創作は「旅情」から始まる。
唐の詩人、于武陵の五言絶句「勧酒」は、「人生足別離」という言葉で締めくくられる。
直訳すると「人生に別れはつきものだ」となるが、これを「サヨナラだけが人生だ」と訳したのが、明治の文豪にして太宰治の師、井伏鱒二である。
「山椒魚」「ジョン万次郎漂流記」「黒い雨」など、彼の書く作品はどれもユーモラスで面白く、また抒情的で、どこか厭世的な匂いが漂うものも多い。
とくに処女作「山椒魚」は象徴的で、その後の作品に通底する美学が、すでに完成された形でそこにあるように思う。
一流の作品というのは、その解説もまた一流であるものだ。
いや、もう正直に話してしまうと、僕は山椒魚そのものより、「山椒魚について」(亀井勝一郎)という評論を読んだときのほうがよっぽど感動した。
文学の評論であると同時に、それ自体が文学といっていいほどの思想、情緒を含んでいて、ひとつのノンフィクション作品として成り立っているように思われるのである。
なんらかの意味で旅情なくして、あるいは旅情を人工することなくして、制作は不可能である。
この一言が、いったいどれだけの情緒を作品に与えるだろう。
あなたの好きな作品をひとつ思い浮かべてほしい。
その作品が作者の中に生まれた瞬間、作者の感じていた旅情はどれほどであったか。
ひとつの作品を作り上げてしまうほどの「旅情」がどういうものであるのか、想像してみるだけでも垂涎ものである。
カラッと晴れた初夏の午後に、風鈴の音が掠める軒先で、冷えた麦茶を飲み飲み、好きな本をペラッとやるあの感じだろうか。
知らない街、知らない人々、知らない匂いに囲まれて、嫋々と吹く晩秋の朔風に晒されたときの、あの心細さだろうか。
いや、もしくは…と想像を巡らせていると、僕たちの中にもある種の旅情が生まれていることに気づく。
素敵な文章というのは、作者の初期衝動たる旅情がそのまま読者に伝播するもののことである。
文学者とは、無用人たることである。
むろん明るい覚悟ではなく、暗澹たる覚悟と称すべきものであろう。
(中略)
文学者の有り様は、古来ただ一つしかない。
「ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏離祖室の扉に入らむとせしも、たよりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労して、暫く生涯のはかりごととさへなれば、ついに無能無才にしてこの一筋につながる。」(芭蕉)
これで尽きているのだ。
この部分など、もはや文学評論というより、ある文学作品の中で登場人物が文学評論をしている場面、といったほうが適切である。
インターネットが普及し、綴った文章は一般に公開され評価されるのが当たり前になり、ブランディングだの文章術だの、何かとお追従精神がもてはやされるようになった昨今、「無用人である」という暗澹たる覚悟をもって文学を目指すということが、どれだけ素朴で力強い響きをもっていることか。
神田太郎というアーティストは、その暗澹たる覚悟をもった数少ない現代人ではないかと思われる。
彼が「無用人でいい」と思っているかは僕にはわからないが、少なくとも、有用か無用かなどという他者の評価で、彼の音楽を揺るがすことはできない。
そしてそんな、「たよりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労る」彼の音楽にどれだけ力をもらったことか。
素敵な音楽というのは、歌手の初期衝動たる旅情がそのまま聞き手に伝播するもののことである。
灼熱が続いた今年の夏もようやくその勢いを弱らせている。
僕の家でも先日ついに冬用の毛布をひっぱりだした。
外では、おそらく最後の生き残りである一匹のセミが、その声を弱々しく響かせている。
猫舌の僕には熱すぎた市販のコーヒーは、いつの間にかすっかり冷えてしまって、しなびた顔でうなだれている。
なんらかの意味で旅情なくして、制作は不可能だと亀井は言った。
この記事を完成させてくれたのも、
そんな小さな旅情たちなのだ。
