はな、という名前をつけた人|SF小説 Memory Banker #24
「おはよう。」
声をかけられても、はなはすぐには現実に戻れなかった。夢の余韻がまだ身体に残っている。
自分を抱きしめて泣いていた女性。その顔は思い出せないのに、ぬくもりだけが妙にリアルだった。
(あの人は、誰だったんだろう。)
胸の奥に残る感覚を、はなは何度も反芻する。
「おはよう。」
もう一度声がかかる。父だった。
「……お父さん。」
はなは少し迷ったあと、意を決したように口を開いた。
「亡くなったお母さんって、どんな人だったの?」
「え?どうした、急に。」
父は驚いたように目を見開く。
「うん……夢にね、知らない大人の女性が出てきて。もしかしたら、お母さんなのかなって思って。」
「そういうことか……。」
父は少しだけはにかんだ表情を浮かべたあと、静かに言った。
「強い人だったよ。本当に、素敵な人だった。」
それだけ言って、少し間を置く。そして、視線を落としながら続けた。
「ごめんな。写真も……記録も、ほとんど残っていなくて。」
その言葉に、はなは慌てて首を振る。
「ごめん。変なこと聞いちゃったね。忘れて。」
この話題になると、父はいつも苦しそうな表情を見せる。そのことを、はなはよく知っていた。だから、これまで深く聞かないようにしてきた。それでも今日は、どうしても確かめたくなったのだ。
はなの母は、はながまだ幼いころ、事故で亡くなっている。LQドライバーが運転する車に巻き込まれた事故だった。そのときの衝撃は、父にとって耐え難いものだったらしい。
人格チェーン自体は残っているが、前後の記録が不自然に欠落している。Memory Blockは存在しているのに、連続性が途切れている状態だった。そのため、母に関する情報はほとんど残っていない。
なぜ写真すら残っていないのか、はなには理解できなかったが、その理由を父に尋ねることはできなかった。
「母は、強い女性だった。」
父は、いつも同じ言葉で母を語る。それ以上は、多くを語ろうとしない。
父から聞いた話によれば、母は過去の大きな震災で家も家族もすべて失ったという。ただ一人、生き残り、そこから必死に生き抜いてきた。そして父と出会い、結婚し、はなが生まれた。
「“はな”って名前はね、お母さんがつけたんだ。」
父は、そう静かに教えてくれた。
震災の後、母は別の町へ移り住んだ。
ある日、仕事の都合で、かつて自分たちの家があった場所を訪れたという。
何も残っていないはずのその土地には、一面に花が咲いていた。
名も知らぬ花だったが、その光景を目にしたとき、母は初めて救われたような気がしたのだと、父は語った。
その花は、母にとって希望そのものだった。
だから、自分の子どもにも希望を与えたいと願い、「はな」と名付けたのだという。
自分の名前の意味を、はなは心の中で静かに繰り返した。
そんな母も、今はもういない。
母が亡くなってから、父は一人ではなを育ててきた。日々の生活を支えることだけでも精一杯だったはずだが、それでも父は、はなの前ではできるだけ普段どおりに振る舞おうとしていた。
しかし、母を失ったときの心理的な衝撃は、想像以上に深く残ったのだろう。父の記憶の一部は、今もなお欠けたままで、過去のある時間だけがぽっかりと抜け落ちているようだった。
母の話になると、父はわずかに言葉を選び、視線を落とす。その理由を、はなはもう十分に理解していた。
そのとき、テレビのニュースが流れ始める。
「本日、“Memory Chain Bank制度”が可決・施行されました。」
画面の中で、MCR大臣が落ち着いた口調で説明している。
「本制度は、故人のメモリーチェーンを医療研究、AI学習、そして知識基盤として活用することを目的としています。個人の経験は社会全体の資産として管理されます。しかしながら、メモリーチェーンは、すでにAkashicに保管されているため、追加の手続きは必要ありません。政府としては、すでにある資産を国民のために活用する所存です。」
記者が質問する。
「これらのメモリーチェーンは、民間企業に委託される予定なのでしょうか。」
「はい。今後、入札によって委託先を決定する予定です。」
大臣は穏やかに答えた。
その様子を見ながら、はなは自然に話題を切り替えた。
「これ、昨日もニュースでやってたよね。」
「そうだな。」
父は小さくため息をつく。
「亡くなった人の記憶を家族に戻さず、国の資産にするなんて……少しやりすぎだと思う。」
父の声には、わずかな苛立ちがにじんでいた。
「どうせ、委託先はHelixだろうな。」
父は、吐き捨てるように言う。
「Helixって、メモリーチェーンの大手だよね。」
はなは、ショッピングモールで見たExperience Chain Marketの光景を思い出す。
「ああ。ほとんどのメモリーチェーンは、Helixの関連会社が関わっている。正直、独占に近い状態だよ。」
父は苦い表情を浮かべる。
「噂では、MCR監督局よりもHelixのほうが強い影響力を持っている、という声もある。つまり、本来は監督する側であるはずの機関が、実際には十分にコントロールできていないということだ。」
少しだけ間を置いて、静かに続けた。
「政治は大企業に影響されやすく、監督庁もまた政治の力から自由ではない。インフラを握るHelixは、その大企業の中枢にある。――だからこそ、結末は最初からある程度決まっているようなものだ。」
父は再びため息をつき、リモコンでチャンネルを変えた。
しかし別の局でも、同じニュースが繰り返されている。
「……どこも同じか。」
そうつぶやくと、父は立ち上がった。
「今日は少し早めに会社に行くよ。はな、あとは頼むな。」
そう言い残して、リビングを後にした。
一人になった部屋に、ニュースの音だけが静かに流れ続ける。
はなは、もう一度、夢の中の女性を思い出だした。
あのぬくもり。
あの感情。
(あの人は、本当にお母さんだったのかな。)
もし違うとしたら、あれは何だったのか。
記録に残らなかった、誰かの記憶なのか。
答えの出ない問いだけが、静かな朝の中に残り続けていた。
