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川上皓陽氏の「筑波大学について」に対するリマインド文

2025年5月1日

 川上皓陽氏の筑波大学の現状に関する記事を読み、私は不思議な感覚に襲われた。私も筑波大学の学生でありながら、彼が描く大学の姿を知らないからだ。

 私が所属する春日キャンパスでは、学生証をチェックする検問も、腰に警棒を携えた警備員の姿もない。中央キャンパスで日常となっている厳重な警備体制は、この「孤島」と呼ばれる春日キャンパスには波及していないのだ。

 筑波大学の広大なキャンパスは、実は複数の小宇宙から成り立っている。皇族が所属する学類がある中央キャンパスでは、出入口での厳格な身分確認、教室情報の非公開化、サークル活動への制限が日常となっている。一方、情報学群や図書館情報メディア研究科が集まる春日キャンパスは、まるで別世界のように従来の大学生活が維持されている。

 この乖離は、ある意味で筑波大学の分断を象徴している。同じ大学に所属しながら、私たちは全く異なる環境で学んでいる。中央キャンパスの学生が次々と権利を制限されていく様子を、春日キャンパスからは遠い出来事のように眺めている。時折耳に入る噂話を「あちらの世界の話」として片付けてしまう自分がいる。

 しかし、この分断こそが最も危険なのではないだろうか。春日キャンパスに警備の網が及んでいないのは、単に「まだ」の問題かもしれない。あるいは、私たちが「重要でない」と判断されているだけかもしれない。どちらにせよ、一部のキャンパスだけが影響を受けていることに安堵するのは、大学全体の自由が蝕まれていく事態を黙認することに等しい。

 春日キャンパスには、情報技術を学ぶ学生が集まっている。情報の自由な流通、プライバシーと監視のバランス、社会システムのあり方について日々考えているはずの私たちが、目の前で起きている監視強化と自由の制限に無関心でいることは、学んでいる内容と行動の矛盾ではないだろうか。

 私たちの孤島は、大学本部から遠く離れているがゆえに、まだ自由を保っている。しかし、その自由は脆く、いつ制限されてもおかしくない。中央キャンパスで起きている変化は、明日には春日キャンパスにも及ぶかもしれない。そして、その時になって抵抗しようとしても、すでに遅いのではないだろうか。

 川上氏は「同じ問題意識を持つ人どうしで話し合い、考え合うことが必要」と述べている。この呼びかけは、春日キャンパスの学生にも向けられているのではないだろうか。地理的な距離や学問分野の違いを超えて、私たちは筑波大学の学生として、この大学の未来について考える責任がある。

 皮肉なことに、春日キャンパスで学ぶ私たちは情報技術の力を理解している。物理的な距離を超えてコミュニケーションを取り、情報を共有し、協力して問題に取り組む方法を知っている。この知識と技術を、大学の自由を守るために活用できないだろうか。

 あるいは、春日キャンパスという「まだ自由な空間」を活用し、中央キャンパスでは難しくなりつつある自由な対話や活動の場を提供することもできるのではないか。

 筑波大学の建学の理念に「開かれた大学」があることを川上氏は「欺瞞に満ちている」と評したが、その理念を本当に実現するのは大学執行部ではなく、私たち学生自身なのかもしれない。キャンパス間の分断を超えて連携し、大学の自由と自治を守る活動を始めることこそ、筑波大学の学生として今できる最も重要なことではないだろうか。

 春日キャンパスの静けさは、平和ではなく無関心の表れかもしれない。この静けさが、大学全体の自由が失われていく中での沈黙にならないよう、私も行動を始めたい。まずは、中央キャンパスの現状を知り、学生同士のネットワークを構築することから。

 孤島から橋を架ける時が来ている。

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