三稜鏡幻想香炉〜黄昏れの貴公子
Noch schlummert der Duft.
(ノッホ・シュルンメルト・デア・ドゥフト・「まだ、香りは微睡んでいる」)
「……フェルムス様。」
モリオンが静かに告げた。
「その歩き方は、重症でございます。」
ルミナンス法律事務所のダイニングに、モリオンの冷徹な声が響いた。
テーブルに着いた途端、パンを口に運ぼうとしていたフェルムスは、ぴたりと動きを止める。
「……あ? 何がだ。俺は医者だ、歩き方なんて機能してりゃいいんだ」
「機能、でございますか。膝の揺れ、重心の偏り……。
それでは、高貴な夜の空気を纏うことは叶いません。
……若君、少々、一階の『仮眠室』をお借りします。この原石を、磨き上げねばなりませんので」
モリオンの瞳に、かつて人間界の執事学校で数多の落ちこぼれを「騎士」に変えてきた、教育者としての冷徹な炎が宿った。
「おい、待て! 高貴な夜ってなんだ?レイン、助けろ! アテリオ、契約違反だぞ!」
フェルムスの悲鳴は、階段下の寝室へと引きずり込まれると共に、アテリオが張った「防音の結界」によって遮断された。
数日の過酷な訓練の日々。
ある日、二階の執務室で書類を捲っていたアテリオとレイン。
そして四階から試作中のハーブを調合して降りてきたベルナティスの前に、その男は現れた。
「……嘘でしょ」
ベルナティスが、手に持っていた香炉を床に落としそうになった。
階段を静かに登ってきたのは、磨き抜かれた黒革のブーツを鳴らす、一人の「貴公子」だった。
ボサボサだった髪は、モリオンのポマードと指先によって、夕暮れの湖面のように滑らかなオールバックに整えられている。
無精髭は剃り落とされ、彫りの深い顎のラインが露わになっていた。
何より、その姿勢。
燕尾服を纏ったその体躯からは、野卑な医者の気配は消え失せ、冷徹な知性と退廃的な美しさが立ち上っていた。
「……モリオン、やりすぎだ」
レインが呆然と呟く。
そこに立っているのは、自分と並んでも遜色のない、完璧な「黄昏の貴公子」だった。
「……おい。笑うなよ。息が苦しくて死にそうだ」
口を開けばいつものフェルムスだが、その声さえ、整えられた喉の角度のせいか、低く響くチェロのような色気を帯びている。
「フェルムス様、完璧でございます。……さて、アテリオ様」
モリオンが、満足げに一礼してアテリオを見た。
「ハルフォード一門の動きを探るには、『シャトー・ド・バッカラの夜会』へ潜入するのが一番。その役割に最良の逸材かと。仰せの通り……若君の守護(エスコート)役として、この……『フェルムス伯爵』をこうして仕立て上げてみました。お時間がございませんでしたが、しかし素材がよろしいので中々の仕上がりです。如何でしょう?」
アテリオは、変貌したフェルムスを冷ややかに一瞥し、わずかに口角を上げた。
「……フン。これなら、一門の毒婦たちも、藪医者の正体を見破る前に喉笛を差し出すだろうな」
「ちょっと待って! 私も行くわ!」
ベルナティスが慌てて割って入る。
「お嬢様として、完璧にエスコートしてもらいたいわ!」
「ですから、姿勢を、と日々うるさく申し上げたのですよ。お嬢様。もちろん、薫草院の淑女を代表して、アテリオさまに…」
モリオンが軽く人差し指を立てて示した。
ベルナティスは嬉しそうに微笑み、礼の代わりにモリオンの頬へそっと口づけた。
「こ、これは、なんとも」
事務所の重厚な煉瓦の壁が、五人の不思議な高揚感に共鳴するように震えた。
日常の延長線上に、きらびやかで残酷な「夜会」という事件の舞台が整っていく。
「……行こう、ドクター・フェルムス。……いや、『伯爵』」
レインが微笑み、手を差し出す。
五人の「未完成」な家族が、いよいよ社交界という名の戦場へ、その一歩を踏み出そうとしていた。
「さて、アテリオ様、レイン若君、ベルナティスお嬢様も、お着替えをなさらなくては、モリオン、纏めてお手伝い差し上げます」
何よりモリオンが一番張り切っていた。
夜会とは名ばかりの戦さ場であるのに、ルミナンス法律事務所では…
誰一人、負ける気はしていなかった。
その夜が、彼らの運命を大きく動かすとも知らずに。

picture by copilot
©️ cony à la mode
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