連作短編/月のこだまと存在の隙間で⑷あいだにあるもの
11歳の紬(つむぎ)は、声を出すことができない。けれど、そのぶんだけ、見えるものや聞こえるものがある。
児童養護施設で出会う、さまざまな人たち。うまく言えない気持ち、すれ違い、やさしさ。紬は、目に見えない友だち「こだま」とともに、そうした瞬間を静かに見つめていく。
これは、言葉にならないものにそっと触れていく、小さな連作短編。
第四話 あいだにあるもの
廊下を歩く音が、あちこちから聞こえてくる。とっとっ。ぱたぱた。ととっ。近くでふっと止まる音。そのまま遠ざかっていく音。紬はその不揃いなリズムに耳を傾けながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。
紬は11歳。母を事故で亡くしてから、この児童養護施設で暮らしている。声は出ないままだけれど、不思議とあまり困らない。ねぇ、こだま。声がないと静かで、いろんな音がよく聞こえてくるね。
“耳が 澄むね”
紬の声にはならない語りかけに、こだまが柔らかく、音にはならない答えを返す。目に見えないこだまは、いつも紬のそばにいてくれる大切な友だちだ。
「つむぎー!」
廊下の向こうから、陸が軽く手を上げて近づいきた。陸は高校3年生。この施設で一番年上の一人だ。紬は、何も言わなくても察してくれる陸の前では、気を張らずにいられた。
「高梨先生が探してたよ。」
紬は小さく首をかしげた。
「明日、隣町に買い物行くんだろ?そのことだってさ。」
紬はこくりと頷いた。
「楽しんでこいよ。」
そう言うと、陸は窓の外へと目を向けた。外では、子どもたちが遊具や縄跳びで遊んでいる。陸の視線が、庭の隅にゆっくり流れていく。
「うーん。」
陸が低い声を漏らした。紬はわずかに目を見開いて、陸を見上げた。
「あそこ。」
陸が顎で示す。
「ベンチに、一人で座ってるだろ。」
紬は窓の外に顔を向けると、庭の隅にあるベンチに目をやった。寛太が座っている。紬にちょくちょく話しかけてきてくれる、中学2年生の男の子だ。
「寛太さ、最近ちょっと元気なくない?」
紬は首をひねり、顎に手を置くと、最近の寛太を思い浮かべてみた。・・・そういえば、最近、あまり話しかけてこないかも。ねぇ、こだま。いつも誰かと一緒なのに、今は一人みたいだし。
“一人で いるね”
こだまの声が、静かに落ちる。
「無理に話しかけるのも、違うかなって思ってさ。」
陸は窓枠に手をかけ、話を続ける。
「しんどいときって、放っといてほしいときもあるじゃん?だから、話しかけづらくてさ。」
ねぇ、こだま。陸は優しいね。こだまが紬の頬を軽く撫でる。
“話しかけたいね”
そうだよね。本当は、話しかけたいんだよね。陸が口端をわずかに上げて、苦笑した。
「まあ・・・難しいよなぁ。」
それだけ言うと、手をひらりと振り、引き返していった。紬はその場にしばらく立ち止まったまま、窓の外を眺めていた。庭の端にいた寛太が、ゆっくりと立ち上がる。鈍い足取りで、のそのそと庭を横切ると、玄関を開けて中に入ってきた。
紬は、その様子を目で追いながら、ゆっくりと居間の方へと向かった。寛太が居間のソファにどかっと座る。そのまま首をソファの背に預けると、天井を仰いだ。
紬は、居間の棚からトランプを持ち出すと、寛太にそっと近づいていった。寛太の肩をとんとんと叩く。寛太はのそりと首を傾け、目だけを紬に向けた。紬はトランプの箱を、寛太の目の前にくいっと突き出す。寛太は背もたれから背を離すと、紬の方に体を向けた。
「それ、やるの?」
紬は、うんうんと2度頷いてみせた。
「うーん・・・まぁ、いっか。今暇してたし。」
二人は窓際にある丸テーブルに移動して、向かい合わせに座った。最近この施設では、神経衰弱が流行っている。寛太は「神経衰弱だろ?」と、当たり前のようにカードを裏返してテーブルに広げた。
「紬は強いからなぁ。」
じゃんけんの後、寛太からゲームが始まる。寛太は勢いよく一枚目のカードをめくると、もう一枚をそっとひっくり返した。紬は少し間を置いてから一枚目に手を伸ばし、もう一枚をすっとめくる。何度も繰り返すうちにカードが減り、隙間が増えていった。
ふいに、カードの上を泳いでいた寛太の手が止まる。寛太は目線をカードに落としたまま、言葉を探すように、途切れながら話し始めた。
「なんかさ、最近俺・・・陸に避けられてない?ほら、紬は陸と、その・・・結構仲がいいだろ?えっと・・・なんて聞けばいいかな。」
寛太は眉間に手を当て、しばらく考える。ねぇ、こだま。二択を考えてくれてるんだね。
“寛太 優しいね”
こだまのふんわりとした声と、寛太の不安気な声が重なる。
「陸、俺になんか怒ってる?」
紬は目をぱちくりさせると、ぶんぶんと大きく首を横に振った。ぐいっと寛太の手首を引き寄せ、その手のひらにゆっくりと文字をなぞる。
し ん ぱ い し て る
「心配・・・してる?」
紬はこくりと力強く頷き、寛太を見つめた。
「ああ・・・そっか。俺の方がそっけないのか。なんかさぁ・・・気を使わせちゃいそうで。逆に、話しかけづらいっていうか。」
いーち、にぃー
庭から縄跳びで遊ぶ子たちの、大きな掛け声が聞こえてくる。寛太はその掛け声に紛れるように、ぼそぼそと話を続けた。
「迷惑かけたくないし。誰だって、しんどいときって・・・あるじゃん?」
言い終わってから、苦笑する。
「そんな大したことじゃないんだけどさ。」
紬は静かに頷いた。ねぇ、こだま。陸も寛太も、優しいせいですれ違ったんだね。
“思いやりの すれ違い”
こだまの柔らかな声が、紬を優しく包み込む。寛太が思い出したように手を伸ばし、伏せられたカードを一枚めくった。それから再び、二人は黙々と神経衰弱を続けた。
「お、やってんじゃん。」
入り口から、大きな声が響いてきた。顔を上げると、陸がこちらに近づいてくる。
「俺も混ぜて。神経衰弱だろ?」
寛太がすかさず答えた。
「いいよ。もうほとんど終わったとこだしさ。紬の圧勝で、今更逆転もない。」
紬は、得意気に陸を見やった。
「俺は負けねぇぞ。」
陸は口の端をにっと上げた。椅子がひとつ引かれる。寛太がかき集めたカードを手早く切り直し、テーブルに伏せて広げる。じゃんけんで順番が決まった。
陸が一枚目のカードをすっとめくり、もう一枚を確かめるように端からゆっくりとめくる。寛太は勢いよく一枚目をめくり、もう一枚をそっとひっくり返す。紬は少し間を置いて一枚目に手を伸ばし、もう一枚をすっとめくった。カードをめくり、カードを戻す音だけが居間に響く。
だるまさんが転んだ
外から子どもたちの笑い声が聞こえてきた。縄跳びのお次はだるまさんと思ったとき、陸がおでこに手を当てて嘆いた。
「あー、違った。」
その声に、寛太がちらりと顔を上げる。
「さっきそこ、見てたやつじゃん。」
陸が片手で頬を撫でながら、苦笑いする。
「これだと思ったんだけどなぁ。」
「混乱してるし。」
寛太の口元がわずかに緩んだ。短い言葉が、ぽつりぽつりと続く。寛太が二回立て続けに当てる。紬が外す。陸が一枚目をめくる。
「きたきた。」
ほくそ笑みながら、二枚目をすっとめくる。
「わっ。やられた。覚えてたかぁ。」
寛太がうなだれる。
「そりゃ、覚えてるでしょ。」
陸が、得意気に鼻の穴を膨らませた。
“ほぐれて きたね”
こだまの声が、紬の中に柔らかく広がった。ゲームが終わり、テーブルに散らばったカードを陸が寄せ集める。
「なぁ、寛太。」
両手でカードを揃えながら、静かに言葉が続く。
「最近、ちょっとしんどそうだな。」
寛太は下を向くと、かすれるような声で答えた。
「・・・うん。」
「無理に話しかけるのも違うかなって、声をかけずにいたんだ。」
陸は、目を逸らさずに寛太を見ていた。寛太はふぅーっと深く息を吐くと、意を決したように顔を上げた。
「俺もさ・・・」
言葉がわずかに止まる。
「迷惑かけたくなくて。陸のこと、避けてたわけじゃないんだ。」
陸は、首を振る。
「迷惑とかじゃないよ。全然。」
「でも、俺ってさ、頼るのあんま得意じゃないんだよね。」
また間が落ちる。
もういいかい
もういいよ
外で遊ぶ子どもたちの声が、さっきより遠い。
「じゃあさ、無理に話さなくてもいいから、たまにこうやって一緒にいようぜ。」
寛太は陸に頷いてみせたあと、紬を見てにやりと笑った。
「打倒、紬だね。」
陸と寛太が目を合わせ、声をあげて笑う。空気が柔らかい。さっきと同じ三人なのに、どこか違う。開かれたカードのように、きれいに揃っているわけじゃない。でも、伏せられたままのばらばらでもない。そのあいだに、何かがある。ねぇ、こだま。全部じゃないけど、ちゃんと届いたね。ちゃんと繋がったね。
“うん 全部じゃなくても いいね”
こだまの声が、紬の中で静かにほどける。
ぱたぱた
ぱたぱたぱた
廊下の向こうで、いくつかの足音が重なりながら、外にいた子どもたちが、ひとり、またひとりと戻ってくる。食堂からは、夕飯のいい匂いが漂ってきていた。
