仮想通貨と自律分散型殺人事件 第4話
「ほう? それでは田中さんがトイレに入ったときには既にあの状態であった、と?」
「……はい、そうです」
差し出されるままペットボトルの水を一口飲むと視界が自然と開けてくる。靄が薄まるなり逆に重苦しい闇が広がり、机を挟んだ先に巨大な重圧の塊を認める。警察官が二人、俺を見ていた。なにもなくとも緊張させられる相手である。しかも今回はなにもなくはない。思わず視線をそらせば俺は映画館のような薄暗い場所にいた。真っ先に留置場が思い浮かんだ。悪いイメージをかぶりを振って追い払う。本物のそれはきっと逆にここまで暗くない。なによりここまで広いわけがない。となれば、ここはどこなのか。見渡せば寒々とした広大な空間が広がっていた。照明のつけられている部分は一画しかなく、残りは闇に覆われている。まるで空き缶の中に吸い込まれてしまった小人になったようだ。
「田中さん?」
「……あ、ああ。はい。すいません」
我に返って話を聞けば俺はイベント会場の一つ下の階に間借りされた仮設の事情聴取空間にいた。監視カメラを制御したり、エレベーターの動作を確認したり、蛍光灯の予備を保管したり。一七階はフロア丸々すべて事務所兼倉庫のような管理フロアだった。壁や扉による仕切りはなく、筒抜けのワンフロア、すべてがだだっ広くつながっている。体育館のように大きなその一つ箱をパーテーションやダンボールでそれぞれの担当がそれぞれの作業空間に区切って使っているようだ。既に二一時を過ぎているとあってか、灯りがついているのは俺のいる場所以外には一か所だけだった。モニターを並べて監視カメラの映像をチェックしているらしきスペースである。
俺と同じくらいの年代の眼鏡をかけた男が四人、小さな灯りに群がる虫よろしく、モニターに向かって作業している。事情聴取の空間は彼らの作業空間の隣に併設されていた。エアコンの使用は禁止らしく、暖は個々に電気ヒーターで取る習わしらしい。彼ら四人が持ち込んでつけているヒーターの熱でさりげなく警察の人間が温まっている。俺はスーツの前をあわせ、身を縮めて保温に努めた。駐車場の車中よりはマシだけれど随分と寒かった。備品の中から適当に拝借してきたらしき長机とパイプ椅子で構成された即席の空間は一八階の豪華なイベント会場を見てきた直後では殊さらみすぼらしく見え、一気に現実以上の絶望に引き戻された感がある。それが体感温度を一度は余計に下げて感じさせてくるる。
「では、こちらの写真の方をご存知ですか?」
仄かに闇を押し退ける空間で警察官が俺に問う。タブレットに映されたのは、おそらくトイレで死んでいた二人目の男だ。当然ながら俺に覚えはなく、首を左右にふる。
「えっ? 知らない? こちらのイベントに参加しているのに?」
「えっ?」
思いもよらぬ追求に顔をあげるなり、そのまま仰け反らさせられる。年のいった小太りの側の警察官が机に乗り出すように迫ってきていた。じっと俺の顔を覗き込んでくる。丸い河豚のような顔を、ぐいっと近づけて。
「田中さん、もう一度聞きますよ? あなたはこちらの彼を知らないんですか?」
「……え、ええ。知りません」
「本当に?」
「はい」
一体なんだというのか。あきらかに含みのある口調である。手元の名刺に大石哲幸とある警察官はパーソナルスペースが俺のそれよりひと回り小さいらしい。隣の若い男と違って距離がずっと近く、どうにも圧迫感がある。不快である、とはっきり言ってしまってよいのかもしれない。写真データを映したタブレットを鼻先まで無遠慮に近づけられるのも不愉快極まりない。
「へえ、知らないんですねぇ。そうかそうか。なるほどねぇ。それはそれは……」
「なんですか?」
「いや、知らないんだな、とね?」
まるで聴取でなく、犯人の取り調べだ。口調といい、表情といい、あきらかに害意があり、さすがに腹が立つ。嘘はついていない。少なくともここに限ってやましいことはなにもない。警察の思惑がどうあれ、俺がそこへ誘導されてやらなければならない言われわない。
「知りませんが、なにか問題でも?」
「いやね、こちらの彼はマリナのチームを代表する四人の幹部うちの一人らしくてね? 四大天使にちなんでアークエンジェルとかなんとか呼ばれているとか? 私は詳しく知らないんですが、こちらのイベントに来ている方で知らないなんてこともあるんだな、とちょっと意外に思いましてねぇ?」
たちまち冷や汗が吹き出す。そうだった。一つ上の階で開催されていたのは界隈で勇名を馳せるマリナの記念すべき初イベントだ。誰でも参加できるわけでなく、これまでのコミュニティへの貢献度の高さだったり、ブロックチェーンや仮想通貨、NFT、Web3.0、それらの界隈でそれなりに知名度や知見や交流、交友関係が構築されていなければ招待してもらえない類のもの。俺のようなニワカは本来対象外だった。マリナの幹部となれば、もちろん俺以外は皆、この写真の男が誰かを知っているのだろう。
「……ああ、そう……なんですね。名前を聞けばわかるんでしょうけど、顔までは……ちょっと。イヴァン・ニーベンなら知っているんですけど」
「ああ、イヴァンさんが一番有名らしいですねぇ?」
おまえはなぜここにいるのか。大石から言外にそうした思いが滲んでみえる。疑われている。もう既に喉が乾いていた。沈黙の間が重たい。けれど差し挟んで軽くできる言葉も見つからない。
「あの、ところで田中さん、それは一体なんですか?」
そこへもう一方の若い男が不意に軽口を挟んできた。ずっと気になっていて溜まらず、といった様子で。名刺に東幸慈とあった、すらりと背の高い警察官だ。瞬間、河豚の眉間にぐっと皺が寄る。邪魔をするな、俺にはそう見えた。よもやあのまま沈黙で押し潰そうとでも思っていたのだろうか。
「……それ、とは?」
「左の耳につけている、それです」
「左の耳?」
「それです、それ」
「ああ、これですか!」
忘れていた。東に指差されてようやく思い出した。なかなかの優れものだ。マスク以上につけていることを忘れるほど装着感がない。伸幸に借りた翻訳機能付きの片耳ワイヤレスイヤフォンである。英語のわからぬ俺への餞別として、あの悪友が俺をこの場に送り出す前に、自ら開発を手掛けているという、その機器を提供してくれたのだ。まだ試作段階のものらしく実証実験テストを兼ねてらしい。
「ああ、なるほど。クラウドファンディングかなにかで似たようなものが支援を募っているのを見たことがあります。もう売り出していたんですね?」
「いや、これもまだ製品ではないみたいです」
「あっ、そうなんですね。たしか十ヶ国語に対応しているとか?」
「それはたぶん、高いやつなのでは? これは英語と中国語だけの対応みたいです」
「そういうのもあるんですか? へえ。っで、精度はどうです?」
「それが驚きました。僕は英語があまりわからないんですが、それでもニュアンスと言うか、細かい点をよく日本語にしてくれているな、と感じられました。翻訳にかかるタイムラグも小さく、同時通訳者を耳に挟んで連れて歩いているような感じです」
「それはすごいですね!」
「英語を拾うと自動的に翻訳がかかるんですが、左耳から翻訳された日本語が、右耳からはそのままの英語が聞こえるので、ちょっと慣れるまで違和感はありますけど」
「ああ、なるほど。でも、すごいですね」
「ええ、なかなかに。といって問題はまだ聞くだけ、というところなんですけど。外国語で行われる講演会に参加する場合には向いているのかもしれませんが、こういう交流の場では……その、話せてなんぼ、なので……」
「ああ、そうか。あくまで受信側の機能なんですね。しかし、それでも便利そうです。今ではスマホでもあれこれできますし、すごい時代になってきましたね」
「まったくです。僕は英語ができないので……テキストの翻訳ツールやらこうしたものがないと、とてもこちらの世界にはついていけなくて……」
「こちら? ああ、クリプト界隈?」
「はい、そうです」
「たしかに仮想通貨は英語のイメージがありますもんね。私も英語はできないので、だからそれ関係は門外漢、NFTとかそういうのの捜査はからきしです。今回こちらに回されて困っているんです。手の空いているやつはいないか、と聞かれて手をあげてみたら……まさか、ここだなんて。聞き込みするにも外国の人が多くて……」
「ああ、わかります。すごくわかります」
イベント会場へ着いてすぐ俺もその洗礼を受けている。受付こそ日本人スタッフが多く担当していたものの、立食パーティー形式の会場内は半数とまでいかずとも、かなりの数が外国人だった。翻訳イヤフォンあれど聞く一方ではコミュニケーションは成立しない。どうしてよいかわからぬままうろうろした。あちこちで英語が飛び交うフロアで顔の見分けもつかず、そのうち四人に一人がスーツに着替えたイヴァン・ニーベンにさえ見えてきた。まるで自分一人が別の国に迷い込んでしまったかのような錯覚に襲われた。逃げるように同胞の日本人を探しもしたのだけれど、一見して仲間と見えた何人かもスマートに英語で応じたりをしてみせ、俺を突き放していった。まったくもって居心地が悪かった。走り回っている子どもたちのほうが、まだしも仲良く会話することができた。三児の父という雰囲気が知らずと滲み出ているのか、外国の子どもとは得てしてそういうものなのか。日本人の子どもから声をかけられることはなかったけれど、外国人の子どもには随分と話しかけられたものだ。彼らは俺の救世主だった。所在なく永遠にも感じられたイベント開始前の待ち時間を、その屈託ない笑顔で埋めてくれた。単に左耳につけた翻訳イヤフォンが気になってのことかもしれないけれど、それでも俺が救われたのは事実だ。とりわけ陽希と同じ五歳だという男の子と、そのお姉ちゃんという九歳の女の子とはよく話をした。どちらも白い肌にブロンドの髪、青い瞳が人形のようだった。快活ながらもしっかりとしたお姉ちゃんは、子どもらしい笑顔で子どもらしく駆け回りながらも時に驚くほど大人めいた台詞を吐いた。「日本のゲームはちょっとフラグが複雑すぎるわ。そう思わない?」などと、陽葵もあと八年もしたらこんな風になるのだろうか。「制作サイドの自己満よね、あれは?」なかなかに複雑だ。俺はどうにか片言の英語で応じながら、女の子というものに圧倒された。男兄弟の中で育っている身ゆえ、今から我が娘をしっかり育てられるか不安になった。もっぱら裕子頼みになりそうである。なにはともあれ、まずは目の前の窮地を切り抜けなくては子育てもままならないのだけれど。
「……僕はもう、雰囲気にビビッてしまって。隅っこで、こう、じっとしていました。ともかく気配を消して」
「ああ、わかります。僕も参加者だったら、きっとそうしてました。しかし、その、仕事だと……そういうわけにもいかないので……」
言葉も違えば文化も違う。となれば聴取もなかなかに大変なのだろう。若手の東の苦労がしのばれる。
「ところで田中さん、マリナってどんな意味なんですか?」
「……カナダ? イヌイット? そのあたりの神話に出てくる神様の名前です。たしか、海……じゃない、それはセドナだ。太陽の女神、だったかな? そう聞いた気がします」
このあたりはミートアップへの代理出席が決まってから伸幸に予習がてら散々聞かされている。あわせて出てくる公文公の話と、セットで。それでも尚うろ覚えでしか頭に入っていないのだけれど。「僕の代わりに参加するんだからこれくらいは覚えてくれよ!」 逆に伸幸の繰り返すその台詞だけが、すっかり耳タコである。
「……おい、東」
「ああ、すいません、大石さん。つい……」
すっかり盛り上がっているところ大石が苛立ち混じりに割り入ってくる。たちまち空気が淀んで感じられた。温度が下がり、暗さが増した気がした。それでも東と会話したことで最初ほどの圧は感じないで済んでいる。
「会場内はスマホは持ち込み禁止と聞きましたが、それはOKだったんですねぇ?」
「……ああ、そういえば? 聞かれれば翻訳機だと説明するつもりでしたが、そもそも聞かれませんでしたね。なんでだろう?」
「まあ、補聴器とでも思われたんでしょうねぇ。私も六〇にもなると耳が遠くなってきてねぇ。あれこれ調べているんですが、最近はお洒落なものも増えているみたいで。ちょうどそんなのに似たのも見た気がしますから」
「ああ、なるほど。それでか。そういった類はなかなかに質問しにくいですもんね」
「ええっと、それでね、田中大輔さん。あらためて質問させていただきますが、あなた、新聞紙は見られてますか?」
「しんぶんし? えっ、新聞……ですか?」
「田中さん、本当に招待されてここにいるんですよねぇ?」
「……え、ええ。もちろんです」
「本当に?」
「え、ええ……」
「本当の、本当に?」
大石の小さな目が冷たく俺を射抜いてくる。端から決めつけている、嫌な目だ。小説であれば蛇のような、とでも書くところだろう。けれど太った丸顔のせいで、やはり河豚にしかみえない。どちらも毒がある点では危険に変わりないけれど。
「なりすましではなく?」
「……なりすましなど不可能でしょう? 受付の場でツイッターアカウントを本人のものだと証明しなければならないんですから?」
手持ちのスマホで招待状の届いたアカウントにログインし、ダイレクトメールにマリナから届いているメッセージを開く。そこに付けられたQRコードを受付で確認してもらう。そうすることで入場が可能となる。もちろんその際に別で身分証の提示も必要だ。それからスマホを預ける、という運用である。
「そうみたいですねぇ。しかし私はそのあたり疎いのでトンチンカンで。見当違いであれば申し訳ないですが、最近では、あの、あれ……ほら? 流行っているじゃないですか。なんて言ったけ?」
「あれ? あれ、ですか? なんです?」
「あっ、ハッキング。ハッキングです。ツイッターの乗っ取りとか、そういうのもあるみたいじゃないですか? ねぇ?」
大石はなぜか監視カメラのモニター前に腰掛けて作業している無関係の眼鏡の四人に同意を求めた。彼らはそうしたものに詳しいはず、と見た目だけで決めつけているようである。手前の一人。大柄でロボットアニメのTシャツを引き伸ばして着る彼が、困ったように小さく会釈を返してくる。
……あのTシャツは?
ふと思い出した。どこかで見覚えのあるものだと思えばイヴァン・ニーベンが着ていたことを。色も同じだ。おそらく人気のロボットアニメなのだろう。伸幸が気にしていたし、機会あればアニメの名前を聞いてみようか。もしかしたら陽希あたりは既に知っているのかもしれない。ともあれ、この寒さに半袖一枚とは恐れ入る。今だけで良いからその有り余る脂肪を少しだけでも分けてはくれまいか。見ているだけでこちらが寒くなる。
「田中さん?」
「ああ、すいません。少し寒くて。ええっと、なんでしたっけ? ハッキング……でしたか? しかし、そんなことがあれば先に大騒ぎになっているのでは? 乗っ取られた側も大人しくはしていないでしょうし?」
「ええ、そうでしょう。ですが、です。乗っ取りの発覚はしばらく遅れる場合もありますよねぇ? 乗っ取られた側が数日経ってから気づく、というケースもあると聞きます」
「なるほど。それもなくはないんでしょうけど、そういう時のために今回はあわせて身分証の提示が必要とされているのでは?」
「ええ、そうなんです。だからこそ不可解なんですよねぇ?」
再びにじり寄られるにあたって今度は俺も負けじと机に身を乗り出す。不愉快な手合いだけれど大石の見立ては正鵠を射ている。ベテランの勘なのかなんなのか。目の付けどころはさすがである。俺は、今、たしかに他人になりすましてここにいる。不正を働いて。しかし一つ断言できることがある。俺が乗っ取りを訴えられることはない、ということ。なぜなら正規の招待者である伸幸こそが俺にアカウントを提供しているのだから。すなわち乗っ取られた側が共犯のような状態なのである。もちろんそうしたカタチでの代理出席も禁止行為ではあるけれど、ともあれハッキングなどではないのだから、ここは強気で押し返せる。
「随分とあからさまに疑ってきますね、俺のこと?」
「いえいえ、そんなことはないんですよ。私は少し用心深いタチでしてねぇ? あっ、そうそう。田中さんはお子さんが三人もいるらしいじゃないですか? 今日は連れてはこなかったのですか? 上の階には外国人のお子さんたち、たくさん見掛けましたけど?」
その瞬間は意味がわからなかった。ただの会話の流れ、その一貫と思えなくもなかった。しかし、わかった瞬間に激しい怒りが湧く。空き缶の底の底から湧くそれよりも遥かに強烈な、殺意に近い、それが。
「若い奥さんもいる、とか? いいですねぇ。うらやましい」
「……そういうのって個人情報なのでは?」
家族を人質にでも取っているつもりなのだろう。思わず脇にあった折畳式の梯子に手を伸ばしそうになる。これで殴ってやろうか。そう思って反射的に掴みかけたそれは掃除用具入れにあったものと同じ形状だった。故障中の張り紙がされている。既に壊れているのならフルスイングして大破させても問題あるまい。しかし寸でで留まれたのは思い出させられた家族の顔のおかげである。ここで挑発に乗って眼前の河豚を殴り、別件逮捕されるわけにはいかない。
「個人情報? ああ、まあ、そうかもしれませんねぇ? いや、これはこれはすいません」
気に障る笑い方だ。小説やドラマの悪役でしか見たことのない手合いである。本当にこうした警察官が実在しようとは世も末だ。あからさまに精神的に圧をかけてきている。恐喝しようと考えていた俺が言えた立場ではないけれど、これが法治国家の日本で許されてよいのだろうか。
「……別にいいですけどね。俺にやましいところはないので。後から乗っ取りが判明したんなら、ここにある住所に俺を捕まえにきてください。これは正真正銘、俺の免許証ですから。偽装とかはしていませんよ」
殴ることはどうにか留まれたけれど一言返さずにはいられない。尻ポケットの折り財布から運転免許を取り出し、俺はそれを大石の眼前に鋭く突きつける。歳のいった小太りの警察官は笑みを消し、片頬を引き攣らせながらも、じっと俺の免許証を見つめる。
「田中……大輔、田中……ふむ?」
「なんですか?」
「たしかに偽装ではなさそうですねぇ……」
「ちょっと、大石さん!?」
問題になる気配を察したのか見かねたのか、若手の東がそこまでとばかり上司を引き留めに入る。大石は僅かに抵抗を見せたものの、しかし殊のほかあっさり引き下がった。乗り出していた身を退き、再びパイプ椅子にどっかり腰を落ち着ける。河豚当人にしても、おかしな騒ぎにはしたくないのだろう。刑事ドラマでも見ている気分なのか、モニター前の四人が興奮した様子でこちらを窺っていた。俺も第三者としてあちら側で見ていられたのならば、どれだけ良かったことか。こちらの側にいて喜ぶのなど伸幸くらいのものである。
「ああ、すいません。すいませんねぇ。まだ他殺と決まったわけでなく、事故や病気の可能性も調べている段階だというのに、ねぇ? いやいや、これはこれは大変失礼いたしました」
俺が無言で首肯を返すと大石が内心の読めない不敵な笑みを深くする。先ほどまでの強引な聴取を取り繕っての笑みか、はたまた「今に見ていろ」という敵意のあらわれか。勢い余って強気に出たものの俺としてはしかし恐喝しようといていた事実は否めない部分もある。冷静になると背筋に冷たいものを感じる。さらには、目下、心配なこともある。入場直前に一時的に拝借した伸幸のツイッターアカウントであるけれど、入場を済ませた後、既に返却しているのだ。具体的に言えば伸幸にパスワードの変更をしてもらっている。俺が再びログインできないよう、俺の知らないパスワードへと。だから今ここでダイレクトメールをもう一度見せろなどと言われたら、なかなかに不味い状況だ。俺はもはや伸幸のアカウントを自由に扱えない。プライバシーの侵害だと跳ね除ける以外に対応する術がない。
「しかしねぇ。今回の件、事故にしてはどうにも腑に落ちない点がありましてねぇ? それで少し……あっ、こういう質問、田中さんだけでなく、皆にしているんですよ? ちょっと強めに、こう……なんというか、ボロが出たら儲けもの、みたいな? ねぇ?」
「……圧迫面接、みたいなやつですか? 誉められたやり方ではありませんね。皆にしていれば許される、というわけでもないですし」
「まったくもって、おっしゃるとおりです。私はこのとおり古いタイプの人間でして……いやはや申し訳ないですねぇ」
いやに下手に出てくる。あまりに急な方向転換だ。逆に不気味でならない。この手の類いがこうした態度に出る時は大抵ろくなことがない、と小説やドラマでは相場が決まっている。ここは早めに切り上げるが吉だろう。
「すいません。そろそろ上に戻っても?」
「ええ、いいですよ」
「では、失礼し――」
「あっ、すいません。田中さん。最後に一つだけ。今ここでツイートしてもらえませんか? ハローでも、テストテストでも、なんでも構いませんので? ねぇ?」
一瞬、意味がわからず、狙いが見えず、窮地と気づくのに一拍の間を要してしまった。やられた。完全に。言外に『プライバシーであるダイレクトメールは見せなくてよいので』という嫌らしい配慮が感じられる。なりすましであればどちらも不可能だというのに。この男は、この河豚は、やはり俺を最初から疑っている。
「……ツイートを、ですか? 今、ここで?」
「ええ。内容はなんでもよいので一つお願いしますよ」
たちまち冷たい汗が吹き出す。横目にちらりと確認すれば、頼みの綱の東は確認用のため、大石同様に既に己のスマホを取り出している。念のためであるし、これくらいは特に問題はない。許容範囲、ということなのだろう。たしかにそうだ。さっさとツイートして去ればよいのだから。しかしその投稿が俺にはできない。
「どうかしましたか?」
小太りの大石の丸い河豚面が満面の笑みを浮かべている。まったくもって嫌なやつだ。俺はひとまず自分のアカウントでツイッターにログインし、伸幸のアカウントをはたから眺める。今や俺が扱えない悪友の、それを。視線の端で監視カメラのモニターに張り付いた四人の耳が、こちらにじっと向けられているのを感じる。ドラマや映画以上の臨場感を俺で味わうのは勘弁してくれ。
「田中さん? どうかしたんです?」
「……ああ、いや、しかし、いざ……となると、なんて投稿しようか、迷いますね。ちょっと、恥ずかしいな」
確信を持っているように詰め寄ってくる大石に逃げ場をどんどん削られていく。しまいには東にまで「なんでもいいんですよ?」とフォローされる始末である。俺は、やはり、三流小説家らしい。投稿できない理由を、ちょうどよい言い訳を、まったく思いつけない。 どんなストーリーであれば、受付を済ませた後、ツイートできなくなる状態にもっともらしい理由をつけられようか。ここで今さら俺自身がハッキングを受けている、と騒ぎ出しても不自然極まりないだろう。ネット環境の問題にするのも無理がある。スマホを握る手が震える。どうにかそれを押しとどめる。
「そんなに大袈裟に考えずに。いつものように、でいいんですよ? 投稿したものはすぐに削除してくださっていいですし。私たちが確認できれば、それでいいので」
「……ああ、はい。わかり……ました」
観念して白状するしかないのか。ここに来ての、今さら、となれば、心証は最悪だろう。殺人犯の筆頭として疑われること請け合いである。俺は本当にやっていないし、家族のためにも濡れ衣をかぶるわけにはいかない。しかし良いシナリオが思い浮かばない。沈黙で時間稼ぎするにも、これ以上は限界である。
「ありがとうございます。それじゃあちょっとお菓子でも探してきますね」
快活な東の声と大石の小さな舌打ちが同時に聞こえたのは直後である。己のスマホに目を落とせば「お腹空いた……これ、いつまで続くんだ?」と伸幸がツイートしていた。まさかまさか、である。これしかない、というタイミングで、これしかない、という内容で。持つべきものはやはり友だ。このエピソードを後で話したならしかし「ご都合主義すぎるだろう!」とまたぞろ怒られそうである。とても小説には使えない必然性のない偶然のたまもの。文字通り奇跡。
「……ふむ。そうですか。なるほどねぇ」
いよいよアテが外れたとばかり百戦錬磨のベテランが残念そうな表情を浮かべ、イチから推理の再構築をはじめるような仕草をみせる。俺はもう腰が抜けたような心持ちで東の持ってくるお菓子を待った。伸幸の間の良さに感謝しかない。どうやら神様はまだ俺を見捨ててはいないようだ。しかしそう思えたのも、本当に、本当の、束の間であった。
「田中さん、すいませんねぇ……先ほどはもうけっこうだと言ったのですが、あと少し時間をもらえませんか? 東も食べ物を探しに行ってしまったわけですし」
「え、ええ……まだ、なにか?」
「少し見てもらいたいものがありましてねぇ?」
「見る? なにを?」
「彼らに手伝ってもらって、少し……ねぇ?」
モニター前の四人組がようやく出番とばかり高揚した面持ちでこちらを振り向く。揃いのタイミングで。さながら刑事ドラマへの出演に緊張するエキストラのよう。俺に見てもらいたいもの、とはなんなのか。あの四人の仕事を考えれば一目瞭然であろう。俺はたちまち奈落の底へ突き落された気持ちになる。
「いやねぇ、トイレの前の廊下を映した監視カメラの映像がありまして、ねぇ?」
「伊波、また来いよ!」
「待ってるからな!」
「絶対だぞ!」
漁師町の子というのはどうしてこんなに元気なのか。特に男の子は同い年とは思えないほど幼い。揃って白のランニングに短パン、アニメの世界の田舎の子どもそのままである。でも清々しくて気持ちいい。東京では去りゆく友達の見送りに、こんな風に集まり、こんな風に声をあげ、こんな風に涙してくれる子はいないから。私からすれば伊波がちょっと羨ましい。
「うん。ええっと……一、二、三……十……十七匹っ! じゃあ、十七年後に! 十七年後に、また会おう!」
夕陽を背にした伊波が歯を見せて笑う。餞別がてらに受け取った全員分の今日の釣果で両手のバケツをいっぱいにして。釣果といっても子どもの遊び。外道、外道、外道。河豚、河豚、河豚。食べられる魚は一匹もいない。だから私は言ったのだ。
「そんなものぜんぶ捨てていきなよ」
「いや、もらっていくよ」
外道とは釣り用語で目的外の魚を指す。一匹も釣れないことを示す坊主よりは些かマシであろうけれど、よりによって今回釣れたのは外道中の外道と目される緑色の河豚ばかり。草河豚は毒があり、素人が捌いて食べることはできない。すなわち生ごみだ。
「本気なの? 重いだけよ?」
「この重いところが嬉しいんだよ。この重さがさ。みんなにもらったものだから」
私は何度も説得を試みた。それでも明朝にはこの門司を離れ、カナダに発つという痩せた男の子はすべての外道を持って帰るといって聞かない。私を覗く彼の青い目が、白い肌が、朱に染まっていた。思わず息を飲んだ。他の男の子と同じ、ランニングに短パンだ。けれどどうしてか伊波は絵になっていた。外国人だからというわけでなく、整った顔立ちというわけでもなく、しかしなぜだか。
「伊波ぁー、またなー」
「手紙、書けよな」
去りゆく彼の背に私は声をかけられなかった。とりわけ己は東京から来た都会の人間なのだからと気取っているわけでも上品ぶってるわけでもない。ただただ声が出なかったのだ。涙が止まらなかった。一年前に引っ越してきたばかりのとき、みんなの仲間に入っていけない私に最初に声をかけてくれたのが伊波だった。小学校はインターナショナルスクールに通っているとかで別で、遊び場の堤防でしか会うことはなかったけれど、私は伊波がいたから友達ができた。「僕も半年前に引っ越してきたばかりなんだ」と言った伊波は同じよそ者の私の気持ちを誰よりわかってくれた。相談に乗ってくれたし、みんなとの間を取り持ってくれた。それだから、いや、それでなくても、だろう。きっとひと目見たそのときから私にとって伊波は特別な存在だった。
「みんな、本当にありがとね! 楽しかった!」
とろとろと迎えに来た軽トラックの傍らにバケツを置き、小さくなったシルエットの伊波が両手をいっぱいに振りながら飛び跳ねる。小柄でぜんぜん似ていない伊波のおじいちゃんも今日は珍しく車から降りてきては伊波の隣で手を振った。それで本当に最後なのだとわかり、胸がぎゅっと締めつけられた。
「裕子、元気でね! 見送りにいけなくてごめん!」
半年後、中学生になるタイミングで私も東京に戻るのだ。来るのも帰るのも半年後。常に伊波に半年分の遅れを取っているように思える。それで、だろうか。不意に言葉が口をついた。
「十七年後にね! 私、負けないから!」
なんの勝負をしているのかはわからない。なにに負けないのかも。それでも私は引き絞られていた喉をこじあけ、どの男の子よりも大きな声で勝利宣言をくれることができた。伊波からも即座に返事が跳ね返ってくる。
「僕も負けないよ!」
ぼんやりとした微睡みに包まれながら寝ぼけ眼で見上げれば時計の針はまだ二一時だった。三人の子どもを寝かしつけながら一緒に寝落ちしてしまったらしい。今夜は仕事で遅くなるらしく、大輔はまだ帰ってきていない。そういえばと、ふと思った。来年の誕生日でいよいよ私も三十の大代に乗る。つまりは今年であれから十七年が経ったわけだ。それで夢に見たのだろうか。あの頃の、小学生の頃の、私は、そこが金策に明け暮れ、眠れぬ夜が続く未来だとは夢にも思はなかった。けれど不思議と不幸せとは思わない。思いたくもない。こんなに可愛い子どもたちが傍らいるのだから。
負けられない。負けない。
なぜだか沸々と闘争心が湧いてきた。私が三十になるのだから大輔に至ってはもう四十だ。そろそろ身体にガタがきてもおかしくはない。いつでも代わりに私が働けるようにしておかなければいけない。なにがあってもこの三人は立派に育て上げてみせる。唐突に思い出した青い目の少年に向け、一人勝手にあらためて宣戦布告し、私は静かに戦いの日々に戻る。明日からの子育てという戦場に備え、今夜はしっかりと眠らねば。それが今の私の戦いなのだから。大きくひとつ深呼吸し、今日くらいは残っているすべての家事をほっぽり出して、そうして再び眠りの先を目指す。眠れる時に眠らなければ、頑張るべきときに頑張れない。大輔はまだ頑張っているのだし、私も頑張って眠らなければ。
負けられない。すれ違った男から、なぜだかそうした強い意志を見てとれた。名も知らぬ、誰かもわからぬ相手から。彼にはなにかしら守るべきものがあるのだろう。鬼気迫る執念のようなものが迸っているように感じられた。そういうことであればしかし、僕だって負けてはいない。僕はこの勝負に最初から己の人生を賭けているのだから。これは元より僕が消えることで完成するプロジェクトなのだから。
撃っていいのは撃たれる覚悟のある者だけだ。
とあるアニメに出てきた僕の好きな言葉。僕にはある。その覚悟が。エゴまみれではあるけれど、それでも揺るがぬ決心が。振り返らずに歩を進めつつ、背中に重たい扉の閉まる音を聞く。そこで、ふと思い至る。あるいは先ほどの男は、ただひたすらに、己の、人としての、その尊厳を守りたい、という一心から緊張を帯びていたのかもしれない。ここはトイレだ。もしも限界ぎりぎりの末、どうにか我慢し、ここまで辿り着いてたのだとしたら、あの気迫も頷ける。そんなことがあるだろうか。いや違う。それが普通なのだ。
普通でないのは僕のほう、か……。
ただトイレにやってきただけの男が今の僕の目にはとてつもなく異様に映る。その事実に気が滅入りそうになる。他者は己を映す鑑だ。つまりは、今、僕の精神状態がおかしいに違いない。無自覚なままに。あるいは半ば自覚して。入れ違いでトイレに消えていった先の男がなんとも挙動不審に感じられたのは、誰より僕がそうした状態だからだろう。ヘッドフォンをつけて無意味にリズムに乗る、酔っ払いよろしくの清掃員姿の、僕。おそらくこの空間で、今、誰よりも異常だ。それもそのはず。僕、イヴァン・ニーベンは、今日、はじめて人を殺したのだから。続けてまだ何人かを殺す、その予定もある。もちろん信念に基づいての行動だけれど、だからといっていくら覚悟があろうともこれを平静を保ったまま行うのは難しい。特にこの最初の殺人がもっとも精神的に堪えた。何も知らない若者を、ただマリナを愛するだけの彼を、僕を崇拝していた彼を、僕は、己のエゴのためにこの手で殺したのだから。
「同い年で、同じく施設育ちで、だからイヴァンに憧れてるんです」
彼とのはじめての会話はマリナのグループチャットの中でだった。今でも覚えている。直接会ったのはその二年後、髪型も服装も完全に僕を真似ていた。ファッションモデルでもなく、むしろダサい部類に入る、この僕を。たまたま長身の痩せ型という体型が似ていたこともあり、同い年なのにまるで兄弟、弟のようだと感じたものだ。ダーヴィットにもそっくりだと太鼓判を押された。偶然の共通点が多いことではじまったらしき僕への憧れが、彼の努力によって、さらに類似性を加速させていた。彼はあきらかに僕に似せようとしていた。寄せてきていた。彼の存在の、そのすべてを。
「日本までの旅費を出してもらえるんですか? 僕の分を?」
チャット上での文字からながら、その向こうに素直に喜ぶ彼の顔がイメージできた。返信文を綴りながら心臓が掴まれるような痛みを覚えた。
「今度のイベントで僕のそっくりさんをして欲しくてさ。みんなを驚かせたいんだ。だからナイショで日本に来て、ナイショでイベント会場に入ってほしいんだ」
「イヴァンの代わりに僕がスピーチをして誰が最初に偽者と気づくかどうか、とはなかなかに面白そうな企画ですね。バレないように頑張りますね」
少しでも長くマリナのホルダーたちを騙してイベントを盛り上げよう。そうして意気揚々とアジアの島国までやってきた若者は清掃員の姿で人知れず会場入りした。もちろん僕の指示で。僕の手配で。 最後にせめてとまで、二人でひっそり、皆に隠れて晩餐をしたのは、ダーヴィットやポールらとの幹部会の会食の前のこと。僕を前にした彼は緊張した様子で早いペースで酒を煽った。
「イヴァンは飲まないのですか?」
「飲まないというか、飲めないんだよ。お酒は弱くてさ。もし、今、飲んだなら、この後のイベントでなにも喋れなくなっちゃうくらいに。逆に君は少しくらい飲んだほうが、うまく偽者をやれそうに見えるけど?」
「はい。飲んだほうが緊張を誤魔化せるタイプです」
「しかし、ごめんね。僕の偽物だなんて……」
「いや、嬉しいですよ。イヴァンに似ているという評価あってのキャスティングでしょうし。なによりイヴァンの役に立てるのが嬉しいです。それが偽物役であれ、なんであれ。僕はイヴァンの理想のためなら命だって賭けられますから。なんでも言ってくださいね!」
まったく予期せず、彼の口から、今回の僕の行動が肯定されようとは思わなかった。今一番欲していた慰めの言葉がそこにあり、傲慢なエゴであっても僕は少し救われたように感じた。
「えっ? イヴァン? どうしたんです? そんなに泣くようなことではないですよ!」
「……いや、本当にありがとう」
「お礼を言いたいのは僕のほうです。マリナは僕にとっての信仰そのもの、宗教で、イヴァンは僕にとって神様みたいなものですから」
そういって歯を見せる若者へ、僕は毒を盛った。遅効性の毒を。はじめての日本食だと喜んで食べる、若者へ。僕に似た、若者へ。そうしてその後、トイレの掃除用具入れで声をかけるまで待機するよう命じたのだった。毒が回り、そこで死ぬように仕向けたのだ。僕に憧れる同い年の男を、僕に似た弟のような彼を、僕は騙し、人知れず殺したのだ。僕の身代わりとして。
「あっ、これ、プレゼントだよ。トイレに隠れて待っている間、退屈しないよう音楽でも聴いていてよ」
「あっ、新型の! 僕、欲しかったんです!」
「だと思ってさ。前に言ってたから。ヘッドフォンにこだわりがあるって」
「覚えていてくれたんですね!」
あまりに感激してくれる彼に再び心臓が握り潰されるように感じる。頭にかぶる形状の大ぶりのヘッドフォンはあくまで監視カメラに彼の耳の形が映らぬようにするために用意したものだ。僕が安心して入れ替われるように。そのための、念のための、配慮だった。彼への贈り物といった気持ちはほとんどなかった。彼の笑顔に対するその事実が、僕の胸を静かに痛めつけてくる。雑巾を絞るように、じわじわと。
「いや、もう、嬉しくて飲みすぎちゃいますよ」
「ああ、好きに飲むといいよ。とはいえ、ほどほどにね……」
「日本食っていうのはしかし、なかなか変わった味がしますね? イヴァンもそうは思いませんか?」
「ああ、そうだね。でも僕はこの味が好きなんだよ。この国もね」
