この肉は脂のノリが良いね」など言ってニヤニヤしたり、値札の数字に見入ったりしている。どうやら、子どもの頃の体験が後の自分の感覚や価値観、センスの基盤になっているようだ。

大人になってもやってること変わらんのよ

学校で学ぶ知識も大切であるが、自分らしさや独自の感覚を形作るのは、やはり子ども時代の実体験である。何気ない日常の中で、五感を通じて得た小さな経験が、将来ふとした瞬間に大きな意味を持つことがある。何の意味も持たないこともあるのだが、何が役に立つかわからないからおもしろいし、大事にしておきたい。日々の中でややもすれば見逃してしまいそうなこと、どうでもいいことが自分だけの気づきにつながり、考えや行動に何らかの影響を与えるのだ。

時間はみんな平等に与えられていて、みんな同じ時間だけ何かを見て、聞き、感じてきた。時間が平等なのに対し、見た物や感じたものは一人ひとり全く違う。たとえ双子であっても同じということはありえない。だから「みんな違っておもしろい」のだし、世界も豊かになるのである。言ってみれば、大人の姿というのは、子供の頃に経験してきたことの集大成そのものなのだ。

先日も、スーパーで子ども時代の自分を思い出しながら買い物をした。よくカツ丼を買ってもらったな、あのころのスーパーの雰囲気はこんな感じだったな、と感慨にふけるうちに時間が流れ、家族に置いていかれそうになった。相変わらずだなと自分で笑ってしまったが、「あのころ」を思い起こす時間はかけがえのないものだった。

子供のころのスーパーの思い出、まだまだあるな。そんな話は「舞台裏」で。

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