連作短編/月のこだまと存在の隙間で⑵ひらきかけの地図
11歳の紬(つむぎ)は、声を出すことができない。けれど、そのぶんだけ、見えるものや聞こえるものがある。
児童養護施設で出会う、さまざまな人たち。うまく言えない気持ち、すれ違い、やさしさ。紬は、目に見えない友だち「こだま」とともに、そうした瞬間を静かに見つめていく。
これは、言葉にならないものにそっと触れていく、小さな連作短編。
第二話 ひらきかけの地図
施設の二階の廊下は、夕方になると少し長く見える。窓から差し込む光が、奥の白い壁まで届きそうで届かないから。だよね、こだま。紬(つむぎ)は廊下の奥の壁を見た。
“紬は 賢いね”
こだまの声が、やわらかく届く。誰にも聞こえない、紬だけに聞こえる声。紬が「こだま」と名前をつけたその存在は、気づいたときにはもうずっとそばにいた。
紬は11歳。母を事故で亡くしてから、この児童養護施設で暮らしている。あの日から、声は出ないままだけれど、声のない静けさは、結構気に入っている。
廊下の端っこに、白い紙が落ちていた。なんだろう。紬はそっと手を伸ばした。四つに折られた紙の角が少しつぶれていて、誰かが靴先で踏んだのか、端のところだけ灰色にくすんでいる。紬は、そっと紙を開いてみた。
進路希望調査票
名前の欄に、丸みのない文字で「高瀬 陸」とある。陸はこの施設でいちばん年上の、高校3年生の男の子だ。背が高く、前髪がいつも少しだけ目にかかっている。洗濯物を取り込むのが早くて、食器はいつも、いつの間にか片付けてくれている。小さい子の面倒見もよく、紬は何も言わなくても察してくれる陸にだけは、気を張らずにいられた。
希望欄には進学と就職の文字が並んでいて、陸は就職の横に丸をつけていた。けれど、進学の横にうっすらと消しゴムの跡が残っている。ねぇ、こだま。陸は迷っているのかな。
“消したのに 残るね”
そのとき、階段のほうから足音が聞こえてきた。顔を上げると、踊り場に陸が見える。シャツの袖を肘までまくり、片手には麦茶の缶を持っている。紬に気づいた陸は、「あ」と口を開けた。
紬は紙を持ち上げ、ひらひらと小さく揺らしてみせた。陸は階段を登りきる前に、ため息のような笑いをこぼした。
「それ、俺のだ。」
近づいてきて、紬の手から紙を受け取った。開いた紙を四つに折り直しながら、バツが悪そうに聞いてくる。
「見た?」
紬は、正直にうなずいた。陸は「あぁ」とだけ言うと、廊下の窓枠にもたれかかった。庭の木が風に揺れ、枝先の細かな動きが、いいえ、いいえを繰り返している。
「別に、たいしたことじゃないんだけどさ。就職しようかなって。進学って金かかるしな。俺、そんな金ねぇし。」
窓の向こうで木の枝が右へ揺れ、戻りきる前にまた右へと、強い風に押されている。視線を落とすと、陸の靴が目に入った。靴紐が少しきつそうに見える。ねぇ、こだま。陸が本当に履きたい靴って、どんな靴なんだろう。
“消したまま だね”
こだまの柔らかな声が届く。紬は、陸の持っている紙を見た。四つ折りのまま指のあいだに挟まれている。そのとき、一階から雨宮先生の声がした。
「陸くーん、いる?」
陸の肩がちょっとだけ上がる。
「やば。」
陸は、まるで逃げ道を探すみたいに、廊下の奥を見た。雨宮先生が階段を上がってくる。髪を後ろでひとつにまとめた、やわらかな雰囲気の先生だ。怒るときも声を張り上げない。でも、その静かな緊張感は、少し怖い。
「見つけた。探したのよ。」
雨宮先生は紬に気づくと、軽く微笑みかけてきた。表情が少し強張って見える。それから陸の手元の紙に気づくと、目をすっと細めた。
「進路調査、もう1週間も待ってるのよ。」
陸は肩をすぼめて、視線を窓の外へとそらした。
「あとで出します。」
「あとで、が何日続いてる?」
廊下の空気がひんやりとしてくる。陸は、麦茶の缶のプルタブを、親指でかりかりと引っかいた。
「就職でいいです。」
「“でいい”のか、“そうしたい”のか、どっち?」
その瞬間、廊下の空気が止まったみたいに、風の音も木の葉の擦れる音も、遠くなった。陸の口の端が少し上がる。
「そういうの、今ここでやります?」
雨宮先生はしばらく黙ってから、ひとつ息を吐いた。
「今ここでやりたくないなら、逃げないであとで来なさい。」
陸は何も言い返さずに、下を向いた。
「7時に面談室ね。」
雨宮先生はそれだけ言うと、階段を下りていった。
「最悪。」
陸は、窓の外を眺めながら呟いた。
“陸 逃げたいね”
こだまの言葉に紬がこくりと頷くと、陸は苦く笑った。
「おまえ、わかる? 行きたいっちゃ行きたいんだよな。」
陸は手に持った缶を左右に揺らしながら、話を続けた。
「でもさ、行きたいとか言うと、行けなかったときにだせぇし。金のこともあるしさ。先生は奨学金とかあるって言うけど。」
少しだけ声が落ちる。
「借金だろ、あれって。」
陸が缶をぎゅっと握ると、缶がぺこんと小さな音を立てた。
「借りるって、返すことだし。」
ねぇ、こだま。陸が行きたいところって、道はひとつしかないのかな。こだまの声が、やわらかく重なる。
“探してみないと わからないね”
一階の食堂から、カチャカチャと食器の音が聞こえてきた。味噌汁の匂いが階段をのぼってくる。
「7時だって。」
陸が呟く。紬は進路調査票を指さし、陸を指さすと、ピースの形をした2本の指を近づけてみせた。陸はその手振りに怪訝そうな顔をする。
「なに、それ。」
紬はもう一度やってみせる。2本の指を離し、近づける。眉を寄せて見ていた陸は、ふっと顔をくしゃくしゃにして笑った。
「おまえ、たまにすげえ雑なジェスチャーするよな。」
紬は少しむっとする。今度は、陸の胸の辺りに人差し指を向けてから、自分の胸を軽く叩き、それから進路調査の紙を指さした。陸は、ハッとしたように眉を上げる。
「俺の気持ち、書いてねぇってこと?」
紬はうなずいた。陸は力が抜けたように、するするとしゃがみ込むと、静かに紙を広げた。消した跡をじっと見つめる。
「書いたんだよ、一回。」
紙に視線を落としたまま言う。
「でも、書いたら急にほんとっぽくなって・・・消したんだ。」
夕方の色が、少しずつ濃くなっていく。白かった床の光もどこか黄色い。
“紙に触ると ほんとうになるね”
こだまが揺れる。紬は、陸が手にしている紙を見つめた。紙に触れると、なかった形がそこにできる気がして、少し怖い。ねぇ、こだま。本当になるって、ちょっと勇気がいるね。
“何かが 生まれるかもね”
こだまが優しく、紬の頭を撫でた。こだまは見えない。でも、いつもこうしてそばにいてくれる。食堂のベルが鳴った。陸は立ち上がると、紙を四つ折りにしてポケットにしまった。
「飯、行くか。」
夕食は焼き魚だった。みんな今日の学校のことやテレビのことを話していて、食堂はにぎやかだ。紬は向かいに座る陸を見た。いつもは食べるのが早いのに、今日は箸の動きが鈍い。箸先が、魚の骨のところで行ったり来たりしている。
“急いで飲み込むと 引っかかるね”
こだまの声が、紬の中でこだまする。食後、みんながテレビのある部屋へ流れていく中で、陸だけが席を立たなかった。雨宮先生が食器を片づけながら、ちらりと陸を見る。陸はそれに気づいているのに、気づいていない振りをした。
紬は食堂を出るとき、振り返って陸を見た。まだ座っている陸と目が合う。紬は壁時計に目をやり、それから面談室に続く廊下へと顔を向けた。
「行けって?」
陸が片眉をあげて言う。紬はこくりと頷いた。
「おまえ、厳しいな。」
そう言う声は、少しだけ笑っているみたいだった。陸は、よっこいしょと立ち上がると、制服の裾を引っぱって皺を伸ばした。
「行くか。」
そう吐息のように呟くと、面談室に向かって歩いていく。紬は、黙ってあとをついていった。
コン、コン・・・カチャリ
ふぅっ
扉に手をかけたまま、陸の肩がほんの少し上下する。それからパタンという小さな音とともに、陸は扉の向こう側へと吸い込まれていった。
“通りたい道 探せるかな”
こだまの声がそっと触れてくる。紬は唇を少しだけ結んだ。まだわからない。だけど、こだま。扉の向こうに行ったね。
“小さな 一歩だね”
こだまがふわふわと、紬の周りを漂う。紬は、扉の反対側にある窓辺に身を寄せた。外はもうほとんど夜だった。庭の木々が黒く見え、風が来るたび、枝だけがかすかに揺れていた。
ねぇ、こだま。開いていない地図は、見なければそのままだけれど、開いてみたら、知らなかった道に出会えるかもしれないね。
“出会えるかも しれないね”
ぐるぐると同じことを考え続けて、少しだけ疲れてきたころ、面談室から陸が出てきた。入る前より、ほんの少し輪郭がはっきりして見える。陸は紬に目を向けると、軽く背伸びをしながら言った。
「出した。」
それからちょっと間を置いて、紬に微笑みかけた。
「進学で。」
紬はうなずいた。陸は、頭の後ろを掻きながら言葉を続ける。
「たださ。要相談だってさ。なんか、ちゃんと決めたっていうより、これから考えるって感じだな。さっきさ、奨学金は借金だって言っただろ?」
紬は、まばたきをひとつした。
「返さなくていいやつもあるんだって。働いてから進学する人もいるし、働きながら、夜間で大学に通う方法もあるらしい。」
陸は急に黙り込むと、窓の外を見た。風がおさまり、辺りが静かになる。
「全然、知らなかった。」
陸が、ぼそりと呟いた。
「なんかさ。頭っから無理だろって思ってた。」
紬は、陸の足元に目を向けた。ねぇ、こだま。陸の窮屈そうな靴、新しくなりそうだね。
“選び 始めたね”
心地よいこだまの声が、紬の中にじんわりと沁みていく。そうだ。選べるようになったんだね、こだま。
「ちゃんと考えてみるよ。」
陸の声が、まっすぐに届いてきた。
“見ようと しているね”
こだまの声と陸の声が共鳴し、紬の中にこだまする。紬は陸を見た。その目は澄んでいて、さっきより肩の辺りが柔らかく見える。ねぇ、こだま。決めきっていないほうが、行けるところって、たくさんあるのかもしれないね。
“歩きながら 見えてくるね”
こだまの気配が、軽やかに揺れる。紬の頬がゆるんだ。気づくと、陸が紬をまじまじと見つめている。紬は頬を赤らめて、下を向いた。
「なあ。おまえってさ、しゃべれないのに、たまにうるさいよな。」
紬は目を丸くして、陸を見上げた。
「ありがと。」
陸は呟くようにそれだけ言うと、すっと紬に背中を向けて、軽く手を振りながら去っていった。
部屋へ戻る道すがら、窓の外に目をやると、月明かりのもと、風はまだ木々を揺らしていた。
“風が 変わったね”
こだまが柔らかく、紬の心を撫でていく。
開いていない地図。少しだけ見えている地図。全部見えているようで、どこへ行けばいいのかわからなくなる地図。
ねぇ、こだま。どこを見るのか、どの道を行くのか、自分で選ぶのが地図なんだね。それに、歩きながら何度だって見直していいと思うな。ほら、道は必ずどこかに繋がってるって言うもんね。
“どこかに 繋がっているね”
窓に映る紬の顔の向こうで、夜の色がだんだん深くなってゆく。月はそこにあるのに、少しだけ遠くに見える。紬は、そのあいだに静かに立っていた。
