名を呼ばない道/第十六話 書いた手
それは、地図に載らない道である。
誰かが名を与える前からそこにあり、
呼ばれないまま、人の足だけを受け入れてきた。
境目に現れ、境目に消える。
社のない神社、磐座、言葉にならなかった音、
記録されないまま残った民間伝承——
それらが折り重なる場所に、この道はひらく。
これは人生における「道」を思索し、哲学する物語である。
その夜、直人はなかなか寝つけなかった。部屋の灯りを落としても、掲示板の三行が瞼の裏に残っている。渡り手は、名を持つ者、名を使わぬ者。時計の針がひと目盛り進む。
外が静まりきったころ、直人はおもむろに立ち上がった。もう一度、確かめたい。真夜中の旅館の廊下は長かった。照明は低く沈むように暗く、足音は床板にやわらかく吸われていく。壁に貼られた避難経路図だけがやけに鮮明だった。
玄関の引き戸を引くと、夜風があの紙の匂いを運んでくる気がした。旅館の前の通りをゆっくり歩く。昼間は車の音で満ちていた道が、いまは広く平らだ。信号は点滅に変わり、影だけが動いている。店舗前に積まれていた段ボールは片づけられ、シャッターの影だけが道に伸びていた。明るいときには気づかなかった細い路地が、夜になるとかえって輪郭を持つ。昼は人が道を決める。夜は、道のほうが残る。
商店街を抜けるとあの掲示板が見えてきた。その前に人が立っているのが見える。こちらに向いた背中は弦を張った弓のようで、妙に姿勢がいい。年齢も性別も判別がつかないその人は、掲示板に向かい何かをしているように見えた。

直人は、掲示板の五歩ほど手前で足を止めた。直人が近づいても、その人は足元に落ちた影の最も濃い中心のように、少しもぶれなかった。
夜の空気がわずかに緩んだとき、その人が一歩横にずれた。夕方見た紙の端が目に飛び込んでくる。細い線が一本増えていた。文字ではない。図でもない。往復しない線。直人は息を止めた。古文書の下部に描かれていた、あの線と同じだ。
「それ、誰が書いたんですか?」
思ったより低くかすれた声が出た。その人は背を向けたまま、静かに答える。
「書いだどは言わねよ。」
若くも老いてもいない、男とも女とも区別がつかない声が言う。
「ただ通しだだけ。」
直人は、足を一歩前に出した。相手の肩がわずかに揺れる。それは身を引く揺れではなく、息を吸い直すときの小さな動きだった。
「どうして・・・」
直人は言葉を探した。どうしてこの人は、あの線のことを知っているのか。
「あなたは・・・」
何をしている人なのか。どこの誰なのか。一体何者なのか。その人は、直人の言葉を遮るように、少しだけ視線を上げて言った。
「名は、重いよ。呼ばれっと止まる。止まっと次が渡れね。」
直人はノートを思い出していた。
名は 位置である
掲示板に向いていたその人の横顔が、ゆっくりと角度を変え、直人を捉えた。顔ははっきりと見えているのに、年齢も性別もわからない。輪郭のやわらかな顔立ちだった。
「もう知ってるべ。」
問い詰めるでもなく、教えようとするでもない心地よい静かな声が、直人の耳に触れる。
「だから、聞がねほうがいい。」
しばしの沈黙ののち、その人の重心がわずかにずれた。体の向きが夜の通りへとほどけていく。気づいたときには、その人はもういなかった。音も、影も、残らない。
直人は掲示板の前に立った。紙の端に、もう一行増えている。
名を知るな
知れば、使う
目を閉じると、町の下で川の音がした。見えないはずの水が確かに流れている。音は遠い。だが、地面の奥からゆっくりと滲み伝わってくる。直人は、しばらくそのまま耳を澄ませていた。
やがて目を開けると、紙の端だけが夜風にかすかに揺れている。商店街へと引き返す。足音がアーケードの天井に吸われていく。点滅している信号機の下を通り、旅館の明かりが見えるころには、胸の中のざわめきも静まっていた。

