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子供用ハーネスに反対してる奴等は責任を取らないので予防原則を採用せよ

「人類の真の存続と調和するよう取り返しのつかない破滅的結果をもたらす可能性のある行動はいかなる対価を払ってでも回避せよ。」
 
未知なる脅威とりわけ結果が取り返しのつかない不可逆的な悲劇を引き起こす事象に対しては科学的な確実性が完全に証明される前であっても最悪の事態を想定して事前に対策を講じるべきとする強固な思想。
 私達予防原則家はこの思想を日常の生活空間におけるあらゆる次元に適用する。
 社会には数え切れないほどのリスクが存在し人々は常に確率と利益の計算によって日々の行動を決定する。しかしひとたび失敗すれば全てを失う「破滅のリスク」が介在する場合いかなる費用対効果の計算や社会的な美意識も完全に無価値と化す。ヨナスは最悪の結末をあらかじめ想像しそれを回避するための行動を喚起する「恐怖の発見法」を提唱した。私達が直面する最も身近でかつ最も深刻な破滅のリスクであり最大の恐怖を抱くべき対象。それは次世代を担う幼児が直面する予測不可能な突発的致死事故に他ならない。
 命が消えれば二度と元には戻らない。
 幼児
という存在は私達が統制を試みるこの精緻な物理世界において極めて特殊で制御不能なエントロピーの塊として機能する。彼らは社会が暗黙のうちに共有する交通規則や質量と速度がもたらす破壊力という冷徹な物理法則を全く理解せずある瞬間に突然予測不可能なベクトルへと全エネルギーを解放し危険地帯へと駆け出す。その動きを完全に予測し一秒の遅れもなく未然に防げる知能はこの世界には存在しない。
 ナシーム・ニコラス・タレブ
はその著書『ブラック・スワン』において「稀であるが極端な影響をもたらす事象に対して人間は事後的にしか理屈をつけられない」と鋭く看破した。子供が親の手を突然振り解き車が疾走する道路に飛び出すその一瞬こそまさに日常の風景に突如として現れる局所的かつ致命的なブラック・スワンを意味する。タレブが同書で指摘するように人間は過去の平穏な経験に引きずられ未来に潜む破局的な事象の確率を極端に低く見積もるという致命的な認知バイアスを持っている。
 
「今まで大人しく手を繋いで歩いていた」という過去の事実は「次の瞬間も大人しくしている」という未来の安全を何一つ保証しない。脆弱な人間の肉体とりわけ発育途上にある幼児の骨格と臓器は時速数十キロで移動する鉄の塊が持つ巨大な運動エネルギーの前ではあまりにも無力だ。
 私達は絶対的な不確実性と物理的な破壊力を前にして人間の注意力という極めて脆弱なソフトウェアに安全の根拠を依存する過ちを犯してはならない。人間の認知資源には厳格な限界が存在し肉体的な疲労睡眠不足あるいは周囲の些細な外部刺激によっていとも容易くエラーを引き起こす。親が子供の手を常に強く握りしめ一瞬たりとも目を離さないという行為は一見すると確実な安全策に思えるかもしれない。しかしそれは親という単一の実行主体が長時間の外出において『一瞬の隙も見せずに』『完璧な監視装置として』『機能し続ける』という『非』現実的な前提の上に構築された極めて脆い砂上の楼閣に過ぎない。こども家庭庁が発信する「こどもを事故から守る!事故防止ポータルサイト」の存在はまさにこの過酷な現実に対する国家レベルでの認識の萌芽を示す。

 ここでは個人の注意力や精神論のみに依存するのではなく社会全体で物理的・環境的な対策を講じることの重要性が明確に示唆されている。さらに同庁の「こども事故防止ハンドブック」においても大人の論理が通用せず予期せぬ行動をとる幼児の特性を前提とした具体的な防護策が提示されている。

 これらはすべて悲劇的な結果が起きてから後悔の涙を流すのではなく最悪の事態が発生する確率を物理的かつ構造的に低減させるための予防原則的なアプローチの証左と評価できる。
 
にもかかわらず世間には幼児に対するハーネスの使用を忌避し「犬じゃないんだから」と非難する声が絶えない。先日も二歳の子供にハーネスを使用していた親が通行人の心ない言葉によって精神的に深く追い詰められその使用を断念せざるを得なくなったという痛ましい事例が報道を通じて広く知れ渡った。

 このような外野からの『感情的な』非難予防原則の観点から見れば致命的な認知の歪みから生じる極めて『非』合理な態度に等しい。彼らはハーネスという物理的な安全装置が『視覚的』にもたらす「かわいそう」「ペットのようだ」という『表層的』な『美』意識を子供の生存確率という絶対的な価値よりも上位に置いている。何食ってたら見た目さえ良ければ命は助かりますなんてルッキズム万能論発明しちゃうんですかねこの人達。
 重大な結果が予想される場合私達は『他者の』『無責任な』『感情論』によって事前対応を後退させてはならない。タレブは著書『身銭を切れ』の中で「自らの行動の結果として生じるリスクを引き受けない者の意見を聞いてはならない」と強く戒めている。万が一親がハーネスを外した直後に子供が車道へ飛び出し取り返しのつかない事故が起きたときその「かわいそう」と言い放った通行人は決して失われた命の責任を取らない。彼らは安全な場所から美学を語るだけで破滅的リスクの当事者には決してならない。安全を犠牲にした美意識などただの欺瞞に過ぎない。子供の命を社会的体面や「人間らしさ」という曖昧な概念の祭壇に捧げる行為はヨナスが説く「未来への責任」に対する完全な裏切りを意味する。見栄のために命を賭ける権利を私達は誰にも認めない。
 
この予防原則に基づく物理的な制約の思想は決して現代特有の冷酷で突飛な発想ではない。歴史の深層を丁寧に紐解けば人類は常に環境の制約とリスクの狭間で同様の事前対応策を経験的に編み出してきた事実が浮かび上がる。例えばかつての日本の農村地帯で広く用いられていた「えじこ(嬰児籠)」と呼ばれる育児用の農具が存在する。岐阜県の関ケ原町歴史民俗学習館の貴重な資料によればこれは農作業中に乳幼児を安全な場所に留め置くための藁などで作られたを指す。

 親が過酷な労働によって目を離さざるを得ない状況下で子供が危険な場所へ移動し不慮の事故に遭うリスクを物理的に隔離してゼロにする。これはまさに当時の資源が限られた環境下において命を繋ぐための究極の予防原則的デバイスと評価できる。しかし近代化の過程でこのような物理的制約を伴う育児手法は「野蛮だ」「非人道的だ」という『感情的な』批判に晒され徐々に姿を消していった。り育児のパラダイムは大きく変容してきた。
 私達はそのような物理的制約の放棄を無批判に「進歩」と呼ぶことに強く罵倒する。
 子供が死ぬ事が野蛮でも非人道的でもないとお考えになるなんて随分と進歩的な脳味噌をお持ちなのですね人型畜生の皆様は。
 
社会が経済的に豊かになり危険が視覚的に隠蔽されたからといって幼児の本質的な予測不可能性や親の認知資源の限界が突然解消されたわけでは決してない。ダ・ヴィンチニュースの記事が「『3歳児神話』で本当に苦しむのは誰か?」と鋭く問いかけているように現代の親たちはかつて物理的な道具が担っていた安全確保の巨大な重圧を自らの精神力と絶え間ない監視能力のみで負担するよう強いられている。

 これは安全の基盤を強固な物理的構造から極めて脆弱な個人の心理的構造へと退行させた歴史的な逆行現象だ。
 タレブが提唱する「否定への道(Via Negativa)」の概念に従えば私達がなすべきことは親にさらなる注意深さや高度な教育的テクニックを「追加」することではない。ハーネスという単純明快な物理的介入によって致命的な事故に至る可能性そのものをシステムから「排除」することだ。感情では物理的な衝撃を相殺できない。
 子供が問題行動を起こす前の環境に介入し危険な選択肢をあらかじめ排除するというそのアプローチは極めて実践的で有効だ。教育や躾というものは対象の生命が明日も確実に存在し続けているという極めて稀有で奇跡的な連続性を前提とした事後的な行為に過ぎない。命が存続しなければ学習も成長も起こり得ない。生き残らなければ何も学ぶことはできないという厳然たる事実に尽きる。全ての人為的システムや人間の注意力は必ず破綻する。人間の肉体とりわけ幼児の脆弱な頭蓋と未発達な骨格は物理的な衝撃に対して極めて脆弱であり一度壊れれば二度と完全な状態には再生しない。この絶対的な脆弱性を補完し破局的な結末を未然に防ぐためには個人の意志力に依存するのではなく外部に強固な防護壁を設けるしかない。それこそが親と子供を物理的に繋ぐハーネスという安全装置の真の本質を意味する。
 
私達はそれを単なる「賢い子育てのテクニック」として消費するのではない。不条理で危険に満ちた物理世界から次世代の命を強制的に奪い返し人類の存続を確実なものとするための「生存のための闘争」として位置づける。
 
ハーネスを幼児に装着するその手にはあらゆる不確実性と他者の無責任な非難を完全に跳ね除けただひたすらに命の存続という絶対的な結果のみを追求する強烈で崇高な意志が宿っている。私達はこれからもこの冷徹で確実な命綱を固く握りしめ美意識や感情論という名の欺瞞から子供達を守り抜く。

 命こそが全てに優先する唯一の真理なのだから誰が何と言おうとあの命綱を頼る選択を断固として支持する。

子供用ハーネスの付け方ローブ


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