あの日、私たち家族に笑顔をくれたドライバーさんへ。
自分が直接触れたもの以上に、子どもに与えていただいたやさしさが、こんなにもうれしいなんて、知らなかった。
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11月中旬、次男を出産するために家を離れた。
1週間近くも長男と離れ離れになるのは初めてのことで、自分のこと以上に、長男がさみしい思いをしないかが心配だった。
長男には、すこしでもさみしさを感じないでいてくれるように、私が病院にしばらく泊まることを数か月前くらいから言い聞かせた。
入院当日にはプレゼントと手紙を添えて、身体は離れていてもいつも長男のことを思っていると伝えた。
それでも、やはりさみしさは避けられなかった。母の私ですら、息子に会えなくなるのはつらかったのだから。まだ3歳の長男にとって、あの数日間はどんなに心細かっただろう。
「中途半端に会えば、余計にさみしくさせちゃうよね」と、面会には長男を連れて来ないことにしようと夫とは話していた。
でも、やっぱり長男はどうしても行きたかったようで。
結局、入院期間は毎日、幼稚園終わりに病院直通のシャトルバスに乗って病院に遊びに来てくれた。
たった2時間ほどの滞在。時間はあっという間に過ぎる。
「そろそろおうち帰ろうか」という夫の言葉を聞くと、途端に顔をくしゃくしゃにして「お母さん、さみしい」と繰り返す息子。
その声は、今まで聞いたどんな言葉よりも切なくて、一緒に泣いてしまう。
抱きしめることしかできないのに、抱きしめることが正解なのかもわからず、苦しい。
「あともう少ししたら、おうちに帰るね」と声をかけながら、息子の泣き声と小さくなっていく背中を見送るのは、本当につらかった。
兄弟ができても、なるべく長男には我慢をさせたくない。今までと変わらない日常と、体験と、愛情を与え続けたいと思っていたのに。
兄弟ができた途端に、その計画はいとも簡単に崩れてしまった。
長男は、この先の人生を幸せに生きてくれるだろうか。私は、この先長男を幸せにしてあげられるだろうか。
そんなことをぐるぐる考えていると、次男の顔をまっすぐ見つめることもできなくなるような気がして、どうしたらいいかわからなくなっていった。
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息子が病室を出てから数十分後、夫からLINEが届いた。
長男、泣いてたけどバスの運転手さんがモニターでアンパンマン映してくれてて泣き止んでる!
しかも他に乗っている人がいなくて、貸し切りだったから、家の近くで降ろしてもらえることになった!
降りるときに、ピカピカ光る星の形のおもちゃをいただいたよ!
通院のたび、何度も乗車しているシャトルバスで、こんな体験をするのは初めてのことだった。
というか、普通こんな特別待遇、ありえないだろう。長男は常連でもなんでもないし、その日にたまたま乗り合わせた、泣きべその3歳児ってだけだ。
母と別れるさみしさと、弟ができるという大きな環境の変化に感情がぐちゃぐちゃになっていただろう長男。
思いもよらなかったドライバーさんのやさしさが、どれほど心強く感じられたことだろう。
同時に、長男のことが心配でたまらなかった私も、この知らせに心底励まされた。
今まで一人っ子の子育てしか経験してこなかったへっぽこ母ちゃんの私に、「大丈夫、きっと大丈夫だよ」と語りかけてもらったような心地がして。
直接手渡されていないそのやさしさが、私たち家族全員を包んでくれた。
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親になり、「ありがとう」よりも「すみません」を口にする回数が増えた。
子を持つというのは、四六時中自分以上に意識を注ぎ続けなければならない対象が増えるということであるということを、母になり身をもって実感している。
だから、知らず知らずのうちに周囲に迷惑をかけてしまうこともあり、そのたびに申し訳なさと、居場所を失ったような心もとなさの両方にぎゅっと押しつぶされそうな心地になる。
癇癪を起こした泣き声、前触れもなく駆け出してしまう衝動性、昼食時の食べこぼしや倒してしまったジュース、満員電車の中での「早く座りたい」「誰も降りないね」という、無邪気な言葉。
子を持つということは、無意識的な社会への加害なのかと錯覚しそうになる。
「自分の意志で産んだんだから」「私の子なんだから」
そんな思いで、やっとの思いで口に出すのは、相手に届いているかもわからない「すみません」という謝罪の言葉ばかりだ。
物事の効率化やコンプライアンス遵守を強く求められる現代社会では、善行をすれば「偽善」と罵られ、声をかければ「不審者」として訝しがられる危険と、つねに隣り合わせ。
人と人との距離は、日々数ミリずつ開いているように感じる。
そんな中、見えないけれどたしかに刻まれている境界線を越えて、やさしさを届けようとしてくれる人がいる。
そのやさしさが、私の命よりも大切な存在のもとへ、たしかに届いていたこと。人知れず抱えていた子育てへの重圧や、社会への所在なさが、あたたかな場所へ導かれて溶かされていく。
そんな安心感の中に、今私はいる。
だからこそ、私は「ありがとう」を伝えたい。
きっと車内で泣きじゃくってしまった息子に、そしてそんな息子をうまくなだめることができずに申し訳なさを抱いていた夫に、やさしさをかけてくださったあの日のドライバーさんに。
育児をしながら、ずっと社会に謝り続けてきた私へ、子どもとともに生きていく幸福を再確認させてくれた、あの日のドライバーさんに。
あなたのおかげで、私たち家族は幸せな門出を迎えることができました。
「ありがとう」と伝えたい、と思えること自体が、こんなに自分の心をあたためてくれることを、私は初めて知った。
さみしさと不安でいっぱいだった入院期間は、このドライバーさんのおかげで幸せな記憶に塗り替えられた。
後日、再び受診する機会が何度かあったものの、あの日のドライバーさんがどなただったのかは分からずじまいだ。
でも、これからもシャトルバスに乗るたび、あの日のドライバーさんを思っては、胸の内で「ありがとう」を繰り返すだろう。
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そして私も、あのドライバーさんのように、居場所をなくしてしまいかけている誰かに、手を差し伸べる人でありたいと思う。
それは、電車で席を譲るような小さなことかもしれないし、駅までの道を説明することかもしれないし、落としたハンカチを拾ってあげることかもしれない。
あるいは、カタコトの日本語で採用面接に挑もうとする外国人の履歴書を、一緒にチェックしてあげることだったりもするだろう。
あの日贈られたやさしさを、まだ見ぬ誰かへと手渡していきたい。小さないのちを育むように、大切に、たしかに。

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