5月下旬に羽子板を買って、正月を待っている
正月には、特有の空気感がある。
街が静かになって、店が閉まって、テレビの番組が普段と変わって、人々の動きが少しゆっくりになる。あの独特の空気を、毎年感じている。一年の区切りという感覚が、空気の質を変えているのかもしれない。
しかし、正月らしい遊びを、僕は一つもしたことがない。
初詣には行く。それは毎年の習慣だ。しかし初詣は、遊びではない。参拝だ。正月特有の「遊び」に分類されるものに、僕はほとんど触れてこなかった。
例えば、羽子板。
したことがない。あの板で羽根を打ち合う遊びを、一度もやったことがない。やる機会がなかったし、やろうと思ったこともなかった。バトミントンでいいやん、と思っていた。羽子板とバトミントンは、構造的にはほぼ同じだ。羽根を打ち合う。ならば、より一般的なバトミントンで十分ではないか。
しかし、よく考えると、そのバトミントンすら、ほとんどしていない。
代替案として提示したバトミントンが、そもそも自分の経験にない。羽子板をやらない理由としてバトミントンを挙げたが、バトミントンもやっていないのだから、論理が成立していない。僕が羽子板をするわけがない、という結論だけが、ぽつんと残る。
駒回しも、しない。
コマを回すのも、正月特有の遊びだろう。紐を巻いて、勢いよく投げて、地面で回す。あの遊びを、僕はやったことがない。やり方すら、正確には知らない。テレビで見たことはあるが、自分の手で紐を巻いた記憶がない。
カルタは、持っている。
しかし、開けたことがない。箱に入ったまま、棚に飾ってある。いつ買ったのか、なぜ買ったのか、もう覚えていない。正月らしいものを所有しておきたいという気持ちで買ったのかもしれない。しかし、開けて遊ぶことはなかった。所有しているだけで、満足してしまった。
百人一首は、そもそも正月の遊びなのだろうか。
持ってはいる。しかし、坊主めくりしかしたことがない。本来の、上の句と下の句を覚えて札を取る、あの競技性の高い遊び方を、僕は知らない。坊主めくりという、運だけで決まる簡易版だけを、かろうじてやったことがある。
凧揚げは、記憶が曖昧だ。
小学校の自由工作で、凧を作った記憶がある。しかし、その凧は、木に引っかかった。揚げようとして、すぐに木に絡まって、それきりだった。僕は、自分の凧が木に引っかかったまま、友人の凧が空を舞うのを、地面から眺めていた。なんとも切ない記憶だ。
しかも、あれはゴールデンウィークだった気がする。
正月の記憶として保存していたが、よく思い出すと、季節が違う。凧揚げ自体が正月の遊びなのか、それとも別の時期のものなのか、その境界すら、僕の記憶の中では曖昧になっている。
正月の遊びとの距離が、これほど遠い。
そこで、思い切った。
羽子板を、買った。
Amazonには、なんでもある。本当に。羽子板も、検索すれば出てくる。羽根のセットも一緒に売っている。注文ボタンを押せば、数日で届く。季節に関係なく、いつでも買える。

今は、5月下旬だ。
正月まで、半年以上ある。羽子板を使う季節は、まだずっと先だ。それでも買った。買ってしまった。届いた羽子板を、部屋の隅に置いている。出番のない羽子板が、夏も秋も、そこで待つことになる。
長靴を買って雨を待った時と、同じだ。
準備が、その対象をはるか先に置いている。雨も、正月も、まだ来ない。来ないものを、準備だけ整えて待っている。
しかし今回は、少し違う。
雨は、いつ降るかわからなかった。しかし正月は、必ず来る。来年の1月1日は、確実に来る。その日を目指して、羽子板が、部屋の隅で待機している。
正月が、楽しみだ。
半年以上先の正月を、5月下旬に楽しみにしている。羽子板を打つ相手がいるかどうかは、まだ考えていない。とりあえず、道具は揃った。
カルタの隣に、羽子板を置こうかと思っている。
開けられないカルタと、まだ使えない羽子板。正月の遊びの道具が、二つ、僕の部屋で出番を待っている。
来年こそは、開けるかもしれない。
