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「先生、ちょっといいですか?」地獄で本当に地獄を見た日(講演まであと20分)

その日は「先生、ちょっといいですか?」
という言葉を
たぶん人生で一番聞いた日だった。

今にも雨が降り出しそうな空。
傘を持つべきか迷いながら
足早に職場へ向かう。

朝から、少し気が重い。

今日の午後、人前で話す予定がある。
しかも自分の専門ど真ん中
というわけでもない。
頼まれて引き受けたものの
「本当に私でいいのか」と
昨日からずっと落ち着かない。

だから今日は、原稿を前もって絶対に
チェックして
配信時間にも遅刻しないよう
診療スケジュールをかなり余裕をもって
組んでいた。

白衣に着替える。

予定の患者を診察し、申し送りを終える。

時計を見る。よし。まだ余裕がある。
原稿をもう一度見ておこう。

――ピピピ。
ポケットのピッチが鳴る。

「先生、今日退院の○○さんなんですけど
情報提供書がどうしても“今”必要だそうで……」

あ。

それ、あとで書こうと思っていたやつだ。
しまった。
電子カルテを見ながら、猛烈な勢いで
書き始める。

よし、終わった。

……と思った瞬間。

――ピピピ。

また鳴る。

「先生、例の患者さん、元気になってきたので
食事の相談できないかって言ってます」

今日診られなければ、次は三日後。

三日も禁食のままというのは
さすがに気の毒だ。
しかし、あの病室は完全防備が必要だ。
準備だけでも時間がかかる。

時計を見る。

……まあ、少しだけなら。

その足で病棟へ向かう。

すると廊下で看護師が手を振る。
「あ!先生、ちょうどよかった!」

嫌な予感しかしない。

「今日入院した○○さんなんですけど
すっごいむせてて…
薬飲ませて大丈夫ですか?」

また捕まった。

時計を見る。

時間は、確実に減っている。

「ちょっとだけ様子を」
そう思って病室をのぞく。
……思っていたより大変だ。

強い四肢拘縮。

この姿勢のまま何か食べたら
窒息まっしぐらだ。
看護師と一緒に体位を整え
なんとか食べられそうなポジションを探す。

時計を見る。

30分経過。

講演会場へ出発まで

あと1時間。

どうしても、その前に原稿を
一度見ておきたい。
頭に入れておきたいことが
まだ入っていない。

そのまま完全防備が必要な病室へ向かう。

ここは慎重にやらないと
本当に大変なことになる。
焦りを押さえながら防護具を着て診察へ。
まだ患者を診る前なのに
防護服の中でじっとりと汗が流れる。

患者さんは順調に回復していた。
慎重に評価し、これなら少し食べられそうだと判断する。
装備を外し、申し送りをして食事をオーダー。

時計を見る。

出発まで20分。

これ以上捕まらないように
ピッチの電源をオフにする。

廊下を急いで歩いていると
「先生、ちょっといいですか?」

また捕まった。

「ちょうどよかったです。
院内Wi-Fiの設置についてアンケートなんですけど」

……今?


急いで着替える。ついでに、軽く化粧。

今日はWEB配信。
会場の人数は少ないはず。
どうせマスクしたままで話すだろう。

口紅は……

まあ、いいか。

タクシーに飛び乗る。なんとか会場に到着。
スタッフが駆け寄ってくる。

「先生、今日はありがとうございます!
もう準備できてますので、
すぐ始められます!」

会場を見る。来場者はそう多くはない。

スタッフが言う。

「感染対策もばっちりですので
マスク外してご講演お願いします!」

……え?

口紅。

塗ってない。

それどころか
到着してから鏡も見てない。

「では時間です。お願いします!」
逃げ場はなかった。

皆様、はじめまして——

こうして私は

マスク生活で衰えきった表情筋と
ほぼノーメイクの顔で、
カメラと会場に向かって話し始めた。

後日送られてきたアーカイブ動画の
サムネイルには
疲れ果て、ほうれい線がくっきりした
見知らぬ女が映っていた。

こうして恐怖の映像
この世に誕生したのであった。

フィクションのようなノンフィクションのような・・・
コロナ真っ盛りの時、時間がなくて化粧無しで人前で喋り、ひどい容姿であったという事件の言い訳を、だいぶ盛りつつ小説風にお送りしました~


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