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SF小説 Memory Banker Ghost Block編 外伝:Moonの大冒険

ぼくが最初に覚えているのは、においだった。
冷たい床のにおい。
古い金属のにおい。
湿った毛布のにおい。

それから、たくさんの犬たちのにおい。

そこは、いつも暗かった。

明かりはついていたけれど、あたたかくはなかった。人間の足音が聞こえると、みんな少しだけ体を小さくした。怒鳴り声がすると、もっと小さくなった。

ぼくは、狭い場所にいた。

兄弟たちとくっついて寝ていた。誰かのお腹が鳴る音。誰かが小さく鳴く声。誰かが壁をひっかく音。そういう音が、毎日だった。

人間たちは、ぼくたちのことをあまり見なかった。
見るときは、数を数えるときだけだ。

「また増えたな」

「売れるだろ」

「黒いのは人気あるんじゃないか」

そんな声が聞こえた。

ぼくには意味はわからなかった。
でも、その声にしっぽを振りたいとは思わなかった。

ある日、人間たちのにおいが変わった。

いつもは、だるそうで、怒っていて、面倒くさそうなにおいがした。
でもその日は、違った。

こわがっているにおいだった。
足音が何度も行ったり来たりした。
扉が乱暴に閉まった。
箱が動かされた。

犬たちが鳴いた。

「まずいらしいぞ」

「厚生局が入るって噂だ」

「犬を減らせ。とにかく減らせ」

その日から、知らない人間たちが来るようになった。

ぼくたちを見るために。

人間たちは、いつも少し離れたところから見ていた。顔をしかめる人もいた。すぐ帰る人もいた。

「ちょっと無理ですね」
「かわいそうだけど、うちでは」
「においが……」

そう言って、いなくなった。

ぼくは、そのたびに耳を伏せた。

人間が来る。
人間が帰る。

それだけだった。

ある日、ふたりの人間が来た。

ひとりは、大人の男の人。
もうひとりは、女の子だった。

その女の子は、他の人間と違っていた。
扉が開いたとき、顔をしかめたけれど、すぐに逃げなかった。

女の子は、おもむろにしゃがんだ。

ぼくたちと同じ高さになった。
その子の目は、まっすぐだった。
悲しんでいるようにも見えた。

でも、嫌がっている目ではなかった。

「……ひどい」

女の子が小さな声で言った。

その声は、怒っているようで、泣きそうでもあった。
大人の男の人は、女の子の肩にそっと手を置いた。

「はな。無理しなくていい」

男の人はそう言った。

でも、女の子は首を横に振った。

「見る」

その声は、小さかったけれど、決めた声だった。

ぼくは、檻の奥からその子を見ていた。
女の子のそばには、白い模様のある子犬が出された。

首の下に、月の輪みたいな白い毛がある子だった。
その子は、人間に持ち上げられて、少し震えていた。

「この子……」

女の子が言った。

「首のところ、月みたい」

白い月の輪の子は、女の子の手をペロリと舐めた。

女の子は、少し笑った。

その笑顔を見たとき、ぼくはなぜか胸の奥がきゅっとした。
ぼくも、その手を知りたいと思った。

あたたかそうな手だった。

でも、ぼくは奥にいた。
ぼくは、真っ黒で、目立つ白い模様もなかったから
人間たちは、いつもぼくを出さなかった。

遠ざかる足音。
扉が閉まる音がした。
ぼくは、しばらくその扉を見ていた。

ああ、
あの人間も帰るのか。

もう来ないかもしれない。
そう思って、
僕はまた、湿った毛布になけなしのぬくもりを求めた。
人間は、たいてい帰ったら戻ってこない。

その日の夜のことを、ぼくは知らないけど
でもあとで、はなが何度も話してくれた。

「お父さん、やっぱりあの子、かわいそうだったね」

家に帰ったはなは、ずっとそう言っていたらしい。

父は、すぐにはうなずかなかった。

「犬を飼うって、かわいそうだけじゃ決められないよ」

父はそう言った。

「ごはんもいる。病院にも行く。毎日散歩もいる。はなが学校に行っている間、どうするかも考えないといけない」

「わかってる」
「本当に?」
「わかってる。ちゃんとやる」

はなは、そう答えた。

でも父は、まだ静かだった。

「命だからな」

その言葉に、はなは黙ったらしい。
しばらくしてから、はなは言った。

「だから、連れて帰りたい」

父は、はなを見た。

「かわいそうだからじゃなくて?」
「かわいそうだからもある。でも、それだけじゃない」

はなは、少し考えてから言った。

「あの子たちだって幸せになる権利がある。」

父は何も言わなかった。
部屋の中は、しばらく静かだったらしい。

それから、父は小さく息をついた。

「本当に、最後まで面倒を見るんだな」
「見る」
「途中で投げ出さないな」
「投げ出さない」
「じゃあ、明日もう一度行こう」

その夜、はなは、なかなか眠れなかったらしい。

ぼくはそのことを知らなかった。

ぼくは暗い場所で、兄弟たちとくっついて眠っていた。
でも、なぜかその夜は、少しだけ違う夢を見た。
あたたかい手の夢だった。

次の日。
また、あのにおいがした。

女の子のにおい。
それから、昨日の男の人のにおい。
少し緊張していて、でも逃げようとはしていないにおい。

ぼくは顔を上げた。
足音が近づく。

扉が開く。

昨日の女の子がいた。

「昨日の子を、迎えに来ました」

女の子の声がした。
男の人も隣にいた。

男の人は、周りを見て、少し眉をひそめた。
でも、帰ろうとはしなかった。

人間の男は、奥へ行った。
乱暴な足音。
かごが動く音。
犬の短く鳴く声。

それから、ぼくの体が持ち上げられた。

!?

突然だった。
ぼくは驚いて足をばたつかせた。
人間は、ぼくを小さなかごに入れた。

暗くなった。

「はい、この子」

外から声がした。
男の人が聞いた。

「中を確認してもいいですか」

「大丈夫ですよ。昨日の子です。早く連れて帰ったほうがいい。においもあるし、ダニもいるかもしれないから」

その言葉の意味はわからなかった。
でも、かごが持ち上げられたことはわかった。

揺れた。

外の空気が入ってきた。
今までの場所とは違うにおいがした。

広いにおい。
変な、嗅いだことのないにおい。
遠くの風のにおい。

そして、女の子の声。

「大丈夫かな」

その声は、ぼくに向けられていた。
ぼくはかごの中で小さく丸まった。

こわかった。

でも、その声はこわくなかった。
家につくまで、ぼくはじっとしていた。

知らない音がたくさんした。

人の声。
扉の開く音。
なにかを脱ぐ音。

そして、かごが床に置かれた音。

「開けるよ」

女の子が言った。
かごの扉が開いた。

まぶしかった。

ぼくは、ゆっくり顔を出した。
女の子と男の人が、ぼくを見ていた。
そして、ふたりは変な顔をした。

「……あれ?」

女の子が言った。
男の人が目を細めた。

「はな。この子、昨日の子じゃないな」
「うん……」
「首の白い模様がない」

ぼくは、床の上で固まっていた。

間違えられたんだ。
そう思った。

ぼくは、違う子だった。
首に月の輪はなかった。
白い模様もなかった。

ただの真っ黒な子。

もしかしたら、戻されるかもしれない。
また、あの暗い場所へ。

ぼくは震えた。

男の人は、かごのそばにしゃがんだ。
ぼくを見て、黙っていた。
女の子もしゃがんだ。

昨日と同じように。

ぼくと同じ高さになった。

そして、手を伸ばした。

ゆっくり。

こわくないように。

「お父さん」

はなが言った。

「うん」

「この子、戻したら、またあそこに戻るんだよね」

男の人は答えなかった。

でも、その沈黙で、ぼくにも少しわかった。

戻る、という言葉は、あまりいい言葉ではない。

女の子は、ぼくを見つめた。

「昨日の子じゃないけど」

ぼくは、その手のにおいをかいだ。
あたたかいにおいがした。

昨日、檻の奥から見ていた手が自分を持ち上げていた。

「でも、この子が来たんだよね」

男の人は、ゆっくり息を吐いた。
困ったにおいがした。
でも、怒っているにおいではなかった。

「そうだな」

男の人は言った。

「この子が、うちに来たんだな」

その瞬間、ぼくの中で何かがほどけた。
戻されない。
たぶん、戻されない。
おんなの手が、ぼくの頭に触れた。

とてもやさしかった。

ぼくは、はじめてしっぽを振った。

少しだけ。

自分でも、どうして振ったのかわからなかった。

「名前、どうする?」

男の人が言った。
女の子は、ぼくをじっと見た。

「本当は、首に月みたいな模様がある子を迎えるつもりだったんだよね」

女の子は、そう言ってから、ぼくの黒い毛をなでた。

「でも、この子も、きっと月に関係あるんだと思う」

ぼくは、女の子を見上げた。

「真っ黒な夜にいる月」

女の子は笑った。

「Moon!お父さん!Moonにしよう!」

その瞬間、ぼくは名前をもらった。

Moon。

それが、ぼくの名前になった。
その日から、世界は変わった。

床は冷たくなかった。
毛布はくさくなかった。
水はいつもきれいだった。
ごはんは、ちゃんと出てきた。

でも
体を洗われたときは、少し泣いた。
ダニを取られたときも、少し怒った。

病院に連れていかれたときは、かなりこわかった。

でも、女の子はずっとそばにいた。

「大丈夫だよ、Moon」

その声を聞くと、ぼくは少しだけがんばれた。
男の人は、最初は少しぎこちなかった。

犬を飼ったことがなかったからだ。
ごはんの量を何度も確認した。
散歩の時間を端末に登録した。
病院でもらった紙を、何度も読み返した。

「はな、犬にチョコレートは絶対に食べさせちゃだめらしい」
「お父さん、それ昨日も言ってた」

「大事なことだからな」

男の人は、そう言っていた。

ぼくは、男の人の足元で寝るのも好きだった。
男の人は仕事をしているとき、あまりぼくを見なかった。
でも、ときどき手を伸ばして、ぼくの頭をなでた。

その手は、大きくて、少し不器用だった。
でも、あたたかかった。

女の子。。。はなは、ぼくをよく抱きしめた。
ぼくが寝ていると、そっと毛布をかけた。
ぼくが転ぶと、すぐに駆け寄った。
ぼくがいたずらをすると、困った顔をした。

でも、最後には笑った。

ぼくは、はなのそばが好きになった。
はなが歩けば、ついていった。
はなが座れば、足元で丸くなった。
はなが泣きそうなときは、手をなめた。
はなが笑うと、ぼくもうれしくなった。

男の人・・お父さんが疲れて帰ってきた日は、玄関まで走った。
お父さんは靴を脱ぎながら、いつも言った。

「Moon、ただいま」

ぼくは、その言葉が好きだった。

ただいま。

それは、帰ってきたという意味だ。
そして、帰る場所があるという意味だ。
ぼくは、あの白い月の輪の子ではなかった。
迎えに来てもらうはずだった子ではなかった。
間違って、かごに入れられた子犬だった。

でも、はなは言った。

「Moonでよかったよね」

お父さんも言った。

「ああ。Moonだな」

そして、ふたりは僕のあたまをなでてくれる。
だから、ぼくは思う。
ぼくは、間違って来たんじゃない。

たぶん、たどり着いたんだ。

暗い場所から。
冷たい床から。
知らない人間の声から。
はなとお父さんのいる家へ。

ぼくの大冒険は、かごの中で始まった。
そして、扉が開いたとき、終わったんじゃない。
そこから、本当にはじまった。

ぼくはMoon。

真っ黒な夜にやってきた、はなの月。

今はもう、こわくない。
だって、ぼくには帰る場所がある。

はながいる。
お父さんがいる。

あたたかい手がある。
名前を呼んでくれる声がある。

「Moon!」

その声が聞こえるたびに、ぼくは走っていく。
ぼくは、はなの家族だから
そして、五十嵐家のMoonだから!

Memory Banker 外伝:Moonの大冒険 
END

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