連作短編/月のこだまと存在の隙間で⑶ 見えた先の知らないままのかたち
11歳の紬(つむぎ)は、声を出すことができない。けれど、そのぶんだけ、見えるものや聞こえるものがある。
児童養護施設で出会う、さまざまな人たち。うまく言えない気持ち、すれ違い、やさしさ。紬は、目に見えない友だち「こだま」とともに、そうした瞬間を静かに見つめていく。
これは、言葉にならないものにそっと触れていく、小さな連作短編。
第三話 見えた先の知らないままのかたち
夕方の柔らかな光に包まれ、滑り台の斜面が白く浮かび上がっている。紬(つむぎ)は、地面に半分埋まった古いタイヤに腰を下ろし、図書館から借りてきた『モモ』を読んでいた。読み始めたばかりで、モモが古い円形劇場を町外れで見つけたところだった。
紬は11歳。母を事故で亡くしてから、この公園近くにある児童養護施設で暮らしている。あの日から、声は出ないままだけれど、声のない静けさは、結構気に入っている。
突然、辺りに広がる子どもたちの声の合間に、ざっ、と乾いた音がした。紬が本から顔を上げ、音のする方に目をやると、砂場の端で小さな男の子が足を勢いよく振り上げている。
ざっ、ざっ
靴のつま先で砂を蹴り上げるたび、ぱらぱらっと砂粒が空に散っては落ちる。同じ砂場で遊んでいた子が、のけぞるようにして後ろに下がった。
ざっ
今度は、大きく砂粒が舞う。
「わっ!」
とうとう、その子が砂場から逃げ出した。慌てて女の人が砂場へと駆け寄って行く。どうやら、砂を蹴っている男の子のお母さんのようだ。
「だめでしょ。」
そう畳みかけるように男の子に言うと、逃げた子の方に早足で歩み寄り、声をかけた。
「ごめんね。大丈夫?」
膝を折り、その子の靴についた砂を、ぱん、ぱん、と払う。その子はこくりと頷くと、後ろを振り返り「ママー」と小さな声を上げた。ベンチに座っていた女の人が、急いでその子のもとへと駆けつける。
「すみません。」
男の子のお母さんは、女の人に向けて申し訳なさそうにお辞儀をした。
「いえ。」
母親同士の短いやりとりが交わされ、空気が少しゆるんだことで、紬はほっと胸をなで下ろした。
砂場に目を移すと、砂を蹴り上げていた男の子が、俯いたまま靴の先でぐりぐりと砂を押し続けている。男の子のお母さんは、そのこわばった背中にそっと手を添えると、しゃがみ込んで優しく声をかけた。
「どうしたの?」
男の子は無言のまま、ただひたすらぐりぐりと靴先で砂を踏んでいる。お母さんはそれ以上何も言わず、小さな背中を優しくさすっていた。さっきまで聞こえていた子どもたちの声や風の音が、少し遠くなったみたいだった。
しばらくして、お母さんが足元に転がっていたバケツを拾い上げた。
「いっしょに戻ろっか。」
軽く持ち上げたバケツを、男の子に見せながら言う。男の子はちらっと視線をそちらへ向けただけで、すぐにしゃがみ込んだ。手のひらで砂をひとつかみして、ぱらぱらっと落とす。そうして何度か砂をすくっては落としたあと、ゆっくりと立ち上がった。
「いこっか。」
お母さんが差し出した手に、男の子は俯いたままゆっくりと指先を重ねた。
二人の影が地面の上で細く伸び、寄り添うように遠ざかっていく。紬は二人の後ろ姿が見えなくなるまで、なんとなくぼうっと眺めていた。ふと視線を落とすと、膝の上に『モモ』が開かれたまま置かれている。そうそう、円形劇場の続きを読まなきゃね、こだま。
“つづきだね”
こだまが答える。見えない存在の聞こえない声。でも、いつもそこにある声。気づいたときには、もうそうだった。こだまはいつも紬のそばにいる。その柔らかなこだまの声に、刺々しい女の人の声が重なった。
「さっきの、見た?」
女の人が二人、少し離れたベンチに座って話している。
「ああ、砂蹴ってた子?」
「そうそう。あれで何も言わないなんて、どうなのって思わない?」
その声の硬さに、紬はぴくりと肩をすくめ、視線を落としたまま耳を傾けた。
「母親なんだからさ、ああいうときはちゃんと叱らないとだめでしょ。」
「ねー。私も呆れちゃった。」
「最近、ああいうの多いよね。注意できない、叱れないっていうの。」
「ほんと。母親なら、ちゃんとしつけなさいよって感じ。」
言葉が、すとん、すとんと重なっていく。なんだろう。少し胸が苦しいよ、こだま。そういえば、お母さんは謝っていたけど、あの子は謝っていなかったね。でもね、こだま。あの子の背中、とっても小さかった。
“小さかったね”
こだまの声が、紬の中に優しく届く。そのとき、「ママー!」と公園の隅にあるブランコから、甲高い声が飛んできた。ベンチの二人は同時にそちらを振り返ると、「はーい」と声を返し、急ぎ足でブランコの方へと走り去っていった。
間を置かず、女の人が二人、子どもたちのいる方を気にしながら空いたベンチに座った。紬は膝の上の『モモ』に視線を落とした。ふわっと柔らかな風が吹き、ページがぱらぱらとめくれる。
「さっきの見た?あの砂場の・・・。」
「ああ、あの子?」
紬は、瞬きをひとつした。こだま、またあの子のことだよ。
“みんな 気になるね”
こだまが紬の周りをくるくると廻る。もちろん、見えはしないのだけれど。
「あの子、最近ちょっと荒れてるよね。」
一人が口元を固くし、眉を寄せて言った。
「そうねぇ。あの家、今ちょっと・・・大変みたいだから。」
少し言葉を探すようにして、もう一人が静かに言った。
「お兄ちゃんがね、入院したんだって。」
それきり言葉が途切れる。二人はそれぞれ違う方を見て、動きを止めた。さっきより音が遠くなった気がする。
「なんかね。かなり重たい病気らしくて。」
もう一人の目が、一瞬行き場をなくしたみたいに揺れた。
「・・・知らなかったな。あのお母さん、気丈に頑張ってたんだ。」
「ね。すごいよね。傍目にはとっても穏やかだもん。」
柔らかな風が、紬の前髪をそっと揺らした。ねぇ、こだま。同じことを見ても、違って見えることがあるんだね。
“知らないのと 知っているのと 違うね”
こだまの声が、じんわりと紬の心に沁みていく。紬は静かに目を閉じた。知らないって、なんだか怖いな。見えるものだけじゃないってことだもんね。
“知らないことは 悪くないよ”
そうかな?知らないまま考えて、感じて、思い込んで、それで誰かを傷つけちゃうかもしれないよ。
“最初は みんな 知らないよ”
紬は、瞼を開けて砂場に目を向けた。あの子が蹴り上げた砂は、もう元の場所へ戻ったみたいに静かだった。けれど、知らないまま見ていたときと、少し知ったあとでは、同じ景色なのになんだか違って見える。
知らないって、見えていないことと似てるのかな。見えていても、見えていないんだね、こだま。
“見えていないと 知ろうと 思えるね”
紬は膝の上の『モモ』に視線を落とした。開かれたページの文字が、夕方の光を吸ってやわらかく白んでいた。
