連作短編/月のこだまと存在の隙間で⑴ 波と糸、月とこだま
11歳の紬(つむぎ)は、声を出すことができない。けれど、そのぶんだけ、見えるものや聞こえるものがある。
児童養護施設で出会う、さまざまな人たち。うまく言えない気持ち、すれ違い、やさしさ。紬は、目に見えない友だち「こだま」とともに、そうした瞬間を静かに見つめていく。
これは、言葉にならないものにそっと触れていく、小さな連作短編。
第一話 波と糸、月とこだま
夕方の光が、ほんの少し回り道をしてから食堂に入ってくる。歪んでいるのかな。紬(つむぎ)は窓枠に目を向けた。まっすぐに入ってきた光は、そこで一度形を変えて、細くなったり少し曲がったりしながら、床へと落ちていた。
児童養護施設の食堂は、いつも同じ匂いがする。洗剤と、ごはんの匂いと、子どもたちの体温の名残りと。紬はいくつか並んでいる四人掛けのテーブルの、いちばん端の席に座ってその光を眺めていた。窓の外に目を移すと、庭には誰もいない。乾いた土の上に残った足跡が、少しずつ風にほどかれていた。
“面白いね。足跡の形が変わっていくよ”
紬は、こだまに話しかけた。
“同じでは いられないね“
こだまが答える。聞こえない声。でも、いつもそこにある声。気づいたときには、もうそうだった。こだまはいつもそばにいる。いつからなのかは思い出せないけれど、いなかったことなんてあったのかな?紬には想像もつかない。
「教材の件、ありがとうございます。」
廊下のほうで、雨宮先生のやわらかな声がした。
「いえ。少ししかないんですけど。」
聞き慣れない声が、少し遅れて重なる。
「ご寄付いただいた教材、施設長に報告してきますね。食堂で少しお待ちいただいてもいいですか。」
雨宮先生の足音が、廊下の奥へと遠ざかっていく。扉の向こうで人の気配が止まった。ゆっくりと食堂の扉が開き、薄いベージュのコートを着た女の人が入ってくる。肩にかけたバッグが、身体より少し遅れて揺れていた。
女の人は、扉にいちばん近い席に腰を下ろした。テーブルの上で両手の細長い指を絡ませ、すぐにその指をほどく。それから置きどころを探すみたいに、また両手の指を絡ませた。水の上に浮いた糸が、何度も重なってはほどけていくところが、紬の頭に浮かぶ。
テーブルに置かれたバッグの中で、スマホが落ち着きなく小刻みに震えた。女の人の目つきがとたんに険しくなる。眉間が神経質にピクピクと動いていた。女の人は苛立たしげにバッグからスマホを取り出すと、画面を見るなりスマホを伏せた。そのうち、諦めたようにスマホが震えるのをやめる。ほんの少しの沈黙を置いて、今度はブルブルと短くスマホが震えた。まるで催促しているみたいに。ふぅっとため息をついた女の人は、諦めたように画面の上で忙しなく指を動かし始めた。
「まったくもう。しつこいんだから。」
プリプリと口を尖らせた女の人は、なんだか少し可愛らしく見える。女の人はスマホをバッグにしまうと、紬に近づいてきた。
「挨拶もせずにいきなりスマホだなんて、失礼よね。こんにちは。私は神崎美咲といいます。ええと、あなたのお名前は?」
美咲さんはそう言うと、紬の隣の席に座った。紬は頭を下げて挨拶してから、テーブルに指で名前を書いた。
つ む ぎ
「紬ちゃん。いいお名前ね。10歳くらいかな?」
紬は、両手の人差し指を立ててみせる。
「11歳?」
紬が小さく頷くと、美咲さんは人差し指を顎に当て、少し戸惑ったように口を開いた。
「もしかして、しゃべれないのかな?」
紬の頬が熱くなる。
"気にしない 気にしない 紬はしゃべれなくても 大丈夫"
こだまの声が、紬の頬を柔らかく撫でた。
「ここは静かだね。なんだかほっとするなぁ。」
美咲さんが、椅子の背にもたれかかりながら言う。紬は肩の力が少し抜けて、小さく息を吐いた。バッグの中で、スマホがまたブルブルッと震える。美咲さんはちらりとそちらに目をやると、あっかんべーをして小さく呟いた。
「もう知らないよーだ。」
それから、何もなかったみたいに紬に顔を向けた。
「いいところだよね、ここ。雨宮さんも柔らかな雰囲気で、好きだな、私。」
紬も雨宮先生のことは好きだ。いい人だと思う。それでも、好きでここに来たわけじゃないし、いいところだなんて思ったこともなかった。そっか。静かでいいところか。悪くないな。
紬は母を事故で亡くして以来、ここで暮らしている。事故のあと、気づいたら声が出なくなっていた。自分はどんな声をしていたんだろう。もう忘れてしまったし、声を出したいとも思わない。側から見たら可哀想に見えるかもしれないけれど、声が出ないのも静かでいいよね、こだま。
“静かだと よく聞こえて よく見えるね”
こだまの優しい声が、紬の中で静かに広がった。
「私ね、塾で事務をしているの。人手が足りなくて、人助けにもほどがあるでしょってくらい働いて、働いて・・・ね。」
窓の外では、細い枝が何度も何度も同じ方向に揺れていた。揺れて、戻って、また揺れる。美咲さんは窓の外に目をやると、ぽつりぽつりと話し始めた。
「大丈夫ですって言ったらね。そこからずーっと大丈夫になっちゃって。断るのって難しいよね。」
美咲さんは、紬に微笑みかけた。水に浮かんだ、薄い氷みたいな微笑み。形はあるのに、触れたとたん水に戻ってしまう、みたいな。
「今日も、本当は戻らなきゃいけないんだよね。でも、ここにいたら、行きたくなくなってきちゃったなぁ。もう少し、ここにいてもいいよね。」
紬がこくりと頷くと、美咲さんは嬉しそうに「ありがとう」と、紬の肩にそっと手を置いた。
ねぇ、こだま。美咲さんは、ここが好きでここにいたいのかな。それとも、行きたくないからここにいたいのかな。
“同じ場所でも 違うね”
こだまが言う。紬は、話を続ける美咲さんの顔を見ていた。
「さっきね、すぐ戻りますってLINEに返信したんだけど・・・。」
美咲さんはそれ以上語らず、右手で左手の手首をぎゅっと掴んだ。肩がくいっと上がる。そうして、ふっと掴んでいた手首を離した。
“波みたいだね”
紬はこだまにそっと呟く。岸まで届く前に、ほどけてしまう波。紬は、ほんの少し首を傾けて、美咲さんをちらりと見た。
“ほどけるって、壊れることと似てるね”
紬がそう言うと、こだまが間を置かず、言葉を置いた。
“ほどけると やわらかいね”
その言葉の余韻に、紬はしばらくとどまった。波は、ほどけると消えるように見える。でも、水は消えない。形だけが、先にいなくなる。ねぇ、こだま。ほどけるって、形をやめられることなのかもしれないね。
“形 変わるね”
さっきまでの形は残らない。でも、水はまだそこにある。だから、また波が生まれる。ほぐれてもほぐれても、波はほんの少し形を変えてやってくる。
“紬 よくみてるね 紬 いい子”
こだまが嬉しそうに、紬に頬擦りしてきた。もちろん見えてはいないのだけれど、その頬擦りはとても心地がいい。
美咲さんはあれからずっと、窓の外を眺めたまま喋らずにいた。それでも、その呼吸が少しゆるくなっているのがわかる。どちらの「ここ」でも、一息つくって大切なことなのかもしれない。
「お待たせしました。」
雨宮先生の朗らかな声が食堂に響く。美咲さんは食堂を出るとき、微笑みながら紬に手を振ってきた。紬は、はにかんだ笑顔でお辞儀をした。
雨宮先生の声と美咲さんの余韻が、ゆっくりと床に沈んでいく。食堂が再び静かになる。紬は窓のそばまで歩いていくと、空を仰いだ。明るい空に、白い月がぼんやりと浮かんでいる。
“月は 薄くても そこにあるね”
こだまが、紬の周りをふわふわと漂いながら言った。月はそこにあるのに、少しだけ遠くに見える。それって、こだまみたいだよ。ねぇ、こだま。
