見出し画像

仮想通貨と自律分散型殺人事件 第2話

「殺す? イヴァンを?」
 驚いたような口調を演出するも予期したとおりである。プロジェクトはじまって以来のビッグイベント、マリナミートアップ。そこでイヴァン・ニーベンが発表すると宣言した内容を鑑みれば当然であろう。
 ダーヴィット・ヒルベルト。
 ポール・エルデシュ。
 そして、僕、レオンハルト・オイラー。
 マリナを担う四大天使、アークエンジェルと呼ばれる四人の幹部のうち、イヴァンを除く全員が激しい憤りを覚えている。
「イヴァン、あれは少しやりすぎた」
 ポールが言う。感情の読み取りにくい無機質な声で。
「まったくだ。しかし一人でなにもできん小僧が、わしらを替えの利く駒程度にしか思っておらんかったとはな」
 年嵩のダーヴィットが続く。
「お二人が同意見なら若輩の私が口を挟む理由はありません」
 これで三対一の構図が完成された。密談におあつらえの、ダーヴィットの私邸のリビングで。マリナプロジェクトに参画する以前よりコミュニティマネジメントの世界で重鎮として名を馳せる大老は己がプライベートを隠すことをしない。むしろダーヴィットは保有する富を誇示することで自らの価値を高める手合いである。ゆえにアークエンジェル内に閉じられるとはいえ、また本宅でないとはいえ、四人の中で唯一、彼の住所は共有されていた。この別荘にはかつてイヴァンその人も訪れたことがある。その趣味の悪さは壁に飾られた巨大なヘラジカの首の剥製と足元に敷かれるトナカイの毛皮のラグマットから一目瞭然。小柄で腕力に自信のないことを長年のコンプレックスにしてきたことが一目で見て取れる。己が捕食者の側である、ということを誇示したい思いが無意識に溢れている。
「しかしひと口に殺すと言っても簡単ではありませんよ? ダーヴィット氏かポール氏になにか策でも?」
 話を向ければ老人の年季の刻まれた顔がポールを覗く。創始者のイヴァンに次いでもっとも長くプロジェクトに従事してきたのがダーヴィットで、続くのがポールだ。しかしこうした場でのリーディングは殊さらポール・エルデシュに任せられる。アンチから鉄仮面と揶揄されることのある、その無表情の大男に。ポールはアイスホッケー選手よろしくの体躯を誇り、抜群の冷静さと統率力を武器にマリナでもセンターを担う。それにしても対象的だった。隣に並ぶと、とりわけ際立つ。木の幹を思わせる深い色素が定着した皺顔に、色の抜けた白髪を長く垂らした老人。対してその老人の憧れ、理想を体現したかのような筋骨隆々の逞しい男。男は黒々とした短髪を天を衝かんばかりに逆立てている。後者の大柄な男が生命力に満ち溢れた太い眉をぴくりとも動かさずに言う。
「レオ、犯人というものがどうして生まれると思う?」
「……憎しみから、ですか?」
「容疑者からステップして犯人になるんだ。犯行が立証されてな」
「ああ、そういうことですか。それがどうかしたんです?」
「容疑をかけられなければ犯人にはならない」
 ポールの言葉にダーヴィットが訳知り顔で頷く。僕は逆によくわからないといった未熟さをあえて言外に滲ませる。新参であるのだ。さらにポールとは二十歳、ダーヴィットとはその倍以上に歳が離れている。己に求められている役割は十分理解していた。
「そして容疑というものの大半は目撃者や関係者の証言によってつくられるものだ」
「……ええっと、つまり?」
「疑われなければいい。映画のような特別な殺し方は不要ということだ。完全犯罪だの、密室トリックだの、奇をてらった方法を無理に考える必要はない」
「どこの国も外国人の死に構っている暇はないだろうしな」
 眼前の老人の言はどこへいっても警察組織は腐敗している、という皮肉ではない。汚職蔓延る国もあるがそうでなく、どの国も警察という組織は人員が足りていないという意味だ。実際そのとおりであり、ゆえに初動捜査の段階で怪しい点が認められなければ、いわゆる科学捜査の類いまでは大抵は行われない。特に死亡者が外国人であれば。彼らの狙いはまさしくそこだろう。
「外国……まさか、日本で? 今度のミートアップで?」
「そうだ。どうせ死んでもらうなら、どこぞでの交通事故よりも、イベントの最中のほうがドラマ性もあるからな。後からナラティブを創りやすい。それに外国であれば、帰国さえしてしまえば、その後に調査の手がのびてくることも少ないだろう」
「あの小僧が親日で助かったわい。日本は平和ぼけしている国と聞くからな。日頃からVIPの殺害やらに慣れていない国なら、会場に刃物にしろなんにしろ凶器を持ち込むのも難しくはなかろう」
「なるほど、そこまで計算して」
 もちろん僕に内心での驚きは少ない。マーケティングやブランディングの専門家として参画し、マリナの関連部門でもトップに立つポールならばイヴァンの死を宣伝に利用しないはずがない。というか、そうせざるを得ないのである。中心人物の離脱は下手をすればコミュニティの崩壊を招きかねない。それこそイヴァンを排除できても、その代わりを僕たちが務められなければ殺し損だ。だからこそ、それらしいドラマを創り、僕たちがホルダーの皆から認められなければいけない。あいつの、イヴァン・ニーベンの、その意思を継ぐ正当な後継者として。しかしそれら一連を己がすべて察していることを伏せ、あわせて顔まで伏せ、僕はまだ迷いのある様子を言外に向かいの二人へ滲ませてみせる。
「レオ、そう心配することはない」
「第一線で戦っていれば、こうした決断に迫られることも、ままあることよ」
 同時に向けられた二人の言葉に僕の表情筋が思わず緩められてしまう。咄嗟に両の手で顔を覆って隠した。まったくもって滑稽だ。すべてを誘導しているのが実は誰かを知らず、格下と侮り、講釈を垂れてくるだけでなく、あまつさえ心配までしてこようとは。テーブルの向こうの二人は知らないのだ。僕が人類の上位二パーセントに含まれる高いIQを誇るMENSAの一員で、つまりは天才だということを。
「お二人とも、本当に……やる気なんですね? 冗談でなく?」
「ああ」
「二言はない」
「わかりました。私も……ここで覚悟を決めます」
 そこで迷いはすべて吹っ切ったとばかり勢いよく顔をあげる。無表情な鉄仮面と不気味な笑みが迎えてくる。あくまで若輩の追従者を装い、主導役を眼前の二人に押しつける。承認欲求を抑え、己の抱えるリスクを最小にすることこそ、真に賢いやり方だ。
「もっとも重要となってくるのは犯行動機だ。大半はそれが容疑の決め手となるからな。逆に言えば動機さえ見い出されなければ疑われることはまずない。無差別大量殺人のケースでもないかぎりはな。それを踏まえて実際のアクションは――」
「わかっておる。わしに任せておけ。日本に詳しいのはあの小僧だけじゃない。うまくやるさ」
「動機ずらしやアリバイ工作、事故側への印象操作や誘導は俺がやろう。容疑が俺たちに向くようにはさせんよ」
「ああ、任せたぞ。しかし好きなアニメがあるとかなんとか? よく知らんが、よもや日本とはな。自ら死地に赴いてくれるとは、あの小僧もいよいよ運が尽きたというものだ」
 一体どのように殺すのか。殺害方法が気にはなる。しかし深入りすべきでない、と本能が告げてくる。万一失敗に終わった場合、ダーヴィットとポールを切り捨てる選択肢を僕は当然内心に残している。下手に殺人の根幹に触れておかないほうが、もしものときに無実を主張しやすかろう。
「それぞれ小僧とはもう長い付き合いだ。思うところも個々にあろう? しかしまあ多数決というか、いわばDAO的な形で殺されるのだから、あのイヴァンにすれば本望ではないか? どうだ? わしはそう思うのだが?」
 DAO(Decentralized Autonomous Organization)、分散型自律組織。Web3.0と言う言葉とあわせて注目されている、新しいチームの在り方。かねてより叫ばれてはいたけれど、ブロックチェーン技術の出現によって夢物語でなくなってきたことで、最近、各所で話題にのぼることが増えている。肝は非中央集権という思想だ。権力を持つ者を廃し、メンバーをすべてフラットに置く。チームの方向性はメンバー個々が能動的に行動することで、まるで生き物のように育ち、誰か一人の思惑でなく、自然に創り上げられていく。あるいは共感できるものを見つけて応援したり、そこへ自分もジョインしたり。そうすることで自律的に成長し、維持され、動いていく、まさしく一つの生命体のような組織。なにをするにも誰でも提案できるけれど、なにをするにも誰にも決定権はなく、決定の有無は基本的に投票で決められる。DAOの細かい部分の解釈は、ダーヴィットにしろ、ポールにしろ、僕にしろ、それぞれに違う部分もまだまだ多くバラつきはある。まだまだ皆が勉強中の領域だ。答えもない。しかし絶対的な権力者を不要とする、という思想は共通した根幹である。ゆえに主に、いわゆる権力者、政治家を嫌いなアウトローたちが好む傾向が強い。
「……これがDAO? これがWeb3.0?」
「ああ、イヴァンも満足だろう。あれは誰よりDAOが普及した未来を望んでいたからな」 
「そういうことじゃ」
 能面よろしくのポールはさておき、不敵に笑む老人は僕の目にはまさしく醜い妖怪に映る。身寄りのないイヴァンを引き取り、誰より長く彼と接してきたはずの老人なのだ。つまりは子や孫と同然の関係である。それをしかし、笑顔で殺すと言ってのける。まったくもって欲の深い老人だ。とはいえ、このダーヴィット。その能力の高さは僕も認めるところである。現マリナのコミュニティマネジメントのトップ。年齢に見合った老獪さで大衆を先導する手練手管に長け、役者顔負けの演技力をも兼ね備えている。己自身の魅せ方という点だけに特化すれば、ブランディングの専門家であるポールをも凌ぐだろう。もちろん史上最高の天才である僕にはやや劣るけど。
「なるほど、これもある意味ではDAO……というわけですか? 各々が組織のために能動的に働き、志を同じくする者で協力しあって事を成す。組織としての意思は投票による多数決で決定される。今回の件で、たしかに、マリナに唯一無二の権力者が存在しないことは証明されましたもんね。たとえ創設者でも横暴は許されない」
「むしろその権力者に成りうる小僧を排除しようと言うのだからな。わしからすれば、これはDAOコミュニティゆえの健全な自浄作用の一つだよ」
「あいつに投票権がないし、ブロックチェーンもガバナンストークンも使っていないから、今回の件、正確に言えばDAOとは少し違うかもしれない。しかし広義の意味ではそうとも言えるだろう。まあ、そう考えてみると、なんであれ、いつの世も人間のやることはさほど変わらない、ということだな。技術の進歩やそれを使うか否かは別として、本質的には」
「昔からDAOはあった、と? 概念としては?」
「ああ、そうだ。そしてどの時代でも決まっていることがある」
「……出る杭は打たれる?」
 示し合わせたわけでもなく三人が三人、同時に肩を竦める仕草をとった。
「さすがはマリナを真に牽引するお二人です。世の中をよくわかってらっしゃる。イヴァンはたしかに天才ですが、そのあたりをやや欠きますからね。残念ながら社会不適合者と言わざるをえない」
 あらためてこの場では二人をおだてておくものの、僕は圧倒的なリアリストだ。現実は重々理解している。幹部三人といえど名ばかり。束になってもかかってもイヴァン一人に太刀打ちできない、という自覚はある。マリナのすべては、実質、あの天才が一人で握っているのだ。ダーヴィットの言った替えの利く駒とは言い得て妙で、実際、今はそのとおりなのである。だからこそ、早急に、あいつを排除する必要がある。天才は、ここに、僕一人だけで良いのだから。そのための機会をずっと窺ってきた。虎視眈々と牙を研ぎ、印象操作をし、それを成すべくしきりに働きかけてきた。そうして、今、ようやくその時が訪れたのだ。
「私は今しばらくダーヴィット氏とポール氏から学ばさせていただきますよ。イヴァンと同じようにならないように。それにしても、しかし、本当になにもかもうまく……」
「わしが手を下すのだ。大船に乗ったつもりでいればよい。よしんば下手を打ったとしても、あれこれが客に紛れられるようポールが舞台を満員に整えておいてくれるだろうさ」
「もちろんだ。とはいえ集客に関して言うのなら今や俺がなにをするでもなくマリナというだけで世界中から多くの人を集められるがな。千人くらいあっという間だ。今回はイヴァンのやつも集客にこだわりがあるらしいから、俺は俺でレイアウトやら舞台設定のあたりであれこれと策を考えておくさ」
 これで三人が向いている方向をぴたりと揃えられた。役割分担までも。僕は二人の共犯者に見え、しかし実質なにもしなくてよい。そこへうまく落とし込めた。さすがに天才の僕だ。我ながら見事だ。となれば、あとは最大の懸念事項を如何にして解消するかに尽きる。
「……さて、となると?」
「ああ、そうだ」
「残るはイヴァンを殺す前に鍵をどうするか、ですね?」
 燻りはかねてよりあったものの、今回の発端はマリナのマルチシグの設定に起因する。そしてそれが発覚したのは、イヴァンより唐突に、それも一方的に、十七周年を祝うイベントの開催が告げられたからだった。十七とはまたなんとも中途半端な数字である。それなのにマリナ初となるミートアップイベントを開催するという。それも十周年のタイミングでポールや僕の勧めを蹴ってイベントを開かなかったというのに、だ。場所も場所でホームグラウンドのカナダでなく、オンラインでもなく、遠い島国の日本でやるという。さらにはそこでの発表内容、これが一番の問題であった。これまでのすべてを捨てるに等しいものであったのだ。これでは到底承服できるわけがない。そもそも二ヶ月後という日程にもあまりに無理がある。そういうわけあって僕たち三人が猛烈に反発する過程で、それはあきらかとなった。
 マルチシグネチャー。直訳すれば複数の署名だ。その名のとおり鍵を複数に分割して管理すること意味する。ここでの鍵とはもちろん仮想通貨マリナを格納しているウォレットの秘密鍵である。運営が保有するマリナの時価総額は今や七五〇億ドルを上回る。それを扱うための財布の紐に厳重なデジタルの鍵が掛けられているのだ。イヴァンを除く僕たちアークエンジェルの三人は、てっきり四分の三という設定のマルチシグが用いられているものと思っていた。四つの鍵のうち三つが揃って始めて該当のウォレットからマリナを取り出せる、という仕組みである。すなわち四大天使の多数決でそれを動かせる、とばかり。けれど実際は七分の四という設定でマルチシグが構築されていた。七つの鍵のうち四つを揃えなければウォレットの中からマリナは取り出せない。言わずもがな僕たち三人も一人一つずつの鍵を保有している。しかし残りの四つをイヴァンが一人で所有していた。あの男がプログラムの実装面を頑なに自ら一人で担い続けていた理由を垣間見た瞬間であった。
「あの小僧め、我々をまったく信用せず、実のところ一人ですべてを握っていたとは……」
 ダーヴィットが憤るのも無理はない。運営が保有しているマリナの量は現時点で全体の三〇パーセントにものぼる。ビットコインと比較すれば、その占有率の高さはあきらか。発行上限が二一〇〇万BTCと決まっているビットコインにおいて、最大保有量一一二万五一五〇BTCを誇るサトシナカモトを運営と見立てれば、その占有率は全体の五.三パーセントだ。マリナ運営のそれは約六倍にものぼる。しかし『幹部四人で鍵を分散して管理しており、個人が自由に扱えるわけではない』という主張により、これまで中央集権であるのではないかというアンチやホルダーからの批判を退けてきた。それがどうだ。実質イヴァン一人ですべてを握っていた、となれば詐欺もよいところである。
「あいつは簡単には鍵を渡さないだろう。しかし少なくとも一つは手に入れる必要がある。ここにいる三人のものとあわせ、四つ以上なければマリナは動かせないからな」
「この際だから少しばかり痛い目にあってもらう、というのもやむなしではあるが、しかし……」
 ダーヴィットの懸念は僕と同じだろう。問題はイヴァンが信念のために死を選ぶ人間であった場合である。そしておそらくその心配は的を射ている。あいつはいわゆる奇人だ。カナダに居を構える者がほとんど知らない日本という島国に一人入れ込み、マリナのプロモーションにたびたび日本のアニメキャラクターを取り入れようとしてくるなど、奇行に絶えない。セドナだかSINBNSIだか、日本のVチューバ―を宣伝に使おうと物凄い熱量で提案してきたこともある。あの時は止めるのに苦労したものだ。掴みどころなく、普段はふわふわしたところが多い。それでいてしかし、頑として主張を曲げない意思の強さを持っている。理想のために己の死をも厭わぬ可能性があるのは、おそらくああいう手合いだ。しかしだからといって鍵を隠し持たれたままま死ぬのを許しては、こちらとしては元も子もない。
「……さて、どうすべきでしょう?」
「どうするか、だって? レオ、それを考えるのはおまえの役目だろう?」
「小僧が殺される前までに、頼むぞ?」
「……ですよね。ええ、承知しています」
 これまた予想どおりの配役である。ポールやダーヴィットはその能力の高さが明らかである分、イヴァンからの警戒が強かろう。逆に侮られている僕こそが適任だ。年齢も、唯一、イヴァンより下であり、あいつがもっともラフに話せる相手という自覚もある。
「それじゃあ分担は決まりだな。言うまでもなく、この件は他言無用だ。以後、本件についてのやりとりはメッセージツールもシグナルに徹底するように」
「わかりました。シグナルもしくはこうして極秘裏に面着で、ですね? あと二ヶ月、もう時間もありません。二週間に一度はこうして顔をあわせ、僕らだけで情報共有をしませんか? ミートアップの準備とでもしておけば疑われることはまずないでしょうし?」
 知らぬところで寝返る人間が出ては困る。それはしかし他の二人も同じ気持ちだろう。となれば、それを己の願いとして言い出すのも年下の者の務めである。如何にオンラインコミュニケーションが一般化しようと、人の感情というものは、やはりアナログでなければ把握しにくい。いつかはそれを補うソリューションも生まれるのだろうけれど、それはまだ先の話だ。なにせこのMENSA所属の僕ですら見聞きしたことがないのだから。
「そうだな。定期的にうちの別荘に集まるとしよう。次はトロントか、もしくはサンダーベイの方でどうだ? リアルイベントの言い出しっぺなのだから、あの引きこもりの小僧も今回ばかりは姿をあらわすだろう。さて、楽しみだよ」
 極度の出不精のイヴァンである。逆にいえば、それまで外に出てこない可能性もあった。僕としてはどうにか心の扉をこじ開け、鍵情報を入手しなければいけない。時間的な猶予はない。タイムリミットはイベント当日、イヴァンが馬鹿げた発表をする前まで。それまでに鍵を奪い、あいつの口を塞がなければいけない。
「ああ、そうそう。今日はちょうど良い酒が手に入ってな?」
「ほう? それは楽しみだ」
 早々に祝杯をあげる二人を余所に高価な酒の味もわからぬほどに僕は思考の渦に落ちていった。如何にしてイヴァンを篭絡するか、シミュレーションが繰り返される。まるでゲームだ。しかし嫌いでないし、苦手でもない。あいつに見せてやる。見せつけてやる。メンタリストである、僕の本領を。天才が、捕食する側が、おまえだけでないということを。僕のこの卓越した知能指数にかけて。
 
「ない? ないだって?」
 嘘だろう。状況がわからない。イヴァン・ニーベンの死体は既に誰かに発見されてしまったのだろうか。そう思いたくない。しかし、そうとしか思えない。車に逃げ込み、しばし一人で頭を抱え、ようやく伸幸に電話することを思いつき、相談の結果、再び一八階のトイレへ。そうして今に至る。死体を捨てて逃げ出してからは一時間、いや一時間半が経っていた。九〇分なれば体感三六五倍の世界では五四〇時間、二〇日以上に相当する。とはいえ、それは比喩である。本当に一日が一年になるわけでなく、九〇分は九〇分だ。けれど、さりとて九〇分なのであろうか。誰かが掃除用具入れの死体を見つけるのに十分な時間のようでも、それにしては短かいようにも感じられる。なにかに惹きつけられるようにして洗面台の上の鏡を見た。俺が俺でないように見えた。ひと芝居打とうと息巻いて戻った五つ星ホテルの最上階のトイレ。そこで呆然と立ち尽くす俺が金で縁取られた大ぶりの鏡に映画のワンシーンよろしく映されている。
「……どうなってるんだよ?」
 ふと、不可解な点に気づく。警察が騒々しくしていない。それどころか誰もいない。さらには俺がこうして制限なくトイレに入れている。つまりはまだ事件は表沙汰になっていない。
 となれば、どうした状況なのだろうか?
 まさか死体が自分で逃げ出したわけはあるまい。あらためて掃除用具入れを覗いてみれば足元にあったはずの梯子がなくなっている。背中に冷たい汗が噴き出す。間違いなく誰かしらの出入りがある。記念すべき(といってなんとも中途半端な)セドナの十七周年を祝う、その楽しそうな賑わいが殊さら遠くなって聞こえた。地上一八階。結婚披露宴が開かれることもある五つ星ホテルの最上階。それを丸々貸し切ってのイベントは会場からしてセレブの社交場、そもそも俺のような人間が本来こられる場所ではない。イベント開始前の雰囲気だけで十二分に場違い感から距離を感じさせられたというのに、そこからまさかさらに遠く距離が開いてしまおうとは。
 掃除用具れの中のイヴァン・ニーベンが消えている。
 地下の駐車場から一八階に戻るには一階の玄関エントランスを抜け、上階行きのエレベーターに乗り換える必要があった。上階行きのエレベーターのホールは広く、間隔を開けて並ぶ四つの扉が向かい合い、合計八基もの昇降機が配されている。それがそのまま上へ持ち上がり、一八階のホールも同じ造りをしていた。我が家のリビングよりも広いそこは上階では行き止まりの側が一面のガラス張り。外を覗けば神様にでもなったような気分を味わえる。新幹線が走り、電車が行き交い、バスやタクシーが蟻のように齷齪働く様を、下界よろしく見下ろせる造りなのだ。逆側に高価そうなソファーやテーブルの配されたオープンスペースが広がり、壺や彫刻や像といった調度品が飾られる合間にいくつか見られる扉の中で、一番奥の両開きのそれだけが今日は左右に開け放たれていた。ここがイベント会場だ、とばかり。その脇を少し横に逸れ、コの字型の廊下を行けば突き当りにトイレの扉が見えてくる。背の側に階段があり、下の階も同様に階段を下りれば正面にトイレの扉があった。その下も、その下も同じだ。最上階とそこから下る一七階へ続く階段だけが赤く厚みのある絨毯が敷かれている。そのレッドカーペットよろしくの赤い道を進んで辿り着くぴかぴかのトイレで、その中で、俺は今、再び天を仰いでいる。無意識に認めた高い天井、それを切り取る四角形は、排気口、いや点検口だろうか。あそこへ辿り着くにはあるべき梯子がなければ不可能だろう。あるべき死体がなければ準備した言い訳が成り立たず、予定した場所へ辿り着けない今の俺と同様に。人生の終わり。そんな言葉が一瞬だけ脳裏をかすめた。すぐさまもう一人の俺が否定する。まだ決まったわけではない。事件はまだ明るみに出ていないのだから。思考がぐるぐると巡り、しょうもない小説となって頭の中に書き綴られていく。現実逃避していると自覚しつつも、そこから逃れられない不思議な感覚だ。
 目は見えている。
 音は少し遠い。
 身体は動かせなかった。
 視線すら自由にならなかった。
 思考すら俺は自由にできないのだろうか。
 まるで呪いかなにかにかけられたかのよう。やはり手を出すべきではなかったのだろう、仮想通貨なんて。いや、違う。やめるべきは恐喝だったのだ。未遂に終わったのに罪状だけ殺人にランクアップされようとは一体どんな万馬券なのか。
 ただただ家族を幸せにしたかったのに……。
 俺はどこで道を踏み外したのだろう。おそらくは最初からだ。SNSでミートアップの情報をキャッチした瞬間、真っ先に邪なことを、犯罪行為を思い浮かべてしまった時点で、この破滅の道は決定していたのだ。それなのに、どうにか滑りこめないかと頭を捻っていたところへ渡りに船とばかり、伸幸から代理出席をお願いされ、これはまさしく神のおぼしめし、と盛大に勘違いしてしまった。なんと愚かだったのか。今にして思えばわかる。本物の神ならば恐喝を助長するはずがない。つまりはそれほどまでに俺は追い詰められていたのだ。あるいは無意識にマリナホルダーの熱狂に、熱に、ニワカの俺まで浮かされていたのだろうか。思えばマリナ初の今回のイベントは、素人目に見てもわかるほど、開催前からどうにも異様な雰囲気だった。SNSでの異常なまでの盛り上がりは狂気と呼ぶに相応しく、さらにはその凄まじいまでの熱を各々がセレブの殻の内に無理矢理閉じ込めたかのごとき、このリアルの場での静寂は恐怖を覚えたほどであった。静かであって、静かでなかった。
 
『――マリナが日本でリアルイベントを開催する』
 二ヶ月前に発表されたそれはまさに青天の霹靂だった。参加条件も相まって世界中のクリプトインフルエンサーを震撼させた。その衝撃の大きさたるや最終的に界隈古参の有名匿名アカウントらに多々それを放棄させるほど。NFTをアイコンに使用したいからという理由のみならず、クリプト民は己の顔や素性を明らかにしない者が多い。特に『億り人』なれば誘拐などの犯罪を警戒するから当然だ。必然的に顔出し実名アカウントはプロジェクト推進者、いわゆる運営の人間に限られる。匿名が当たり前の世界。そんな仮想通貨界隈では議論や交流はもっぱらSNSやメタバースといったオンラインで行われてきた。ゆえに新型コロナの影響をほとんど受けない世界とも言われた。それにも関わらず、だ。今回の重大発表は『招待客のみを集めたリアルの場で行われる』と発表されたのだ。それも『原則、内容非公開』として。これが意味するところすなわち、招待客が情報を得ようと思ったなら、顔を晒し、実際のリアルの場に、海外勢からすれば日本という島国にまで足を伸ばさなければならない、ということ。報せは瞬く間に拡散され、それそのものがまずは一大ムーブメントとなって燃え広がった。
 言うまでもなくスマホなどの電子機器の持ち込みは禁止とも発表された。入口でボディチェックを行う、と。こうなると参加者から後ほど入手できる情報も曖昧なものとなる。スキャムと呼ばれる詐欺が横行する界隈なれば記憶や口頭などと言うエビデンスなき情報はもっぱら真偽不確かとなるからだ。どの参加者の、どの発信が真実なのか。そもそも公開NGのルールを破って発信している輩の言葉など信用できるのか。詐欺かもしれない。詐欺だろう。そうして疑心暗鬼となること請け合いである。だからこそ自らが参加できなかった伸幸は、信頼できる人間を、代理の人間を、俺を、ここへ送り込んでいるのだ。あの奇人が俺の言葉をそれほど信用できるとは意外だったけれど。俺だって嘘をつくかも知れないのに。あるいは伸幸からすれば今回の発表をそれほど重要と思っておらず、小説のネタになればという程度で俺を派遣したのかもしれない。他に友達が一人もいなかったという寂しい理由もあるのかもしれないけれど。
 初報でも十分に炎上した発表であったけれど、続報で殊更油を注がれようとは一体誰が予想したろう。参画条件はリアルの場に赴くだけでは事足りず、さらに追加で本人確認まで行うと告げられた。招待状こそ暗号資産ウォレットと連動されたSNSアカウントへ送られるものの、セキュリティを鑑みて会場入口で身分証明書の提示を必須とするというのである。つまりは単純に顔を晒すだけでなく、それがどのアカウントに紐づくかまで明らかにさせる、ということ。これにはさすがにアンチのみならずファンからも「非中央集権にあらず」と非難の声があがった。俺にはよくわからないけれど、ある側面においてブロックチェーンの思想に反してさえいるように感じられるそうなのだ。けれどマリナ運営は、イヴァン・ニーベンは、毅然とした態度を貫き、信念をもって断行すると宣言した。炎の中で宣言し続けた。
 やがてトップホルダーの数人が『条件を飲んで参加する。匿名を捨てる』と表明すると徐々に風向きが変わっていく。たったの一ヶ月、されど一ヶ月だ。ここでのそれは三六五ヶ月を指し、体感では三〇年以上に相当する。あれよあれよと『匿名、これすなわち悪なり』の風潮が逆構築され、そこからさらに一ヶ月間醸成されて、今に至る。計算されたかのように最初にしゃがみ込んだ分だけ飛びあがりの高さは高くなり、各々が自発的に宣伝しあい、マリナの応援ムードは最高潮に達した。そのうねり、熱狂は、推して知るべし。伸幸に言わせるとこれがDAOらしい。誰に指示されたわけでもなく、ホルダー各々が能動的にマリナの良さを発信し、マリナの価値をイベント当日までに最大限に高めようとアクションする。記念すべき初イベントのその日に時価総額を過去最高値に押し上げよう、と。自ずと効果的な発信をした者は称えられるようになり、誰からともなく投げ銭がなされるようになった。そうして報酬まで獲得できるムードまで発展すると、ホルダーはさらに競うようにして宣伝を行った。良い発信だったか否か、その評価を決定する主体はどこにもない。各々が各々に評価をし、各々に投げ銭やいいねボタンの押下といったアクションを行い、その積み重ねが評価となった。まさしく自律分散型の組織である。その様はもはや一個の生き物のよう。プログラムによる自動化云々、細かい部分で狭義の意味でのDAOとは異なるらしいけれど、それは非中央集権の組織として十分に機能していた。少なくとも我が期間限定の師、伸幸はそう言っていた。少しでもマリナを稼げれば儲けもの、と投げ銭獲得狙いで俺も積極的に宣伝に参加していたものだから、そのうち知らずと熱にあてられていてもおかしくはない。
 そうして無意識にのぼせた頭へ、今、盛大に冷や水をぶっかけられたのかもしれない。バブル世代が感じたバブル崩壊の瞬間とは、もしかしてこうした感じだったのだろうか。空虚、虚無、無力感。三流どころか見習い以下の、自称しているだけの小説家の俺には、とても今のこの感情は表現できない。イベント会場の盛り上がりとは打って変わって沈黙の満ちる寒々しいトイレ。何度見ても、どう見ても、さきほどまで己の隠れていた掃除用具入れにあるべきものがない。イヴァン・ニーベンの死体がない。再び天を仰げば、目にとまった点検口までの距離が、さっきまでよりも少し遠くなって感じられた。座り込んでしまったのだ、と遅れて気づく。その時である。隣の個室で妙な物音が聞こえたのは。
「……なん、だ?」
 誰かいる。想像した途端、身体が震える。いよいよ言い逃れできなくなるかもしれない。殺人犯にされる。その恐怖が全身を巡った。自暴自棄に陥る寸前、俺の精神を寸でで繋ぎとめてくれたのは次々浮かぶ家族の顔だ。勝手に危機に晒しておいて窮地に縋るとはまったくもって最低の父親である。それでも裕子や子どもたちを地獄へ道連れにはできない。その最後の意地だけは失うことなくまだ持てている。
 深呼吸。深呼吸。深呼吸。深呼吸。
 何度目かの後、座り込んだままのトイレで、顔をあげれば鏡を覗けるそこで、大きく息を吸い込んでいる己に気づく。滑稽さと情けなさで知らず笑えてくる。それで少しは固さが取れたらしい。なんとなし身体が軽くなり、ひょいと立ち上がることに成功する。発想を変えて考えてみれば、たとえば伸幸であれば、きっと「面白いネタかもしれない」と嬉々とする場面だ。なにより個室の戸は閉まっていないのである。考えてみれば誰かが中で用を足しているわけはない。よしんばそうであっても、それで俺に殺人の容疑がかけられるわけでもない。それでは一体なにが倒れたのだろう。
「……お邪魔、します」
 誰への断りなのかわからぬまま頭を下げてから中を覗く。半開きのそれをゆっくりと開く。そして絶句した。言葉を失した。デジャヴとはまさにこのことである。俺はまたしても関与してしまった殺人事件に、またしても大理石の床に尻もちをついた。
「……嘘、だろう?」
 体格の良い男が便器に顔を突っ込んでいた。一見して酒を飲みすぎて吐いているように見えなくもない。しかし俺の直感が叫ぶ。死んでいる、と。イヴァン・ニーベンの死体が消えたかと思えば、今度は隣の個室に別の男の死体があらわれる。これは一体どうした状況なのか。事実は小説より奇なり。気づけば俺はすべてを忘れ、伸幸へリコールしていた。なにを喋ったのかは覚えていない。どのようにスマホを操作したのかも。ただただ伸幸が耳元で騒がしかったのだけは覚えている。
「おい、大丈夫か? 大輔!」
 左耳のイヤフォンが殊さらうるさい。
「大輔! おい、大輔! 大輔!」
 まったく騒々しい男である。どうやらその悪友が俺の代わりに通報してくれたらしく、程なくして係の人が飛び込んできた。トイレから連れ出されるまでの空白は長いようにも短いようにも感じられ、時間間隔をまるで捉えられなかった。俺は人が来るまでの間、ただひたすらに動かぬ男の背を見つめた。己の成れの果てをそこへ投影して。穴が開いていないのに、俺はそこに、死体の背に、空き缶の口を見ていた。家に帰りたかった。なにもかもなかったことにして。ひたすらに家へ帰りたかった。

いいなと思ったら応援しよう!