Memory Banker Shell Swap編 第1話「キャンディ」
わたしが、まだ4歳だったころ。
母と、一つ年上の姉と一緒に、Cognitive Beltにある古本屋を訪れた。
父の職場に近い小さな店だったと思う。
入口には色あせたポスターが貼られ、店内には天井まで届きそうな本棚が並んでいた。少し埃っぽくて、紙の古い匂いがした。
姉は母と一緒に絵本を探していた。
わたしは一人で、その隣の棚を眺めていた。
そこで、一冊の古い漫画を見つけた。

表紙には、金色の髪をした女の子が描かれている本で
本には、「キャンディ」と書かれてあった。
彼女は、わたしがそれまで見たこともないような服を着て、胸元には白いレース。腰には大きなリボン。スカートは花のように広がり、髪には小さな帽子が飾られている。両手を包む手袋にも、細かな刺繍が施されていた。
漫画の中には、もっとたくさんのドレスが描かれていた。
花柄のドレス。
何段ものフリルが重なったドレス。
夜空のような深い青色のドレス。
ページをめくるたび、キャンディは違う姿になった。
けれど、どの服を着ていても、キャンディはキャンディだった。
そのときのわたしには、ベル・エポックという言葉も、まんがの内容もわからなかった。
ただ、綺麗なお洋服をみて
こんなふうになりたい!
そう思うとドキドキしていた。
「おかあさん」
わたしは漫画を胸に抱え、母のところへ走った。
「これ、ほしい」
母は本を受け取り、表紙を見た。
「あら、きれいな本ね」
「キャンディのお洋服、きれいなの。ミライも着たい」
母は少し驚いたようにわたしを見たあと、笑った。
「そうね。とてもきれいね」
その日、母は古い漫画を買ってくれた。
家へ帰ってからも、わたしは何度もページをめくった。物語を読んでもらうより、キャンディの服を眺めている時間の方が長かったかもしれない。
やがて母は、等身大のキャンディ人形を作ってくれた。
母は、昔からものを作ることが好きだった。
布で身体を作り、毛糸で金色の髪を植え、顔を丁寧に縫っていった。完成したキャンディは、幼いわたしたちと同じくらいの大きさだった。
それだけではなかった。
母はキャンディと姉とわたしに、三着のおそろいのドレスを作ってくれた。
白いレース。
淡い水色のリボン。
くるりと回れば、大きく広がるスカート。
小さな帽子と、手袋まであった。
三人で並ぶと、本の中からキャンディが出てきたように見えた。
わたしは何度もスカートをつまみ、鏡の前で回った。
ふわりと布が広がるたび、胸の奥が明るくなった。
その服を着たとき、わたしは初めて、鏡の中の自分を好きだと思った。
キャンディと同じ服を着た姉も、楽しそうに笑っていた。

母は、そんなわたしたちの写真を何枚も撮った。
あのころのわたしは、ずっとこの服を着ていられると思っていた。
けれど、5歳になり、年長組へ上がるころ。
母は、わたしのために男の子の服を用意するようになった。
ズボン。
襟のついたシャツ。
紺色のジャケット。
どれもきれいで、母が一生懸命選んでくれた服だった。
それでも、わたしが着たい服ではなかった。
ある日、わたしは母に尋ねた。
「おかあさん。ミライもキャンディと同じお洋服を着たい」
母は少し困った顔をした。
「ミライちゃんは男の子だから、これからはキャンディとおそろいではなくて、キャンディの王子さまのシャルルと同じお洋服を着ましょうね」
「やだ!」
「シャルルのお洋服も、きれいでしょう?」
「やだ!ミライもキャンディのお洋服を着る」
母は困った顔のまま、わたしを抱き上げた。そのまま自分の膝に座らせると、そばに置いてあった『キャンディ』を手に取った。
ページをめくり、王子さまのシャルルが描かれた場面を開く。
「ほら、ミライちゃん。シャルルのお洋服もきれいじゃない。ここを見て。こんなに素敵な刺繍がついているよ」
たしかに、シャルルの服にも金色の刺繍があった。白い上着には飾りがつき、肩からは長い布が垂れていた。
きれいな服だった。
でも、それはキャンディのドレスではなかった。
「やだ!おねえちゃんばかり、ずるい!ミライも一緒がいい!」
わたしは母にしがみつき、その胸に顔を押しつけた。
「おねえちゃんは、キャンディと同じ女の子でしょう。ミライちゃんは、シャルルと同じ男の子なの」
「じゃあ、なんでいままではよかったの?」
顔を埋めたまま、わたしは尋ねた。
母の手が、ゆっくりと頭をなでた。
「まだ、ミライちゃんが小さかったからね」
「いまも小さいよ」
「そうね。でも、もう五歳になって、年長さんになるでしょう。年長さんの次は小学校なの」
母は、言葉を選ぶように少し間を置いた。
「もしミライちゃんが、キャンディとおそろいの服を着て小学校へ行ったら、お友達から変な目で見られるかもしれない。からかわれたり、いじめられたりするかもしれないでしょう」
わたしには、母がどうしてそんな話をするのかわからなかった。
わたしはただ、好きな服を着たいだけだった。
「おかあさんはね、ミライちゃんに、みんなと楽しく学校へ行ってほしいの。だから、キャンディとおそろいの服を作ったり、おねえちゃんのお古を着せたりするのは、そろそろやめようと思ったの」
母の声は優しかった。
怒っているわけではなかった。
わたしを嫌いになったわけでもなかった。
母は、わたしを守ろうとしていた。
けれど、そのときのわたしには、そんなことはわからなかった。
「いじめられたっていいもん」
わたしは顔を上げた。
「ミライは、キャンディと同じお洋服が好きなの!」
それから、しばらく泣き続けた。
数日後、母は新しい服を作ってくれた。
キャンディと姉とわたし。三人分のおそろいだった。
「ほら、ミライちゃん」
母は、できあがった服を広げた。
「キャンディとも、おねえちゃんとも同じお洋服よ」
それは、シャルルの王子さまの服だった。
白い上着には金色の刺繍があり、胸元には飾りがついていた。母の言ったとおり、とてもきれいな服だった。
キャンディも、姉も、わたしも。
三人で同じシャルルの服を着た。
母は、うれしそうにわたしたちを並ばせた。
「みんな、おそろいね」
姉は少し照れながら笑っていた。けれど、わたしには、シャルルの服を着せられたキャンディが困っているように見えた。姉も、本当は困っているように見えた。
でもきっと、本当に困っていたのはわたし。

鏡の中には、たしかに三人がおそろいで並んでいた。でも、そこに、わたしが好きだったわたしはいなかったのだから。
あの日、わたしは初めて知った。
好きな服があることと、その服を着ることは、同じではない。
どれほど好きでも、身体によって選んではいけないものがある。
鏡の中で一度だけ出会えた自分を、周囲の人たちが同じ自分だと認めてくれるとは限らない。
わたしとキャンディの間には、目には見えない境界線が引かれていた。その境界線を引いたのが誰だったのか、当時のわたしにはわからなかった。
母なのか。
学校なのか。
まだ会ったこともない友達なのか。
それとも、わたしの身体なのか。
ただ、キャンディのドレスを取り上げられたあの日から、わたしは鏡を見るたびに考えるようになった。
鏡の中にいるこの子は、本当にわたしなのだろうか。
そして、鏡の向こうに一度だけ見えた、キャンディと同じドレスを着て笑っていたあの子は、いったい誰だったのだろう。
あれから、ずいぶん長い時間が過ぎた。
けれど、古びた『キャンディ』は、今もわたしの手元にある。
ページの端は擦れ、表紙の色も薄くなった。
それでも、ドレスを着たキャンディは、あの日と変わらない笑顔で立っている。
わたしは鏡の前で本を閉じた。
鏡の中には、現在のわたしがいる。
あの日、越えられないと思った境界線は、今もそこにある。
けれど、今のわたしは知っている。
境界線は、越えられないから存在しているのではない。
誰かが、そこから先へ進ませないために引いたものだ。
だから、わたしは決めた。
今度は、自分の姿を自分で選ぶ。
キャンディになるためではない。
誰か別の人間になるためでもない。
鏡の中に、わたし自身を取り戻すために。
