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“仮面”|『LIFE BET』第一話

 第一話

 朝、電車に乗ると、人の感情はだいたい分かる。

 眠そうな顔。

 機嫌の悪そうな顔。

 誰かのLINEを見て笑っている顔。

 それから、自分が不幸だと思っている顔。

 興味深いのは、そういう人間ほど、自分は普通だと思っていることだった。

 例えば今、俺の目の前に立っているサラリーマンもそうだ。

 四十代くらい。スーツは少しよれている。右手の薬指に指輪。スマホには『課長』の文字。

『はい……はい、申し訳ありません』

 電話越しに頭を下げている。

 たぶん、部下がミスをしたんだろう。

 彼は悪くない。

 でも怒られている。

 理不尽だ。

 周囲の人間はきっと、彼に同情する。

 けれど俺は別のことを考えていた。

 この人は、いつ壊れるんだろう。

 そう思った瞬間、男と目が合った。

 俺は軽く会釈する。

 男も反射的に頭を下げた。

 面白い。

 人間は追い詰められていても、社会性を捨てられない。

 スマホが震えた。

『今日の会議、十時前倒し』

 上司からだった。

 短いため息を吐き、スマホをポケットへ戻す。

 車窓に映った自分の顔を見る。

 ちゃんと笑えている。

 問題ない。

     ◇

「夜那須、お前またクライアント口説いたろ」

 会社へ着くなり、同僚の三崎が笑った。

「人聞き悪いな。ただ話を聞いただけだよ」

「それを口説くって言うんだよ」

 周囲が笑う。

 俺も合わせて笑った。

 広告代理店の仕事は嫌いじゃない。

 人間を観察できるからだ。

 どんな商品より、人間の方が面白い。

 特に、欲望が絡むと分かりやすい。

「そういや知ってる?」

 三崎がコーヒーを片手に言った。

「最近また増えてるらしいよ。LIFE SCORE絡みの自殺」

「ああ」

 適当に返す。

 壁のモニターでは朝のニュースが流れていた。

『LIFE SCORE低下による就職差別について、SNSでは依然として議論が——』

 聞き慣れた話題だった。

 LIFE SCORE。

 国民信用統計。

 三年前、LIFE BET法施行と同時に導入された制度だ。

 簡単に言えば、人間の価値を数値化したもの。

 社会貢献。

 経済活動。

 信用履歴。

 対人評価。

 それらをAIが統合し、数値として表示する。

 最初は批判も多かった。

 だが結局、人間は便利なものを受け入れる。

 高スコアなら融資が通りやすい。

 転職でも有利。

 マッチングアプリの表示順位まで変わる。

 今じゃ誰もが使っていた。

 誰もが嫌悪しながら。

「つーか怖くね?」

 三崎がスマホを見せてくる。

『LIFE SCORE 38』

 という数字が表示されていた。

「昨日、元カノに低評価入れられたんだよ。終わってるだろこの国」

「自業自得じゃないですか?」

 女子社員が笑う。

「うるせぇな」

 また周囲が笑った。

 平和な会話だった。

 誰も本気では怒っていない。

 誰も本気では傷ついていない。

 少なくとも、今は。

「夜那須ってスコアいくつ?」

 突然聞かれた。

 一瞬だけ沈黙が落ちる。

 この質問は、年収を聞くより生々しい。

「秘密」

 俺が笑うと、三崎は「うわ、ずる」と肩をすくめた。

 本当は、見せたくなかっただけだ。

『LIFE SCORE 91』

 高すぎる。

 ここまで高いと、人間扱いされない。

 実際、社内でも俺は少し浮いていた。

 仕事ができる。

 愛想もいい。

 人間関係も問題ない。

 なのに時々、

『夜那須って何考えてるか分かんない』

 と言われる。

 当然だった。

 実際、俺自身もよく分からない。

     ◇

 昼休み。

 喫煙所の横を通りかかった時だった。

「……だから、ごめんって言ってるじゃん」

 女の声。

 視線を向ける。

 新人の佐伯が泣きそうな顔で立っていた。

 その向かいには営業部の男。

「謝れば済む問題じゃねぇだろ」

 男は苛立っていた。

 周囲は見て見ぬふりをしている。

 誰も助けない。

 正確には、助ける理由を探している。

 関わるべきか。

 放置するべきか。

 人間はそういう計算をする。

 佐伯の目から涙が落ちた。

 その瞬間、男の表情が少し変わる。

 罪悪感。

 焦り。

 後悔。

 ようやく本音が見えた。

 綺麗だと思った。

「夜那須?」

 声を掛けられ、我に返る。

 三崎だった。

「なに見てんの?」

「いや」

 少し考えてから答える。

「人って、追い詰められると本音が出るなって」

 三崎は妙な顔をした。

「……お前たまに怖いこと言うよな」

 そうだろうか。

 自分ではよく分からなかった。

     ◇

 その夜。

 マンションへ帰宅すると、部屋は静かだった。

 婚約者の真琴はまだ帰っていないらしい。

 ソファへ座り、ネクタイを緩める。

 スマホが震えた。

 非通知。

 一瞬迷ってから通話へ出る。

「はい」

『——夜那須悠真さんですね』

 男とも女ともつかない声だった。

「どちら様ですか?」

『あなたへ招待を』

 数秒の沈黙。

『PERSONA POKERへの参加資格が確認されました』

 意味が分からなかった。

 だが相手は構わず続ける。

『あなたは、人間に興味がある』

 背筋が少しだけ冷えた。

『仮面が剥がれる瞬間を見たい』

 俺は黙った。

『違いますか?』

 部屋が静かだった。

 冷蔵庫の駆動音だけが聞こえる。

 その時、不意に思い出した。

 中学時代。

 教室の隅で泣いていた朝比奈湊の顔を。

 誰も助けなかった。

 俺も。

 ただ見ていた。

 あの日、初めて思ったのだ。

 人間は壊れる瞬間だけ、本音を見せる。

『参加方法は後日送付します』

 通話が切れた。

 直後、スマホへ一件のメッセージ。

 添付された画像には、黒い仮面が映っていた。

 その下に、一文。

『ようこそ。人生の賭場へ。』

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