三稜鏡幻想香炉〜完成は未成を抱く
Die Vollendung umarmt das Unvollendete.
(ディー・フォルエンドゥング・ウムアルムト・ダス・ウンフォルエンデテ・完成は未成を抱きしめる)
未成の観察は、赤子が幼いこともあり、実に静かに、ゆっくりと進められていた。
薫草院での暮らしが始まり、レインが三歳を迎えた、その夜――。
「……あ、あ……」
幼いレインが、ベッドの上で途切れ途切れの悲鳴を漏らす。
小さな身体は火傷しそうなほど熱を帯び、寝巻は汗でぐっしょりと濡れていた。
薫草院の香の咒草師《じゅそうし》が夜を徹して治療を施し、清めても、熱は一向に下がらない。
それは風邪ではなかった。
父エドモンドより受け継いだ「黒魔術」の血。
母マーゴットより授かった「ネイピア」の自由螺旋。
相反する二つの理が、未完成な器の中で互いを拒み合い、幼い命を内側から引き裂こうとしていた。
「若君……! レイン若君!」
モリオンは取り乱していた。
かつて教壇に立ち、生徒たちを導いた冷静さは微塵もない。ただ震える腕で、小さな身体を抱き寄せる。
赤子の頃から幾度も熱を見てきた。
だが、今夜は違う。
腕の中でレインの瞳は濁り、反転し、焦点を失った視線が虚空を彷徨う。
このまま螺旋の暴走が臨界を超えれば、小さな命は内側から砕け散ってしまう。
その時だった。
寝室の扉が静かに開く。
現れたのは院主ベルナティス。
その後ろには、十一歳になった娘セリフィナが立っていた。
「どいて、モリオン」
院主ベルナティス1世の掌から、淡いラベンダー色の光が溢れる。
乱れた生命の律動を調律する白魔術。
しかし今夜の暴走は、その癒やしさえ押し返すほど激しかった。
「お母様。私にやらせて。」
一歩前へ出たセリフィナは、まだ十一歳。
それでも、父ファイ――球面座標の軸たる「黄金比の使者」の資質は、すでに彼女の内に目覚めていた。
セリフィナは未成ではない。
揺らぎに至る以前の、完成された光軸そのものだった。
彼女はレインの胸元へ、そっと指を添える。
――Fixis, Sectio constam.
(フィクシス・セクティオ・コンスターム)
――固定せよ。
――軸は揺るがない。
――黄金はここにある。
――暴れるな。
黄金色の幾何学紋様が指先から静かに広がり、レインの身体を包み込んだ。
それは癒やしではない。
宇宙の座標、そのものを固定する魔術。
黄金比の螺旋が、暴れ狂うネイピアの自由螺旋を、美しき均衡の内へと静かに導いていく。
レインの呼吸が、ゆっくりと整い始めた。
黒も。
螺旋も。
絶対の軸の前では、ただ静かに膝をつく。
「……お見事です、セリフィナ様。」
モリオンは深く息を吐いた。
「十一歳にして、すでにここまで魔術を御されるとは。」
セリフィナは力なく、それでも美しく微笑む。
月光に透けるほど白い肌は、この世の肉体というより、精霊のような儚さを帯びていた。
ベルナティス1世は、そんな娘を痛ましい眼差しで見つめる。
「ねえ、お母様。」
セリフィナは眠たげに微笑みながら言った。
「この子の螺旋は、私とは違う。でも、とても自由だわ。
私がいつか、あの星々の軸へ帰る日が来ても……きっと、この子の螺旋がお母様を、この院を、寂しくさせない。」
静かな寝室に、その言葉だけが澄んで響いた。
ベルナティス1世は娘の細い肩を抱き寄せる。
「いいえ……あなたがいなければ。」
その囁きは、母としての願いだったのか。
それとも、院主としての恐れだったのか。
もし、この完成された命が尽きる日が訪れるなら――。
その時、自分は何を選ぶのだろう。
脳裏をよぎったのは、禁忌とされる揺籃術。
失われた命を繋ぎ止めるための、あまりにも孤独な術だった。
まだ、その時ではない。
それでも運命は、この夜すでに静かに動き始めていた。
後にセリフィナの遺骨からベルナティス二世が生まれる、その悲劇の胎動は、この看病の夜から始まっていたのかもしれない。
「……さあ、寝なさい、セリフィナ。夜明けはもうすぐよ。」
母の腕の中で、完成された少女は静かに瞳を閉じる。
泥だらけで薫草院へやって来た「未成」の赤子。
早逝の宿命を抱きながら輝く「完成」の少女。
二つの魂が交差した薫草院の奥宮で、死と再生、そして数学的な宿命は、誰にも知られることなく、ゆっくりと昏い螺旋を描き始めていた。
ベルナティス1世は娘を見つめたまま、胸の奥でひとつの決意を抱く。
完成を失うことは、世界という計算式から「解」を失うこと。
軸を失った世界は歪み、やがて崩壊する。
だから私は――。
たとえ禁忌を犯し、罪人として裁かれる日が来ようとも。
「……軸を歪めるわけにはいかない。それが、私たちあわいの調律師の選んだ世界の形なのだから。」

ネイピアの螺旋を抱きしめる
picture by Gemini
©️ cony à la mode
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