仮想通貨と自律分散型殺人事件 第1話
ここのところ毎分が忙しい。吐く息の白さを忘れるほどに。師走を来月に控え、蟻のように齷齪と金策に奔走しているから、ではない。もちろんそれもあるのだけれど、それはもはや通常業務の範疇、想定内だ。想定の外の過負荷は三か月ほど前から身を置く、新しい世界に起因する。
「一日が一年に感じられる世界」
成長著しい界隈でよく耳にするフレーズだ。全力で走り続けなければ置いていかれてしまう。片時でも気を抜けば浦島太郎になってしまう。そうした感覚を表現した言葉。令和初期の今でいえば、とりわけブロックチェーンの世界を指そう。仮想通貨ないしは暗号通貨という言葉は誰しも一度は耳にしたことがあるはずだ。あるいは今は暗号資産と呼ぶべきか。もしくはNFTやVR、メタバースまでを引っくるめてWeb3.0と呼称すべきか。
ともあれ、ここは急速に変化する濃密な世界である。己の一日に比する周囲の時間経過が三六五日となる世界なれば、己の一時間は周囲の三六五時間に相当する。一分が三六五分となり、すなわち己が一分を無為に過ごす間に周りは六時間も先にいく。それほどの体感なのだ。そういった業界なのだ。俺が片足を踏み入れた、ここは。ゆえにおよそクリプト民と呼ばれるこの世界の住人はチャートからひとときも目を離さない。情報収集を一日も怠らない。計算高く、計画性に富み、慎重だ。そうあるのではなく、そうあらねば生存できない世界なのだ。つまりは、そう、俺は迂闊だったに違いない。だから、今、こうして死体を目の前にしているのだろう。
「イヴァン、どうかしましたか? 大丈夫ですか?」
俺が我に返ることができたのは扉の向こうの廊下から掛けられた声による。いつまでも三文小説の冒頭のような物語を思い浮かべては浸っていても状況は変わらない。現実逃避はここまでだ。俺の、この田中大輔の肩には、子ども三人と妻の人生が掛かっているのだから。
「イヴァン? イヴァン?」
冷静になれ。外の声に耳を塞ぎ、俺は己に言い聞かせる。まずは現状把握だ。ここは国内有数の五つ星ホテル、その最上階にある男子トイレの中だ。トイレに入る前に重たい扉があり、声はその外側から聞こえている。扉の内側はといえば、大理石の床に淡いクリーム色の壁。その空間はエントランスと見紛うまでに広く、個室が八つも並んでいた。豪華な造りで俺にはどうにも馴染みのない場所だ。
「イヴァン? まもなくオープニングイベントの時間ですが?」
大きく息を吸い込むなり手前の個室へ飛び込む。中で事切れる若い男を抱えて引きずり出し、間髪入れずに隣の掃除用具入れへ。続けて俺自身の身体も押し込んでいく。しかしここで想定外が起こる。掃除用具入れが予想以上に狭かった。流しの部分の張り出しが邪魔なのだ。しかもツイていないのはそこではない。幅いっぱいのシンクに放り込まれた緑色のホースが濡れている。どうにも間違いない。誰かが嘔吐し、それを片付けた直後だ。まさかこんな高級ホテルのトイレで大衆居酒屋よろしく粗相する輩がいようだなんて。無理矢理入った狭い空間に酸っぱい臭いが満ちている。まったく最悪だ。最悪極まりない。とはいえ、それでも不幸中の幸いであったのは掃除用具入れの中に物が少ないことだろう。流しの下にある空間に折畳式の梯子が一脚とバケツが二つあるだけ。ホウキやモップは収納されていない。これならば大人二人とはいえ、肩を組み、お腹をくの字に引っ込めれば、どうにか納まれなくはない。
「イヴァン? お腹の調子でも悪いんですか?」
まさしく危機一髪だった。直後、男子トイレの扉が開けられる。細身の見た目とは裏腹に思いのほか重たい傍らの死体を支えながら、俺は狭い空間に前傾気味に身を潜めた。心臓がうるさい。脈動が痛い。悪臭が不快でならない。しかしいずれの理由があろうとも呼吸を荒げるわけにはいかない。音を殺さなければ。後ろ手に閉めた掃除用具入れの戸を挟んで、そのすぐ向こうに、今、誰かがいる。
「イヴァン? あれ?」
声の主は死体と同じく日本人ではなかった。左耳の翻訳イヤフォンから流れてくる日本語とは別に、ネイティブな英語が右の耳から聞こえてくる。おそらく脇に抱えるイヴァン・ニーベンの付き添いとして来日した者だろう。
「あれ、イヴァン? いますよね?」
一八階のトイレは奥から入口へ向かい、左手に個室が一列に並んでいる。向かいには同じ数の小便器が半透明の仕切りを挟んで配されていた。一番手前の個室、そのさらに手前に幅の狭い掃除用具入れがあり、そこからさらに入口までベビーカーを二つ三つ置けそうなゆとりある空間が広がっている。その対面側、入口すぐの右手側は大きな鏡の広々とした手洗いだ。金細工が施された装飾はまるで王宮のよう。大理石を鳴らす靴音が高い天井に跳ね、その手洗いの前を抜けてくる。イヴァンを探す男が俺の背に差し迫る。瞬間、総毛立ち、身体が強張るのがわかった。まるで時が止まったかのように感じた一瞬だったけれど、幸い靴音は止まることなく奥へ。どれくらいじっとしていればよいだろうか。普段とはまるきり逆だった。周りの一分が自分にだけ六時間にも七時間にも感じられる。早くどこかへ行ってくれ。叫びたい衝動に駆られるも理性でそれを抑えつける。やがて靴音が引き返してきて俺の背後でぴたりと止まった。
……えっ? まさか、戸を、開けるつもりなのか?
不意に訪れた冷たい静寂に全身が粟立つ。首筋をちりちりとした恐怖が襲ってくる。そのうえ死体を抱える腕がもはや限界を迎えていた。これ以上はもう耐えられない。もう支えられない。そう思った瞬間である。
「もしもし。はい。ええ、今、トイレです。ええ、はい。でも、いませんよ? いるはず? いや、いません」
男が誰かと会話をはじめた。俺のすぐ背中で。
「このタイミングだから私以外は誰もいませんし、鍵のかかってる個室もありません。ええ、そうです。はい。はい。逃げた? どうでしょう、わかりません。はい。はい。了解です。もう一九時になりますし、ひとまずそちらに戻ります」
無意識に後頭部で戸を叩いたのは男がトイレを出た直後である。
「助かった」
安堵するのも束の間、足元で金物の音が鳴る。ポケットから滑り落ちたのか、イヴァン・ニーベンのスマートフォンが金ダライよろしくの足元のバケツの中に落ちている。血の気の引く思いがした。急いで拾い上げようとするも無理矢理おさまった空間である。狭くてとても屈めない。そこへ運悪く、着信音が鳴り出してしまう。心臓が飛び跳ねる。もしや先ほどの男がイヴァンへ電話をかけたのかもしれない。
早く音を止めなければ!?
半身になって片手を伸ばせば俺の身体に押し退けられたイヴァンが立ちどころに後ろに倒れ、掃除用具入れの戸を開けてしまいそうになる。すぐさま死体の胸倉を掴んで引き起こし、吐瀉物の臭いを放つシンクの中、とぐろを巻くホースの上へ倒し込む。スマホが鳴り続けている。汗が吹き出す。息が止まりそうだ。
ふと眼前のホースで思いつき、勢いそのまま蛇口を捻った。水の出る先端をそれから探し、掴み、バケツへ向ける。ある意味でバケツの中に落ちてくれたのは僥倖だった。程なくしてSOSを叫ぶスマホは完全に水没し、音も一緒にバケツの底に沈んで消える。
「……止まった」
肩で息をしていた。汗なのか、水道の水なのか、ともかく濡れている。震えが止まらない。寒くもあり暑くもある。傍らの死体をどうしてよいのか見当もつかなかった。さっきの男が物音を怪しみ、戻ってきやしないか。トイレの扉が今にも開けられないだろうか。不安と恐怖で狭い掃除用具入れがいっぱいだ。俺は神様に縋る思いでひたすらに音を殺し続けた。そのままどれくらい籠もったろう。一分か、二分か。体感ではもう何時間も、何日も。しかしイヴァン・ニーベンを探しに新たに人がやってくることはなかった。さらにしばらくじっと留まる。怖くてただ身動きが取れないだけでもあった。
開けた戸の向こうに、誰かが待っていたならば?
飛び出した瞬間、偶然、誰かと鉢合わせたならば?
考えると身が竦み、一歩も動けなくなる。とはいえ、このままずっとトイレに隠れてはいられないことは誰より自分がわかっている。あらためてイヴァンの死体を前に折り、シンクに倒れ込むような姿勢で引っ掛け、支えなくてよいようバランスを整える。勇気を出そうと深呼吸を三回した。異臭が鼻を突き、たちまち嘔吐しそうになった。折れそうになる心を奮い立たせ、内心で「せえの」と唱える。いよいよ思い切って背中で戸を押し開けた。
よし! 誰もいない。誰も!
安堵で腰が抜けかけた。空耳か、幻聴か。遠くに明るく拍手や口笛が鳴って聞こえる。俺も俺自身を拍手喝采してやりたい気分だった。そんな風に思っていると、間を置かずして、今度は明確に軽快な音楽が聞こえ出した。どうやらイベントが始まったらしい。たちまち現実に引き戻される。
今しかない! 今しか!
俺の足は考えるより先に動いていた。イヴァンの死体を残したまま、重たいトイレの扉を体当たりするようにして肩で押し開ける。ひと際大きくなる会場の盛り上がりを他所に、俺はただ一人、それに背を向ける。階段を駆け下りる。人影はまるきりなかった。今のうちに下へ。止まらずに下へ。エレベーターを使わず、いくつもの階を下っていく。まるで避難訓練だ。いよいよ足が限界になったところで何階かもわからぬまま別の階のトイレへ飛び込む。個室に駆け込み、蓋を降ろしたままの便座に腰を降ろす。暗闇の中で呼吸を整える。一つ、二つ、三つ。大きく息をついて目蓋を持ち上げれば、ひさびさに着たスーツの袖は想像よりも派手に濡れ、色が変わっていた。靴も濡れている。ワイシャツに至ってはもうびしょびしょだ。自分の膝を押すようにして上体を支え起こし、背広の内ポケットをチェックする。
左のポケットに、スタンガン。
右のポケットに、バタフライナイフ。
夢ではない。これが現実だ。四角く区切られた男子トイレの天上を仰ぐと、自然と涙が頬を伝って落ちてくる。
「これじゃあどう転んでもやっていけないわ……」
妻の、裕子の、嘆きにも諦めにも似た訴えが脈絡なく蘇る。
「私が働けるようになると、だいぶ違ってくるんだけどね」
「……って言っても陽希はまだしも陽翔は来年ようやく幼稚園だし、陽葵なんてまだ一歳だぞ? あと二年……いや、三年は難しいだろ? 現実的に?」
子どもたちの怒涛の寝かしつけ三連発が終わってからの大人の時間は、ここのところ夫婦で答えのでない議論にあてることが増えている。どちらも望んでしてはいない。どちらも無意味で、けっきょく結論なんて出ないことを知っている。しかし、それをせずにいられないのだ。どちらも。俺からか、裕子からか、毎晩、酒が並べられた。気持ち程度の乾きものと一緒に。こんなことをしている場合でないことは互いにわかっている。それでも、ただひたすらに不安で、不安で、居ても立っても居られない。疲労困憊の毎日ながら夜にまったく眠れない。
リビングも、その先も、不要な電気はすべて消してあった。ダイニングの照明も明るさを一段階落としている。暖房も子どもたちが眠った後は二十度に設定し直した。しかしそれとは無関係に、続く未来が果てしなく暗く冷たく感じられた。ひと筋の光明も見えず、無理して買った四LDKのマイホームもいつ手放さなければいけないか知れない。裕子も俺も肘をつき、ため息をつき、目をこすり、酒を煽った。今ではもう缶のまま。同じことの繰り返しで口数も減ってきているうえ、どちらかが口を開けば、その時点で、返しも、さらなる返しも、その先のゴール、会話の終わりまで、すべての流れがわかってしまった。楽しい時間のはずがなかった。
「貯金がもうなくなってきていて、自転車操業もそろそろ本当に限界なの。陽希と陽翔、スイミングか、英語か、やっぱりどちらかは辞めさせないと……」
「せっかく始めたんだろ? もう友だちだって出来ているんだし。教育ローンのほうは?」
「まだ追加で少し借りられると思うけど、借りたら借りたで月々の返済ができないよ? 借りた分の一部を先食いして返済にあてる形になっちゃう」
「ひとまず目先はそれで凌ぐしかないって。借りられるだけ借りて、共働きできるようになったら返していこう。俺も小遣いをもっと減らすからさ」
男、男、女。子ども三人。さらに夫婦二人。食費に、洋服代に、消耗品、水道光熱費も馬鹿にならず、なにより教育費が家計を圧迫していた。知育玩具にしろ、習い事にしろ、他の子より多くの機会を、他の子より良いもので。そう考えるのは親として当然の心理だろう。しかし現実は他の子以上どころか、人並みにあわせることすら楽ではない。なにが異次元の少子化対策を実施する、だ。国がろくな対策をしてくれないから、しわ寄せがすべて子育て世帯の親にのしかかってきている。偉そうに減らすといった俺の小遣いだって、もう既に月五千円だ。ここから捻出できる額にも限りがある。裕子はといえば、俺より十歳若く、まだまだ着飾りたくもあるはずなのに俺以上に倹約の毎日を送っている。
「宝くじ、当たらないかな? これだけ頑張ってるんだし?」
「無理だろ、そんなの……」
「じゃあ株とか、そういう投資系は? 大輔、数字に強いでしょ?」
「俺もめちゃくちゃ考えたんだけど、ああいうのって元手の金が百万はないと意味がないんだよ。頑張って一万を十倍にしてもたかだか十万だからさ。そりゃあないより助かるけど、焼け石に水だろ?」
「じゃあ、なんだっけ? あの……あれは? あれ?」
「仮想通貨とか、NFTとか? それこそ難しいよ。やったことないしさ」
毎夜毎夜、答えは出ない。俺も今年で四〇歳。二回目の成人式を迎える年だ。いや、先日、成年年齢が一八歳に引き下げられたから、成人式から二十歳の集いに名称が改められたのだったっけ。ともかく会社員生活も新卒あがりの勤続一八年目ともなれば、すっかり先も見えている。先輩たちを見る限り、ここからの激的な給与向上は望めない。かといって転職できるだけの、スキルも、自信も、若さもない。それどころか、ここのところは収入が下がらないだけマシといった不景気続きだ。日本の政治家は一体なにをしているのか。
「宝くじ、本当に……当たってほしいよな。一億と言わず五百万でも全然違うんだけど」
味のしない酒を飲むだけの不毛な時間が過ぎていく。ろくな慰めともならず、時間的にも、体力的にも、金銭的にも、電気代以上にひたすらの浪費だ。どうひっくり返しても悪習でしかなく、それを断ち切ろうという気持ちを奮い立たせられないだけともわかっている。そう簡単に答えの見つけられる問題ではないのだから。毎夜考えたところで、なにかが変わるわけでもない。それでも、だ。ため息でしか終われない日々が続くのは精神的に堪える。なんとかしたかったし、なんとかなるべきだと思う。仕事に、子育てに、真面目に二人で頑張っているのだから。
「……ちょっと、大輔?」
どうも落ちるところまで落ちると、俺は空になった缶の底が気になるらしい。そこに無意識に光を見い出そうとしているのか、あるいは暗い闇に魅せられているのか。ここのところ裕子に「貧乏くさいからやめなよ」と注意されることが増えている。それをすることで、とりわけ安心できるわけではない。したいわけでもない。それどころか、いつしか空き缶を覗くことで、底の向こうの向こうから如何ともし難い怒りが沸いてくるようにさえなっている。それでもやめられないのは、やっているという自覚がまったくないからだ。
「…大輔? だいじょうぶ? 目が怖いよ?」
「んっ? ああっ、ごめん」
日本はどう考えたって老害を切り捨てるべきだった。特にバブル世代、その時代に甘い汁を啜ったくせに今ものうのうと生きている奴らを俺は許せない。今のジジババからは年金を取り上げるだけでは足りない。還暦を過ぎた時点で、いっそ問答無用に安楽死させるべきなのだ。集団自決でもいい。それを五年も続ければ、いや何年も何回もと言わず、たったの一度だけでもそれを実行できれば、状況は随分と好転するはずだ。平均年齢が一度は六〇歳以下となるのだから。人口バランスがある一定崩れ、少子高齢化と認められるたび、六〇歳ないしは六五歳以上を切り捨てるシステムならばどうか。己らが姥捨てられないために高齢者も本気で少子化対策に協力するのではないか。異次元の対策とまで言うのなら、政治家はもっと大胆に世の中を変えてほしい。俺の人生が一変するくらい、激的に。
「今日はもう寝ようか? 考えていてもきりがないから」
裕子の分の缶まで持ってシンクへ向かうとキッチンの縁に陽希の育てるカネノナルキが目に入る。その緑が空き缶に引き込まれそうになる俺をいつも寸でで引き留めてくれる。明日からも頑張らなければいけない。踏み留まらなければいけない。家族のために、なんとしても。もしも俺が、今、一人身であったならば。そう想像するだけで恐ろしい。
「仮想通貨、か……」
「大輔? なにか言った?」
「いや、なんでもない」
その時は既に一人の男の顔が俺の脳裏に浮かんでいた。
「不味いことになった」
「大輔? 今、どこだよ?」
「車の中だ……」
電話の向こうの田中伸幸とはじめて出会ったのは中学校だ。名字が同じでも親類ではなく、遠い先祖まで遡ったのなら別として、現代基準で俺たちに血縁関係はない。しかし三年時にクラスメイトになると、五十音で並ぶ出席番号が続きとなることから教室の座席が前後となり、級友からは半ば兄弟のような扱いを受けた。俺が前で、伸幸が後ろ。だから俺が兄で、伸幸が弟。それゆえの気まずさから、高校も、大学も、俺たちは別々の道へ進んだ。けれども俺と伸幸は周囲の目さえなければ、なぜだか不思議と馬が合った。社会人となってからは一気に仲が深まり、俺に子どもが生まれるまでは頻繁に飲みにいった数少ない友達である。三ヶ月前からは仮想通貨に関して師事したことで、今では当時とは逆、伸幸が兄貴分のようになっている。
「車? 今日はけっきょくミートアップには行かなかったのか?」
「……いや、違う。ロイヤルクラウンホテルの駐車場だ」
「んっ? それってどういう状況だよ?」
「思わず飛び出して、それで……」
「あっ? やっぱりぃ――」
っと、そこで伸幸が最後の「り」を引き伸ばし、次までの間をぎゅうっと溜める。その時点で電話の向こうの悪友がなにをしたいのかが察せられる。美少女系Vチューバーをしている伸幸にかかれば、ボイスチェンジャーで声を変えるのなんてお手のもの。ふざけるタイミングでそれを差し挟んでくるのが常なのだ。
「――バレちった?」
可愛らしい女の子の声、しかし紛うことなき四〇歳のおっさんの、それである。『中の人』の顔が知れているだけに俺からすれば気持ち悪さしか感じられない。一度だけ、アバターというのか、伸幸の着るセドナとかいう人魚姫、三頭身の美少女キャラを見せられたことがあるけれど、その感想は変わらない。新聞紙に載ったとかなんとか言うライバルVチューバ―を見せられたこともあったけれど、感想は右に同じ。それらの良さを熱弁されればされるほど、心が動くどころか、むしろどんどん冷えていったのを覚えている。
「……伸幸、ふざけてる場合じゃないんだ。マジでヤバいんだよ」
「なんだ? なにを怒ってるんだよ? どうしたって? ちょっと『面白そう』な状況じゃないか? 大輔ちゃん、緑のステップワゴンの中から実況中継よろしく」
反射で舌打ちが出る。人の気も知らず嬉々とする言動を前にして。しかし隠れて伸幸を利用しようとしたのは俺であり引け目もある。なによりこの悪友は己が安全圏にいて他者が窮地に陥っているから楽しそうにしている、というわけではないことを俺は知っている。むしろ逆だ。逆なのだ。常に自分がトラブルの真っ只中にいたい。中心にいたい。そう考える根っからのスリルジャンキーこそ田中伸幸だ。いっそこの状況を代わってもらいたいくらいであるし、伸幸は伸幸で代わりたいと思うはずなのである。
「っても、とりあえず、大輔、まずは深呼吸しろよ。まったくなにをそんなに切羽詰まった声を出してんだよ? 一瞬、ボイチェンで声を変えてるのかと思ったぞ?」
「おまえじゃあるまいし、そんなことするわけないだろう……」
それでも言われるがまま深呼吸をする。服に残ってしまった吐瀉物の臭いが微かに鼻を突いてくる。不快さに現実に引き戻されると、左手がまるで凍ったようにハンドルにくっついているのに気づく。ずっと握りしめていたからだろう。硬く。強く。伸幸へ電話しようと悩んでいる間、ずっと。ようやく決心のついたのが、ついさっき。不意に身震いが起こり、全身に悪寒めいた冷たさが走る。身体が芯まで冷えていた。肺に入ってくる空気が冷たい。吐く息も白い。あらためて己が駐車場にいることを実感する。車中にいると頭ではわかってはいたのに心で理解できていなかった。そんな状態だった。身体を丸めて小さくなる。自由になった左手でスーツの前をかきあわせ、体温が逃げないよう閉じ込める。唇が乾いていた。いつからなのか喉も乾いて引き攣れている。スマホを一度助手席に放り、車内に置き忘れたペットボトルの烏龍茶に手を伸ばす。ホットを買ったのだけれど、すっかり冷めて常温になっていた。それでも冷たくないだけマシであった。ひと口、ふた口。温度の感じられない液体が喉をするりと落ちていく。
「少しは落ち着いたか?」
「ああ、なんとか……」
目を上げればフロントガラスの向こうに地下特有の闇が続いていた。照明の届かぬ先は空き缶の穴から覗ける底の底のよう。冬の空に広がる、夜とは種類の異なる、気の滅入るような深い闇。無性に怒りがこみ上げてくる。沸々と。どうして俺がこんな目にあわなければいけないのか。
「それで駐車場には、今、他に人はいるか?」
高級車がずらりと並んでいる。さすがは都内有数、国内有数の五つ星ホテルである。ファミリーカーどころか目に見える範囲の国産車は俺の乗る一台しかない。すべての車に傷をつけてやりたい。そんな衝動に駆られる。一体どんな人間が、ああいった馬鹿げた車に乗っているのか。バブル世代の奴らであったなら到底許せない。
「おい、大輔?」
「……ああ、悪い」
もう一度睨みつけるように見渡す。注意深く。しかし人の気配はなかった。後ろを覗いても同じだ。どうやら駐車場には誰もいない。車の時計がもうすぐ二〇時半に差し掛かろうとしていた。メインイベントまであと三〇分である。ふと車内後方の、二列目に横並ぶジュニアシートとチャイルドシートが目に留まる。たちまち胸が早鐘を打つ。そこにない陽翔と陽葵の顔が、その後ろの三列目にあるはずの陽希の顔が浮かんできた。俺はこんなところで終わるわけにはいかない。子どもたちのために、なんとしても。
「大輔? どうした?」
「……いや、なんでもない。いないよ。駐車場には誰もいない」
「そうか。それで? どんな面白いことになってるんだ?」
「面白くもなんともねえよ。下手すりゃあ俺は殺人犯だ。そうなったら悪いけど、おまえも共犯ってことになるかもしれない」
「はっ!? なんだよそれ? 代わりにミートアップに行っただけで、なんでそんなネタを拾ってこられるんだよ! ずるいぞ!」
「どこにキレてんだよ、おまえは! マジでふざけてる場合じゃないんだって!」
この伸幸は兼業の小説家だ。システムエンジニアをする傍ら、ブロックチェーンを触り、そして小説を書いている。趣味が高じてNFTを題材とした作品で小さな賞を獲ったらしく、今も会社員をしながら細々と執筆をしては小銭を稼いでいるらしい。中学の頃に互いの作品を読みあった仲としては羨ましも妬ましくもある。それならばとばかり、この二年前からは俺も裕子に内緒で再び小説に挑戦している。もちろん金策の一つとしての、賞金狙いだ。けれどあれこれの賞に応募をするも鳴かず飛ばず。伸幸のような受賞どころか一次選考を通ることすら稀、正直どんどん筆が重くなってきている。わかってはいる。才能がないのだ。俺には電話の向こうの変人のように降りかかるトラブルすべてをネタとして解釈できる図太いメンタルはない。それを楽しめるような異常さも。
「っで、殺したのか? 事故ってやつか?」
「殺してねえよ! けど……」
「けど?」
「あれじゃあ俺が犯人と疑われても言い訳はできない……」
「あれじゃあって、どれじゃあ?」
かいつまんで説明をする。
伸幸の代わりに田中伸幸と偽って仮想通貨マリナのミートアップに参加すると、そこはさながらセレブのパーティー会場だった。極めて居心地が悪く、弾き出されるように外へ。しばらく廊下をうろうろし、それからトイレへと向かうと――
「わかった。そいつが犯人だ。そのおまえと入れ替わりになったって清掃員が。わかる。名探偵の俺様にはわかるぞ。間違いない」
「……黙って最後まで話を聞けよ。本当にヤバいんだって」
言われてみれば、たしかに俺と入れ替わるようにしてトイレから出てきた清掃員はおかしな男だった。ヘッドフォンから音漏れさせながらノリノリの小躍りで、いやに目をひいた。しかし問題はそこではない。そんなことはどうでもよい些事だ。
「一人だった? 中で、大輔が? 別に普通じゃないか? 誰かと連れション……じゃないか、この場合は? 待ち合わせション? しにいったわけじゃないんだろ?」
「先に入っていった奴がいたはずなんだよ。あの変な清掃員じゃなく、別の奴で」
「なんでわかるんだよ? ああ、ボッチの大輔くんは会場に入らず廊下をうろうろしてたから、それでわかったってことか?」
曖昧に肯定する。実際には少し違う。伸幸に本当のことは言えなかった。俺は狙っていたのだ。あの男、イヴァン・ニーベンを。だからイヴァンがトイレに入っていったところをしっかりと見ている。最後の最後で迷いが生じ、追いかけるまでに少しの間は生じさせてしまったけれど、しかしイヴァンが中から出てきていないことは把握していた。間違いなかった。
「それなのにトイレの中は俺一人だったんだ。それで妙に気になってさ」
「いや、ただウンコしてただけだろ?」
「個室の戸は全部開いていたんだよ。それくらい確認してるに決まってるだろ!」
しかしトイレの中に俺以外の人影が、イヴァンの姿が見られなかった。よくよく見回してみれば掃除用具入れの隣の個室に違和感がある。開いた戸が少し揺れている。
「霊とか異能力? そういう系?」
「アニメじゃなくて現実の話だって」
「わかってるって。そう怒るな。それで?」
「……なんとなく中を覗いてみたんだ」
「幽霊とご対面?」
「ああ、ある意味では」
そこに死体があったのだ。洋式トイレで用を足すようにして、しかしパンツを下してもいない若い男の死体が。そう、イヴァン・ニーベンの、それが。
「はっ? 嘘だろ?」
「嘘だったら、今、おまえに電話していないよ」
「そんなことが……それで、あの感じ、だったのか……嘘だろ? マジかよ?」
伸幸がぶつぶつとつぶやく。信じられないのも無理はない。誰より俺がこの状況を信じられていないのだから。
「血まみれの、とかそういうのか?」
「ざっと見回して外傷はなさそうだった。血を吐いてもいなかった」
思い返して見ても個室の中は綺麗なものだった。眠っている、と錯覚せんばかりに。そこへ動かない男を探しに例の別の男がやってきたのだ。
「まあ、となれば病気かなにかだろ? 心筋梗塞……的な? とりあえず人が来てくれてよかったじゃないか? そいつとあれこれ話をしたんだろ? 一人より誰かがいてくれた方が心強いもんな?」
「……咄嗟に隠れちまったんだ」
「はっ?」
トイレの中で死体と二人きり。さらに俺のスーツの背広には恐喝のために用意した凶器がある。イヴァン・ニーベンを脅すための、スタンガンとバタフライナイフが。見つかればただで済まない。直感がそう叫んだ。犯人ではない、と身の潔白を晴らせる自信がとてもなかった。けれど伸幸にそこは話せない。核心部分を伏せたまま、どうにか無理矢理、後を続ける。思わず掃除用具入れに逃げ込んでしまったこと。それも死体を抱えて。さらには男のスマホが鳴ったことに狼狽え、水没させるなり逃げ出してきてしまったこと。ついでに俺自身まったく状況を理解できないでいること。
「ええっと……シンプルに、おまえ、アホか?」
「うるせえ。わかってるよ!」
「人が死んでたなら誰かを呼べよ? 係の人とか、警察とか。なんでおまえが殺人犯みたいに隠れるんだよ? よっぽどアホな設定の創作キャラでもそんなことしないぞ?」
「……ちょっとした事情があったんだよ。なにもなくてこれだったら、それこそご都合主義のアホキャラじゃないか」
「ああ、なにかしら理由はあるのな? よかった。なにもなかったら小説のネタに出来ないところだ。あまりにありえない展開すぎて、現実なのに逆にリアリティがなさすぎる」
「……小説のネタ探しもいいけど、本当に遊んでる場合じゃないんだ。どうすればよいと思う? 考えるのを手伝ってくれよ。おまえだって共犯にされちゃあ困るだろ? いいか? 俺はおまえの代理として出席してるだぞ? それも不正に、おまえと偽ってだ」
「安い脅迫だな。大輔、おまえ、そういうの向いてないよ? 俺は独身だし、塀の向こうってのも興味あったりするしな」
「おい、伸幸っ!?」
「冗談だよ。まあ、おまえのことはどうでもいいけど、裕子ちゃんや陽希たちがいるからな。ちょっとは本気で考えてやるよ」
「……悪い。助かる」
「良い案が出せるかはわからないぞ?」
重々わかっている。それでも藁にも縋る思いだ。思考を放棄したい、というのもあった。誰かに考えてほしかった。自分以外の、誰かに。
「まっ、それでも冷静に考えられなさそうな今の大輔よりはマシだろうけど。その点では僕に相談してきたことだけは誉めてやるよ」
言うなり伸幸が思案に耽る。俺はただ黙ってそれを待つ。自分でも考えている風を装いながら完全に他力本願だった。頭がまったく働いていない。
「よし。それじゃあ大輔、おまえ、まずは現場に戻れ。そこからだ」
「はっ? なんだって?」
「どのみち監視カメラに映ってるんだろ? 挙動不審なおまえが? 下手に逃げたって余計に怪しまれるだけじゃないか」
「……それは、そうか」
まったく気にしていなかった。気づいていなかった。言われてみればそのとおりである。俺の不審な様子があちこちで捉えられているに違いない。たちまち鳥肌が立つ。
「おまえ、本当に殺してないんだよな?」
「誓って……殺してない」
「よし。それじゃあ――」
伸幸の描いた筋書きはこうだ。
俺がトイレに行くと妙な気配を感じた。個室を覗けば酔いつぶれたのか男が一人眠っている。
ここまでは、おおむね事実だ。
慌わてて駆け寄り、声をかけるも反応がない。そこでふと男のポケットから飛び出している財布が目についた。悪いこととは思いつつ、魔が差し、出来心でそれを盗ってしまう。そして何枚かお札を抜いて残りを戻そうとしたとき、はたと気づく。男が息をしていないことに。たちまち我に返って動揺したところへタイミング悪く外から声が聞こえてきてしまった。俺は動揺そのまま掃除用具入れに身を隠した。何を思ったのか、男の死体も一緒に抱えて。
「今にして思えば……自分が殺したと勘違いされかねない、と思っての行動だったのかもしれません。無意識に……」
容疑者役、すなわち俺のつもりなのだろう。伸幸がボイスチェンジャーで声を変え、その役を演じてみせる。
「――とかとかさ。どうよ? そんな感じで逆に自分から警察に相談に行くってのは?」
なるほど、不自然さをあえて活かすのか。それならば一応は筋道がつけられる。監視カメラに挙動不審な様が映っていてもおかしくない。さすがは受賞歴のある小説家、即興にしては説得力のあるシナリオだ。
「伸幸のほうの理由、とかなんとか? そのあたりとの兼ね合いに問題がないんだったら、こいつをベースに応用してみろよ? 僕が思いつける、今、一番マシな展開だから」
「わかった。でも……」
「なんだ? ヤバいとこあったか?」
「いや、流れに問題はないんだけど、その、なんというか……それって聴取される前提だろ? 警察に? 俺は第一発見者なうえ、カメラに怪しげな行動が捉えられているんだから。下手したら取り調べに近いかたちで尋問されることになるかもしれない。そうなったら、おまえの代わりに不正にミートアップに出席していることを隠し通せる自信が……」
「なんだ、そんなことか? 気にするな。それは場合によって正直に話してくれていい。殺人の共犯にされるよりは遥かにマシだから」
「すまん……」
「そんなことより死体が財布を持ってなかったら、とかさ。そういう心配をしろよ、おまえは」
「あっ、そうか。そうなったら、ヤバいな」
「アホか。ヤバいなじゃねえ。そん時は自分の財布を相手の財布に見せかけるとか、財布じゃなくてスマホを取ろうとしたことにするとか、ケースバイケースでなんとかしろよ。まったく……」
「なるほど。そうか。わかった」
持つべき者は友である。俺はひと芝居打つ覚悟を決め、スタンガンとナイフを車のダッシュボードに隠した。やましい点あれど、実際、殺してはいないのだ。それをそのまま主張するしかない。願わくばイヴァン・ニーベンが財布を持っていてくれること。そうすれば手っ取り早い。
「あっ、そうだ。大輔、最後に一ついいか? 死んでた男って、どんなやつだったんだ?」
「イヴァン・ニーベンだ」
「はあっ!? マジかよ!」
「ああ、間違いない」
「間違いない、じゃねぇよ! マリナの創設者じゃねかよ!?」
どうやらファンだったらしい。伸幸が一気呵成に捲し立ててくる。死体の男が凡人でなく、凄い人間であったことは俺にだってわかっている。だからこそ恐喝の相手に選んだのだから。まさか伸幸がここまで入れ込んでいる相手とは予想外だったけれど。
「……もういいか?」
「もういいか、じゃねえよ。大輔、おまえ、状況、本当にわかってるのか? 今日のイベントの主役だぞ、イヴァンは?」
「ああ、わかってる。たぶん、な」
「たぶん、かよ!」
ここ三ヶ月で俺もニワカと自称できるくらいには界隈のことを勉強している。伸幸に勧められ、お試しにと最初に購入したのが仮想通貨『マリナ』だ。まずは三千円分だけ。それから千円ずつビットコインとイーサリアムも買っている。この世界に足を踏み入れると決めた時に伸幸から嫌と言うほど聞かされたものだ。
『――マリナってのはプロジェクトの名前で、そのまま仮想通貨の名前でもあるんだ。パブリックなブロックチェーンを使い、分散型アプリのハブになることを目指しているプロジェクトでさ。イーサリアムのスマートコントラクトを実装することもできる優れものなんだぜ?』
あれやこれや専門用語を並べて熱弁されるも俺には熱狂的な信者が多いというマリナプロジェクトの意義や凄さはいまいち理解できなかった。多少の知識は増えたものの、今なお仮想通貨の一つの種類といったくらいの認識でしかない。しかしそんな俺ですら肌で感じていることがある。マリナは今後の値上がりの期待値が界隈でもっとも高い。既に億り人を何人も輩出している銘柄だ。ここからは初期段階ほどの急上昇は望めない。けれどもホワイトペーパーにはまだまだアップデートの予定が何年にも渡って組まれているし、サプライズ的に計画外の機能追加が多いことでも人気の通貨だ。マリナ購入者、マリナホルダーを飽きさせないような工夫が随所に凝らされているプロジェクトなのだ。コンスタントに右肩上がり。それが確実に約束されている。そう確信できる唯一の仮想通貨だった。界隈の情報を意識し出すとわかってくる。その名を目にしない日が一日だってない、ということが。
ビットコイン、イーサリアム、マリナ。
いよいよ現れた界隈不動のナンバースリー。
これによって遂にWeb3.0が実現される。
もっぱら信者らはそう噂している。俺にはWeb3.0がなんなのかはよくわからない。DAOというものがなんなのかもさっぱりだ。ともあれ金になる、という一点だけは理解している。俺にとって重要なのは、その点のみだ。事実、創設者は今や億り人中の億り人として世界有数の金持ちに名を連ねている。あるいは既に死体となってしまった今、名を連ねていたと過去形にするべきか。
「冗談だよな? なあ? どっきり?」
「……だと、よかったんだけどな」
「よかったんだけどな、じゃねえよ! いいか? イヴァンはな、一二歳でマリナのプロトタイプを開発したんだぞ? それも一人で! 構想から学術的な整理、実装まですべて一人で! いわばヴィタリクとギャビンを足したような、あのサトシナカモトを上回るとさえ言われる大天才なんだ。なにより親日家で、日本のアニメをこよなく愛してくれていて、だな?」
「……ああ、そこだけは強烈にわかったよ」
一時間か二時間前の記憶に鮮明に焼きついている。セレブのパーティーさながらの仮想通貨イベント、マリナミートアップ。海外ではそれが当たり前なのか、見栄えのするタキシードやドレスで着飾るハリウッド俳優さながらの出で立ちの外国人ホルダーたち。安物のビジネススーツで来た俺は完全に浮いていた。そんな中にあってTシャツ一枚というなんとも寒そうな服装をした痩せた若者はどうにも異質だった。まだしもスーツである俺など比較にならないほどに。そのTシャツがまたアニメの柄の『いわゆる』というものであったことも異様さを殊更際立たせていた。皆の視線を一手に集めるその男こそ、イヴァン・ニーベンだった。裕子と同い年の二九歳らしいけれど一見して十代の少年に見えた。
「なんだって! イヴァンがアニメTを? 激アツ情報じゃないか! なんのやつだ? どんなやつだった?」
「なんの? ガン、ダム? エヴァンゲリオン? シンカリオン? いや、俺はよくわかんないけど、見たことあるような感じの、たぶん……日本のロボットアニメ? そんな感じだ」
「なんだよ、おまえ! 使えないやつだな! なんのために僕の代わりに出席してるんだよ。ちゃんと情報収集してこいよ!」
「……いや、それはなんか違うだろ? そこ、そんなに重要か?」
「なに色のやつだったんだよ? どんなだった?」
「……ええっと黒ベースのTシャツに、紫色のロボットの絵が……って、伸幸、今、それどころじゃないんだって」
「それどころだよ! イヴァンはな、僕がもっとも尊敬する上から読んでも下から読んでもの、あの公文式の生みの親、公文公(くもんとおる)にも匹敵する数学のエキスパートでもあるんだぞ! わかるか? そんな大天才が日本のアニメに興味を持ってくれている。その意味、その重要性ってものを、おまえはもう少し理解しろよ!」
「……いや、どこが上から読んでも下から読んでもなんだよ? くもん、とおる? なんだ、それ?」
「漢字にしたらそうなるんだよ!」
「……なあ? なんでもいいけど、もう……切るぞ?」
「おい、ちょっと待て、大輔! 話はまだ終わってない。イヴァンは――」
