論文を書く予定なんてないのに、「アカデミック・ライティングの教科書」を一気読みしてしまった
面白い本を見つけた。
『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』。筑波大学の助教をつとめる人文学系研究者が、アカデミックライティングの初学者向けに書いた本だ。
その対象は、「学部生の期末レポートから学会誌に掲載される学術論文まで」と広く設定されてはいるけれど、アカデミックなんてとっくに卒業してしまった私は完全に想定読者外だ。
「学術的な価値」とか「査読に通るか」なんて、私にはさっぱり関係ない……
………………
はずなのに、面白くて思わず一気読みしてしまった。
何がそんなに面白かったのか。一言でまとめると、「アハ体験」が味わえるから。
論文の本質、研究の役割
アカデミアとは何か。論文とは何か。アカデミックな価値はどうやって決まるのか。論証とは何か。イントロの、本文の、各パラグラフの、結論の、役割とは一体何なのか。
筆者の言語化が素晴らしくて、「あ、確かに言われてみれば…そういうことだったのか!」の連続だった。
筆者が提示する答えはシンプルだけど本質をついていて、あぁ私、何となく分かっているつもりで全然深く考えていなかったんだなと気づかされる。
深く考えていなかったどころか・・・私がその昔書いた卒論や修論は、筆者が定義する「論文」の条件を満たしておらず、「学会誌にリジェクトされる初学者の論文」の典型的なパターンに見事にハマっていた。
まぁ私はもう論文を書く予定はないので、欠けていた部分に気づいたところで今更どうもこうもないのだけど、今まさに論文を生み出そうとしてウンウン唸っている人たち、自分の論文のレベルを上げたい人文系の人たちには、突破口が見つかる一冊になると思う。
ちなみに。
本書が扱うテーマは最終的に「論文の書き方指南」を超え、「人文系の研究の意義とは何なのか、アカデミアの外側にある社会にとって、アカデミズムそのものが持つ価値とは何なのか」というところまでつながっていく。
つくづく著者は、「本質」を追求し、それを言語化しようとせずにはいられない人なんだろうなと思う。
これがルールだからとか、誰かがこうしろと言っていたからとか、こういうものだからとか、そんなんじゃ納得できない。前提条件を疑い、自分の中で腹落ちするまで考え、それをできるだけシンプルな言葉に落とし込むのが日課になっている・・・
筆者のそんな姿勢が文章から伝わってきて、読んでいて心地よかった。
超実践的なテクニック本
本書はそんな「論文や研究の本質」について語ると同時に、「超実践的なテクニック本」であることにもこだわっている。
というか、「本質」にこだわった結果「実践的なテクニック本」になった、という方が正しいかも知れない。
「このような本を執筆することの本質的な意義」とは、「初学者をなんとなくわかった気にさせる」ことじゃなくて、「初学者の執筆スキルを上げる」ことなのだから。
本書を読んでいると、「テクニック」と「本質」は地続きなんだと実感する。
例えば。
規定の文字数が埋まらない読者に向けて、筆者はこんなことを言う。
まずは、自分が掲載したい学術誌から論文をいくつかピックアップして、パラグラフ数、それから各パラグラフに含まれる字数を数えろ。そして、その結果を自分の文章と比べろ。
・・・って、めちゃくちゃ実践的なアドバイスじゃないですか?
「プロの文章を読んで自分との違いを分析しましょう」なんて言われても結局何をどうすればいいかわからなかったりするけれど、「数える」だけなら誰でもできる。
じゃあパラグラフ数や文字数をとりあえず形だけ真似しておけばいいということか?というと、もちろん違う。
次のステップは、「各パラグラフごとに、それぞれの文が果たす役割を解析し、自分の文章と比べること」。そうしたら、自分の文章に何が足りないのか、見えてくるから。
パラグラフが多すぎるなら、議論のフォーカスが定まっていない。
各パラグラフの分量が少なく、「事実」が少ないなら、調べたことをうまく盛り込めていない。情報量が足りなくて、トピックに精通した専門家としての信用を生み出せていない。
抽象度の高い文章が少ないなら、論証や言い換えが足りない。読者の理解を十分に深められないまま、飛躍してしまっている。
それぞれの「ダメパターン」がなぜダメなのか、突き詰めていくと最初に定義した「論文とはそもそも何か」につながっていく。お見事だ。
これから読む方のアハ体験をこれ以上奪っては悪いので、具体的な話はこのあたりにしておくけれど、アカデミックライティングの書き方に悩んでいる人、論文執筆のレベルを上げたい人文系の人なら、読んで損はない一冊だと思う。
それでは、アカデミアの外にいる人間が本書から学べることはあるのか
このnoteを書くにあたって筆者について調べていたら、6年前にバズった記事に行き当たった。
『「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由』
2018年当時、この記事はかなり話題になっていた。
PV数は数日で200万。私も「面白い記事見つけたよ」と誰かに送った覚えがあるし、何年か後にまた気になって、わざわざ検索して読み返したこともある。
そして今回Wikipediaを見てびっくり。あの記事を書いたのは、本書の著者、阿部幸大さんだったのだ。
あぁ、あなたはあの時の。北海道から出てきた、あの学生さんだったのか。あの時の学生さんが、こんな立派になって。なんて、私の頭の中の親戚のオバチャンが止まらなくなったけれど。
この記事の趣旨は、「田舎の高校生が「大学進学」という進路を選ぶにあたり、田舎と都会の間に横たわる情報格差がハンデになっている」というもの。
その記事が私の心に残ったのはなぜか?
自分自身が阿部青年と同じような情報弱者の側にいたからか?著者の主張に共感したのか?
そうじゃない。むしろ逆だ。
「中卒の母親と小学校中退の父親のもとに生まれた」という著者とは逆に、私は大学院の博士課程まで進学した両親をもち、「18歳になること」と「大学生になる」ことはほぼ同義だと思って育った。
筆者と真逆の境遇で育った私の心にまで、この記事が響いたのはなぜか。
6年経った今でもよく覚えてるのは、「大学」という存在が身近になく、地理的に離れていて視界に入ることすら少なすぎて、大学を「高校の次に進む学校」として捉える機会がないという話だ。
親はせいぜい子供の優秀さをなんとなく喜ぶ程度で、大学進学などという発想はいちども脳裏をよぎることがなく、高校の終盤に先生から打診されてはじめてその可能性を知り、やっとのことで「『大学』って……どこにあるんですか?」と反応するといったありさまだ。大袈裟に聞こえるかもしれないが、これは私の実例である。
これを読んだ時、私はなかなかの衝撃を受けた。何しろ私は幼少期、東大から徒歩5分くらいのところに住んでいて、幼稚園帰りにキャンパスで銀杏拾いをしていたのだから。
線路脇の細い道沿いに立つ、3階建てのこじんまりとしたマンションが脳裏に浮かぶ。
あぁ、私はこの著者がいうところの「文化的貴族」だったのか。
「40平米弱の小さなマンションで家族4人が慎ましく暮らしていた」思い出が、「幼少期から大学を身近に感じて育った、恵まれた人間」のそれに塗り替えられた瞬間だった。
「〜大学前」といった駅名を耳にする機会。書店に並ぶ参考書の量。大量に目に入ってくる大学生。そういったディテールがこれでもかと並べられていると、自然と自分の生い立ちを振り返ってしまう。
私自身は「受験勉強を頑張った」自負があるし、それが「偶然恵まれていただけでしょ」などと片付けられるのは抵抗がある。けど、「田舎では模試の案内もなかった」「都会にこんなに塾や予備校があることさえ知らなかった」などと具体的な例を並べられると、ちょっと何も言えなくなってしまう。
そして著者は、それを「見たことがないから知らない」「教育や文化に金を使うという発想そのものが不在」、「文化と教育への距離が … あまりに遠すぎて想像すらできない」「田舎において、学力というポテンシャルの価値は脆弱」など、何度も何度も言い換えながら、抽象的な議論につなげていく。
同時に。著者の議論は、「大学進学における情報格差」に絞られている。
地方と都会のギャップは「大学進学や文化・教育にまつわる情報格差」だけではないはずだし、筆者が東京に出てきて気がついたことや驚いたことなんていくらでもあったはずだけれど、筆者はこの一点に絞り込んで記事を書いていた。
豊かなディテールと分厚い情報量。
「言い換え」の潤滑油で「事実」と「抽象的な議論」をつなぐ論証。
的をしぼった議論。
あれ?これは・・・
どこかで聞いたことがあるような・・・
・・・
論文に必要だと筆者が述べているものと一緒じゃないか。
と、いうことで。
多分本書は、論文執筆中のアカデミアの人間だけに役立つわけじゃない。「現代ビジネスに寄稿した記事をバズらせる」方法にも応用がきく。
そしておそらくそれ以外でも、「ある主張が正しいことを論証する文章」を書こうとする人ならきっと、本書から学べることはあると思う。
よろしければこちらも・・・
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