仮想通貨と自律分散型殺人事件 第5話
わかってはいた。わかってはいたのだ。けれど実際に目の当たりにすると目前の景色が色を失う。それでも冷静さをそれなりに維持できているあたり、僕はきっと異常者なのだろう。人より機械やAIに近いのかもしれない。昔からよく言われてきたことだ。
掃除用具入れの中で事切れた若者の死体は、狙いどおり、いや願いどおり、それほどまでは汚れてはいなかった。清掃員のユニフォーム姿だから多少汚れていたとしても問題はなかったのだけれど、これから互いの衣類を交換する身となると汚れていないにこしたことはない。
食後二〇分で症状のあらわれる毒。遅効性というより二〇分で死に至るなら即効性の部類に入るのだろうか。ともあれ若者は予定どおり河豚毒に犯され、想定どおり動けなくなってくれたようである。あまり苦しまずに逝ってくれていれば良いのだけれど、今となってはそれは確かめる術はない。
殊のほか綺麗な死に方だったとはいえ、食中毒による死である。もちろん少なからず嘔吐の形跡は見られる。けれど大部分はきちんと用具入れの中の流しへと済ませくれていた。最後まで僕のために迷惑をかけまいと役に立ってくれたのだろうか。ホースで水を流しては吐瀉物を始末し、ざっとあたりを片付ける。不意に十七年前のことを思い出したのは足に当たったそれがバケツだったからだろう。シンプルな銀色のそれはカナダに戻る前の日に持って帰った、あの二つのバケツに似る。あるいは無意識に現実逃避先として楽しかった幼き頃の記憶を選んでは引っ張り出してきたのかもしれない。あの頃は本当になにをしても笑うことができた。外道でも釣れれば楽しかったし、それどころ坊主のときだって笑いあえた。
あれは、あれこそが、真のDAOだったのかもしれない。誰がリーダーということなく、各々が各々にやりたいことをはじめられたし、他人がはじめたことであっても気に入るものがあれば誰でも気軽にジョインすることができた。お互いの意思を尊重し、お互いにリスペクトしあい、そうして自分が楽しむために全力で遊んでいた。誰もが能動的に。Web3.0だの、DAOだの、そんなものは新しい概念でもなんでもないのだ。むしろ懐かしむべきものなのだ。それは子ども頃には誰もが持ち、誰もは自然と経験する考え方。大人になるにつれ、なぜだか遠くなってしまう、非中央集権な様式そのものなのだから。
負けられない。負けない。
腹の底でめらめらと覚悟の炎が大きくなった。僕は忘れない。忘れたくない。あの日、みんなにもらった草河豚を。あのとき、そこにあった自由を。子どもでなくなった今も、この先も。ずっと。ずっと。そのためにきっと世界を変えてみせる。
だから僕は負けられないのだ。
そのために、たとえ育ての親のダーヴィットを敵に回そうとも。現マリナホルダーのすべてを敵に回そうとも。どれだけの犠牲を払おうとも。あらためて深く意を決し、狭い掃除用具入れの中から己に似た若者の死体を引っ張り出した僕は、個室に移って互いの衣服を交換する。アークエンジェルの三人との会食も先ほど無事に終えられた。やるべきことはすべてやれた。仕掛けられた。ポールにもレオンハルトにも時限式の毒をきっちり盛れている。微塵も怪しまれることなく、先の若者同様に食事へと毒を混ぜ込み、実に自然に振る舞うことができた。というよりも彼らこそ僕を殺そうとしているのだから向こうのほうがよっぽど不自然だったろう。会食直前にレオンハルトに鍵の情報を、極秘に、彼だけに、さりげなく伝えたのも功を奏したに違いない。直前まで秘密にした分だけ、あからさまに喜び、浮足立っていた。そう、隙だらけであったのだ。まったくもって僕の狙いどおりに。
ふうっと一つ息をつく。僕の服を着せ終わると、目前の若者はすっかり僕になっていた。まるで鑑を見ているようだ。自分の死体がそこにあるようで、なんとも奇妙な気持ちになる。実際この世界では、これからこれが僕の死体になるのだけれど。ともあれ、いつまでも干渉に浸っていることはできない。ロボットの僕はロボットらしく、すぐに次の作業に移らなければいけない。
「ありがとう。君のことは忘れないよ」
身寄りのない施設育ちの彼のことは、僕が、僕だけが、忘れずにもっていかなければいけない。絶対に。僕として死んでくれる若者を、僕の、僕だけの記憶の中に。僕だけの心の中に。最後に再び感謝と別れの気持ちを告げ、僕はそこでいよいよ生まれ変わる。第二の人生のスタートとして清掃員の姿でトイレを後にする。意図して一度も振り返らず、ヘッドフォンの音楽に乗り、酔っ払いよろしく、小躍りに踊りながら。
「――イヴァン、どうかしましたか? 大丈夫ですか? まもなくオープニングイベントの時間ですが?」
用意しておいた二つ目の、もとい今後はメインとなる携帯電話から、レオンハルトの声が鮮明に聞こえる。予定どおりである。僕は一つ下、一七階の片隅に身を潜めた。ここは監視カメラの制御など、ビルの管理全般を司る階であるらしい。雑多に電球などの消耗品やダンボールの山、パイプ椅子などが置かれた倉庫のような場所で隠れるにもってこい。もうすぐ死んだことになる身としては不用意に出歩くわけにはいかず、事前に調べておいた隠れ場所である。
「イヴァン? お腹の調子でも悪いんですか?」
僕の代わりに僕として死んだ若者のポケットには僕のこれまでの携帯電話を残してきてある。遠隔から状況確認できるよう、僕の手持ちの携帯電話と通話状態で接続して。レオンハルトの声はしっかりと拾えた。
「イヴァン? あれ、イヴァン? いますよね?」
ここまですべて順調に来ているのに何やら雲行きが怪しくなる。注意力散漫なレオンハルトに苛立ちが募る。彼は普段からこういうところがある。だからこそ偽物でも気づかないでくれるだろうと思う反面、そもそも死体を見つけられないかもしれないと言う一抹の不安が拭えない。とはいえ個室に残る死体、さすがにあれくらいは見つけてくれるだろう。僕はオープニングイベントの前にわざとらしく「トイレへ行ってくる」と言い残してきたし、そのまま戻っていないのだから。まずもってトイレをあちこち探すはずであろうし、裏で段取りをあわせておいたダーヴィットからもよくよく探せという指示が飛ぶに違いない。
「もしもし。はい。ええ、今、トイレです。ええ、はい。でも、いませんよ? いるはず? いや、いません。このタイミングだから私以外は誰もいませんし、鍵のかかってる個室もありません。ええ、そうです。はい。はい。逃げた? どうでしょう、わかりません? はい。はい。了解です。もう一九時になりますし、ひとまずそちらに戻ります」
嘘だろう。信じられないことにレオンハルトはそのままトイレを後にしていった。僕の死体を見つけぬままに。僕の代わりに発見され、僕の代わりにここで死ぬべき若者がそのまま放置されてしまう。
一体どういうことだ?
いくら不注意なレオンハルトとはいえ、僕が残してきたとおりの現場であれば、彼の偽物の死体を見つけられないはずがない。なにかが起こっている。想定外の、なにかが。僕は死体と繋いでいた電話を一度切り、それから再びかけ直した。着信音、着信バイブ。あらためてそれが鳴れば如何にレオンハルトであろうと、その所在を発見できよう。しかし、かかったと思った電話が程なくして通信不能へと変じる。もう一度かけても今度は繋がりすらしない。まるで海の底に沈んだかのように。やはり不都合ななにかが起こっているのだ。僕の予想しえない、なにかが。ふと、悪い想像が頭をよぎった。直前にすれ違った挙動不審の男の姿だ。なにかするとしたら、できるとしたら、タイミング的に、あの男しか考えられない。
死体を隠したのか?
理由は皆目見当つかない。しかしそういうこともあるのだろう、とは思えなくもない。なぜなら今回のイベントはホルダーの中でもマリナ愛が突出して強い人間を多くピックアップして招待しているから。とりわけ非中央集権や分散型組織への異常なまでの執着を持っていると思しき者を誘っている。そうしたホルダーの中にはマリナをもはや宗教のごとく信仰している者も多く、さらには創設者の僕を教祖や神と崇めている者まで存在することは僕も薄々気づいている。僕の代わりに死んだ、あの若者のように。そうなってくると、理由は不明ながらも、なにが起こっても不思議ではない。
異様な熱を醸していたあの男も、すれ違いざまにトイレに入っていた彼も、その手の類の人間なのではなかろうか。嫌な予感がむくむくと大きくなる。たまたま見つけてしまった僕と思われる死体、その死を受け入れられず、なかったことにしようとしているのかもしれない。そんなことをしても無意味だというのに死体をどこかに隠すなどして。痛恨の極みに言葉が出なかった。もしものためにとかけておいた保険、異常偏愛者らで固めた招待客リストがまさか仇となろうとは。僕は彼らの異常性を見過っていたのかもしれない。
もはや携帯電話からトイレの音は拾えなかった。状況もわからない。そのうえ僕自身、死んだ身として下手に動くこともできない。不覚だ。こんな状況は微塵も想定していなかった。あのトイレの男、これから僕の死体を、その実あの若者の死体を、どうするつもりなのか。その異常性を十二分に発揮し、よもや黒魔術的な儀式かなにかで復活させようなどと試みやしないだろうか。それであればまだよい。もっとも懸念されるのは僕の死を使ったおかしな金儲けである。死体を、骨や髪の毛を、切り売りされては溜まらない。最悪の想定があれこれと脳裏をめぐる。
……僕をキリストやなにかと勘違い……していたら?
頭蓋骨を聖杯にされ、アニメTシャツを聖骸布にでも見立てられ、信仰のシンボルにでもされては本当に溜まらない。それを拝みにくる敬虔な信者ホルダーからお布施マリナを巻き上げるような詐欺まがいのビジネスに勝手に加担させられたくない。ウルトラCとして死体から遺伝子情報が抽出されたなら。それをNFT化されでもしたらと考えるだけで身の毛がよだつ。それこそ未来永劫残るデジタルタトゥーとして、永続的に販売されてしまう。
あるいは営利目的以外にも心配されるケースはある。宗教的な、それだ。噂にはあれこれ聞いている。マリナホルダーの中には僕に心酔するあまりに僕を殺そうとしているカルト的な集団がある、と。意味がさっぱりわからないのだけれど僕を殺して本当の神にしたいのだという。陰謀論者よろしくの彼らはフリーメイソンの中のイルミナティを気取り、マリナコミュニティの中の自分たちを選ばれた人間と位置づけて裏で勝手にイガルクと称しているらしい。月の神にして至高神、なにより太陽の神マリナの天敵の名である。これまでは中二病のようなものと一笑に付してきたけれど、こうなってしまっては笑えない。そうした者がたとえば僕の死体から髪の毛を奪い、選ばれた信者だけが持てるなにかと定めたならば。特別な集団の一員である証のようなものとして。狂気じみた宗教集団は信者らの信仰を高めるために得てしてそういったことをする。ただの一個人の熱狂的なファンであればまだよい。しかし、もしも噂のイガルクが実在し、そしてあの男がその一員だったなら。
……情報がほしい。情報が。本当にトイレに死体はなかったのか?
鳥肌がおさまらない。僕がなにより恐ろしいと感じるのは、僕を殺そうというイガルクの動機が敵意からでなく、まったくの逆、その愛ゆえと察せられるから。殺したいから殺すのではない。殺さなくてはいけない。彼らはそれを使命と感じているのだ。彼らは総じて賢しく、僕の理想の非中央集権が、僕やアークエンジェルのメンバーがいなくならなければ実現されないことを悟っている。だからこそ僕の理想を実現すべく、僕を愛するあまりに、僕とアークエンジェルのメンバーを殺そうとしているのだ。なにを馬鹿げたことを、と大抵の者は思うだろう。けれどそれはまったくもって、実は、僕の考えとピタリと一致している。だからこそ僕の頭の片隅にいつもこびりついていたのだ、彼らの名が。
今にして思えば今回のリアルイベントは僕を含めた四大天使殺害の絶好の機会であろう。それも一七年の歴史あってはじめてのそれだ。次の機会がいつ訪れるかわからない。本当に、本気で、虎視眈々と、常々と、僕らの命を狙っていた集団があるとするならば、この機を逃すわけがない。計画失敗した際に情報操作し、うまく彼らに暴動を起こさせれば、その混乱に乗じて逃げられるかもしれない。そんな抑えの一手のつもりだったのだけれど完全に裏目に出てしまった。彼らはすっかり僕の予想を超え、既に行動を起こしているのかもしれない。このミートアップの場で幹部四人を殺そうと。
はたしてこれからどうしたものか。
あの男は本当にイガルクなのか。
僕の死体が偽物であることに誰か気づくだろうか。
もはや人が一人死んでいるのだ。憶測だけで迂闊には動けないし、失敗も許されない。僕はこの日本死んだこととなり、そして生まれ変わるのだ。別人となってマリナの行く末を遠くから眺めるのだ。この寿命尽きるまで。その目的を、そのエゴを、せめて叶えられなければ、身代わりで殺した彼にも申し訳が立たないというものである。薄暗い倉庫の中で天を見上げ、僕はしばし思案に耽る。
右のポケットに新しいスマートフォン。
左のポケットに特注で作った毒入りの栄養ドリンクの瓶。
この二つで今なにをすべきか。ふと、カナタに相談してみようという思いが頭を擡げた。チャットでしか話したことがない僕の数少ない友人。彼は日本人のマリナホルダーだった。この場に来ている可能性も高い。真実を話せば味方になってくれるかもしれない。暗闇に灯りが漏れないようにして僕はスマホを静かにONにする。しかしメールを打つ寸でで留まる。これは僕の考えた、僕の問題だ。友達は巻き込めない。時刻は一九時、まもなくイベントが、マリナのミートアップが始まろうとしていた。
イガルク、エスキモー系先住民族の神話に登場する月の神の名。マリナのコミュニティにおいてはしかし、特別な人間だけが身を寄せることを許された秘密集団の名である。そこでは人種や年齢による差別なく、ただただ思想によってのみ選別がかけられる。また実績によってのみ評価がくだされる。それも偉そうに権力者が評価をくだすのではなく、参加者各々が個別に評価することで、その積み上げ、その総和として、実績が認められる。とてつもなくフェアで分散された組織であろう。なにより優れていると感じるのは容姿による暗黙的な評価と完全に切り離されていること。デブだろうが眼鏡だろうが関係ない。功績をあげたものは、たとえ化物じみていようと尊敬され、正当にもてはやされる。そもそもがアバターを用いることが原則とされていて、互いの顔は固く伏せられている。あるいはミートアップで遭遇しても、誰がイガルクか、イガルクの人間同士にすらわからないように。ゆえにメンバーにはカナダ人と思われる者も、ドイツ人と思しき者も、アメリカ人も、雑多に、多様に、様々に所属している。けれども、よほど有用な人間だと、その特別性を認められない限り、入会はおろか組織の存在を知るところにすら辿り着けない。イガルクとは、いわゆるフリーメイソンにおけるイルミナティに似る組織なのだ。
俺、設楽雄介は、そこへの参加を認められている。つまりはそういうことだ。こんなところで罠に嵌められてよい人間ではない、ということ。バケツの中に残った水をシンクに捨て、金ダライよろしくのそれを流しの下へと戻す。眼鏡を外してズボンのポケットに突っ込み、上に着るシャツを脱ぐ。肌着までも。上半身裸になって、手にした服でぶち撒けたフロアの水を拭き上げる。時間がなかった。人が来たら面倒なことになる。俺が殺したと思われかねない。
「クッソ」
イガルクは秘密結社よろしく、超実践的、超実績重視の集団だ。プラスの評価あれば、もちろんマイナスの評価もくだされる。言い訳は一切許されない。すればするだけ自分の評価を貶めることになるだろう。ゆえに、まずは動くしかない。どんな状況であっても。嘆くよりも、愚痴るよりも、行動あるのみ。まずはこの場を切り抜け、状況を打開するのだ。それだけでなくこの状況を利用し、自らのプラスに転じさせるのだ。それが出来るのがイガルクで、それができないのがイガルクでないメンバーであろう。それは全イガルクの共通認識に他ならない。俺個人として言うならば、この俺をこんな目にあわせた奴をぎゃふんと言わせなければ気が済まないし、そうでなければ俺は俺をイガルクとは誇れない。そいつに実績ポイントが入ることだけは俺が俺の誇りにかけて許せない。
拭いては絞り、拭いては絞り。何度も、何度も。トイレの床にぶち撒けられた水が瞬く間に消えていく。手際よく、素早く、効率的に。つるつると滑る大理石が一層の光沢を帯びていた。最後はトイレットペーパーで拭き上げ、それをトイレに流して始末する。遠くでひと際大きな歓声があがった。イベントがはじまって一五分、いやもう二〇分は過ぎたろうか。ステージで催しでも開催されているのかもしれない。トイレに人が来ないのは幸いだ。
ひと息ついて眼鏡をかけ直せば、すぐさまそれが曇っていく。ラーメンを食べる際にもこうなるのだけれど、誰かこれを解消した新型の眼鏡でも開発してくれないものだろうか。コンタクトレンズの検討もはじめているのだけれど、ともあれ身体と言うものはまったくもって不便でしかない。早いところメタバースが主流となり、現実がサブに。映画のマトリックスよろしく肉体は生命維持カプセルへ保管される世界が訪れてほしいものだ。
視力の増した世界にぽつりぽつりと大理石に残された水滴が目につきだす。それがどんどん増えていく。新しく。よくよく見れば俺の身体から汗の粒が落ちているのであった。豪華なトイレの金縁の鏡に映る上半身裸の俺は、普段メタバースで使う小さく可愛いアバター、セドナに似せて作った人魚のそれとは似ても似つかぬ姿をしている。あれは本当に俺だろうか。腹の出た醜く巨大な体を揺らし、鼻の穴をおっぴろげ、肩で大きく息をしている、あれは。いや、違う。容姿なんて関係ないのだ。大切なのは中身、その実力である。トイレットペーパーでさっと汗を拭く。便器にぐるぐると流れいくそれを見ながら、これからどうしたものかと考える。
俺はイガルク、なんとかできるはずだ。いや、なんとかしなければいけない、俺はイガルクなのだから。とはいえ、さすがに手段を選ばぬプロフェッショナルな俺といえど、トイレの床を拭いたばかりの服をすぐさまこの身に着たくはなかった。思い立って個室に入り、イヴァン・ニーベンの服を拝借することにする。細身のイヴァンの着ていたTシャツは最初はなかなかに抵抗を見せるも、しかし次第にご主人様を変えられることをあきらめ、破れることなく伸びては俺の身を包んでくれる。さらには掃除用具入れに戻り、下から折畳式の梯子を引っ張り出しては組み立てる。
四角い点検口のうえ、天井裏に、イヴァンを隠すしかない。
ざっと見て死体を隠せる場所はそこしかなかった。俺を嵌めた、といって俺を狙い撃ちにしたわけでなく、次に掃除用具入れを開けた者に罪をかぶせようとしたのだろう輩も、実に運がない。まさかそれが反撃能力を有するこの俺となってしまおうとは。不届き者は後から死体を確認しにくるはず。イガルクとしてのポイントを得るために。あるいは既に己の実績としての投稿をしている頃かもしれない。イガルクネットに。だとすれば死体を動かし、それを虚偽として貶め、マイナス点をつけさせてやればよい。殺しの実績を奪ってやるのだ。俺を殺人犯に仕立てようとしたのだから、俺が殺人の実績を奪ったとしたって文句はなかろう。
みしみしと音を立てる強度の心許ない組み立て梯子を上り、俺は慎重に点検口の蓋をあける。次いで上半身裸の冷たく感じるイヴァンの死体を背負い、どうにか担ぎあげては天井裏へ押し込む。長身ではあるけれど瘦せ型であって助かった。最後に手を伸ばして天井裏に横たわる死体の写メを撮り、エビデンスを確保する。そのまま濡れた自分の服まで放り込み、点検口の蓋を閉めればミッションコンプリートだ。っと、そこで耐久限界から梯子が折れた。嫌な音がしたと思えば、次の瞬間、硬い地面に身体を叩きつけられ、背中や尻や顔を打つ。
どうして俺がこんな目にあうのだ!?
沸々と怒りがこみ上げてくる。すべては掃除用具入れに罠を仕掛けた顔のわからぬ輩のせいだ。倒れたままに見上げれば点検口の蓋はしっかりとしまっていた。さすがは仕事のできる俺である。後はこの場を離れるだけ。あらためて辺りを見回し、おかしなところがないことを確認する。壊れた梯子を小脇に抱え、俺は男子トイレを出る。一七階の己の居場所へ急いで戻る。トイレだと言って出てきているのだ。早く戻らねばさぼっていたと同僚に非難されかねない。
「これでイヴァン殺しは俺のポイントだぜ。ざまあみやがれ!」
「おい、聞こえているか?」
ダーヴィットのしゃがれ声がどんどん遠くなっていく。一体これはなんなのか。急に身体に痺れを感じたと思えば唐突に足の力が抜け、トイレの床に倒れ込んでいる。この僕が。天才である、メンサの、この僕が。
「なあ、レオ? どうだ?」
どうにか身体を反転させて仰向けると下卑た笑みが僕を見下ろしていた。嬉しそうに、覗き込むように。状況がまるで読めない。しかしひとつだけ確かなことがある。
「――こうなってしまっては、もうわしら二人だけでどうにか切り抜けるしかない。ここが正念場だぞ、レオ」
そう言いながら眼前の老いぼれに差し出された栄養ドリンク、それに口をつけた直後、この有様に陥っている。
メインイベントの発表のおよそ一時間前、生前のポールと最後に会話をし、三人で本格的にイヴァン捜索を開始してからと言うもの、ずっとバタバタが続いていた。その三〇分後にはポールの死の報せがあって尚さら慌ただしくなった。混乱に乗じて監視カメラの映像を確認にいくなど、有能な僕が、その有能ぶりを如何なく発揮すべく、右に左に走り回った。やってきた日本の警察の対応に加え、マリナホルダーらとの対応まで重なり、気は張り詰め、喉が渇いた。なによりこれからメインの発表を迎えるとあって、再度、気合いを入れ直すのに栄養ドリンクはちょうどよかった。だから口をつけてしまった。疑いなく。日本語のパッケージではあるけれど、いわゆるよくある市販の瓶を装われていたし、ペットボトルよりは瓶であるほうが安心感があるというのもあった。注射器で容器の外から毒を混入するのが瓶では難しいからである。けれど、それらすべての油断は偶然ではない。差し出すタイミング、かける言葉、そしてその時の表情。このダーヴィットの演技にこそ、僕は警戒心を緩めさせられたのだ。この老人は、いつからか、ずっとこの機を窺っていたに違いない。栄養ドリンクのかたちで持ち込んだ毒を、この僕に飲ませる、その瞬間を。
「やれやれ。イヴァンの読みも悪くないな。あれが言うから念のためにとこいつを持ってきておいてよかったよ」
僕を殺そうというのか。未来ある若者を。天才の僕を。メンサの僕を。先行き短い、こんな老いぼれが。腹の底から怒りが湧き上がる。しかしそれ以上の吐き気が迫り上がってきて、どうにも嘔吐が止まらない。僕のキートンのスーツが吐瀉物にまみれていく。今日のために卸した自慢のオーダーメイドスーツが。
「好き嫌いはよくないぞ、レオ? せっかくはじめての国で味わう料理なのだ。ポールのように楽しんで食べなければ。そうしていれば、とうにあの世で楽しくやれていたというものを」
イベント開始前の幹部会を兼ねた会食、そこで出された料理。どうやらそれが原因で、そこに仕込まれた毒によって、あのガタイのよい能面男は死んだらしい。おかしいと思ったのだ。いくら日本料理や日本のお茶がはじめてとはいえ、いくら鍵情報を入手して浮かれているとはいえ、いくら微量のアルコールを接種しているとはいえ、あの味は尋常と思えなかったから。どこか身体が、細胞が、受けつけないようなところがあった。
「まあ、心配するな。今飲ませた毒もあそこで接種する予定だった河豚の毒と同じものだ。河豚は日本では中毒で死ぬことで有名な魚でな? つまりおまえとポールははじめて食べた日本の魚にあたり、死んだということになるわけだ」
その言葉から悟る。この老人は最初から僕とポールを殺すために、この日本へ誘い込んだのだということを。
「ああ、知らないと思うからもう少し説明してやる。この河豚の毒は回りが早いのが特徴でな。食べてから二〇分程度で症状があらわれて死に至る。まあ、おまえに飲ませたのはそれを何倍にも濃くした毒だから口にしてすぐ、だったがな」
ふざけるな。僕はこんなところで死んでよい人間ではない。僕は人類の上位二パーセントに入る高いIQを誇るMENSAの会員なのだ。僕の損失は世界の損失に他ならない。それを、まさか、なんということを。涙で霞む視界で、それでも声のする方を、ダーヴィットを睨みつける。
「んっ、なんだ、その目は? それが本当のおまえか? いつもの気持ち悪いぐらいへりくだった態度はどうしたんだ?」
嘲るような老人の言にはらわたが煮えくりかえる。しかしやはりそれ以上に僕の体の中がどうにもならないくらいに煮えている。
「なあ、レオ? まさかと思うが、みながおまえの腹黒さや傲慢さを見抜けていないとでも思っていたか? ポールはさておき、あのイヴァンですら気づいておったというのに?」
なん……だって?
驚きに言葉を失う。脳る鷹は爪を隠す。僕はそれを地でいっていたはず。完全に隠せていたはずなのだ。僕の、この才能を、この知性を。それでも漏れ出てしまっていたというのか。余りある、この僕の、その天才性が。
「どうしようもない青二才だな。己は天才だ。己は選ばれた人間だ? わしらを如何に内心で馬鹿にしようと、それでおまえが高みに登れるわけではないさ。おまえにはイヴァンの代わりは務まらんよ。おまえは偽物で、あっちは本物の天才だからな」
反論しようにもしかし、舌が縺れる。あまりにアンフェアで一方的な侮辱だ。どうにか顔を横に倒し、喉に詰まらぬよう反吐を吐き出し、老体を睨みつける。
「まあ、しかし、おまえはそれなりに役には立ったぞ? おかげで若い層のホルダーを二倍には拡大できたからな。そういうわけで、もはや、お役御免だ。心置きなく逝ってくれ、レオよ」
僕を利用した、というのか。僕を使い捨てる、というのか。愚民どもを使う側であるはずの、天才のこの僕を。それも、おまえのような枯れた老人が。心中で必死に言い返すも、徐々にその意気すら薄れてくる。息が苦しい。息が吸えない。
「んっ? なんだ? よく聞こえんぞ? まあ、いい。そうだな、よくやった礼に、もう少し教えてやる。おまえがどうなるのかをな。おまえを襲う河豚毒の症状は、まずは口唇や舌先、指先の痺れからはじまる。そして激しい嘔吐が続き、歩くのが困難になる。今まさにこのあたりを過ぎたところか? それからまもなくして訪れる第二段階では知覚麻痺や言語障害が起こり、呼吸困難や血圧低下が発生する。第三段階で全身が完全に動かなくなり、第四段階で意識消失、そして遂には心臓が止まる。ちなみに死ぬ直前まで意識ははっきりしているそうだ。どうだ? わかったか?」
年輪のごとく首に幾重にも皺の刻まれた老人が言うとおり、瞬く間に身動きが取れなくなった。ぴくりとも。もはや自分で吐瀉物を吐き出すことすら叶わない。本当に呼吸がままならなくなってきた。ついさっき、ここまで階段を駆け下りられたということが、まったく信じられない。
「さてと、それでは……」
意識は最後まではっきりしている、というのもどうやら本当らしい。ダーヴィットが同じパッケージの新しい瓶を取り出すのが涙の向こうに薄く見える。こちらは本物の市販のものなのだろう。キャップを開け、中身を小便器に捨てている。そして空になったその口を、もはや己の意思で動かぬ僕の口にキスさせてくる。毒入りの瓶は回収し、こちらと入れ替える算段なのだろう。
「これでよし。食べ合わせ、というのかな? 栄養ドリンクとの相性がなにかしら悪かったのか、単なる時間的なものか。おまえはこれを飲み、やる気十分でメインイベントに臨もうとし、その前にトイレに寄った。そして、ここで倒れた。イヴァンの出した河豚の毒が回って。まあ、そういう筋書きだ。一八階でなく、十七階のトイレであったことは、さてどうするか? 皆に緊張を悟られまいと下の階で集中していた、とかはどうだ? 悪くないだろう?」
イヴァンと共謀して僕とポールを殺したのか。やはり、だ。この男は最初からイヴァンを裏切るつもりなどなかったのだ。身寄りなく施設で育ったイヴァンは十歳のときにその才能を見い出され、このダーヴィットに拾われたという。施設側の人間が富豪であるダーヴィットへプレゼンし、そのまま高額で買い取らせたという噂もある。引き取るなり日本やインド、ドイツと各国を共に転々とし、ダーヴィット自身の手で数学やコンピューターの英才教育を施したという噂もある。子どものいない老人が己の跡継ぎを育てるためか、はたまた己の事業に使える駒を育成するためか。理由はなんであれ、少なくとも親代わりとして、もう二十年近くを過ごしていることになる。となれば血が繋がらずとも、この老木にとって、イヴァンは子であり、孫であり、そして家族なのだ。そこをもっときちんと加味しておくべきだった。ポールも、僕も。最悪の気分だけれど、そこだけは、ダーヴィットがイヴァンを裏切っていなかったことだけは、なぜだか少しほっとした。
「ああ、そうそう。心配いらんぞ? 先にポールが待っているだけでなく、あとからイヴァンにも追いかけさせてやるからな。さて、それではそろそろいくかの。残るあいつもさっさと見つけ出し、おまえと同じようにあの世に送り届けてやらねばいかんのでな。この毒入り、実はもう一本あるんだ。失敗した時のため、としてイヴァンに準備をさせたのでな。寂しくなくて嬉しかろう? なあ、レオンハルトよ?」
痙攣する身体が戦慄でさらに震える。なんということだ。この老人は我が子同然のイヴァンをすら手にかけようというのか。共謀していると思っている相手を、親代わりとして信頼している者の心を、最後の最後に裏切るつもりなのか。もはや人間ではない。悪魔だ。この老人は欲に取り憑かれた邪悪そのものだ。ハッと、そこで思い至る。そうか、だからか。最初から本当にイヴァンを殺すつもりだったのだ。元来あいつは気の利くタイプではない。となれば間違いなくこの老人の差配だ。このダーヴィットの入れ知恵でイヴァンは僕らに手料理を振る舞ったのだ。最後に実行犯の役を押し付けるため、単純に毒を盛らせるだけでなく、ダーヴィットはあいつにそれをさせたのだ。あいつがよかれと思って、僕らをもてなそうと頑張り、それで起こってしまった悲劇的な事故、として処理するつもりなのだろう。僕やポールが、果てはイヴァン自身までが、食中毒で死んだことにする算段なのだ。自分は老人らしく少量しか食べなかったとかなんとか、そんな言い訳をして生き残りでもするつもりか。
なにもかもこの老いぼれの狙いどおりなのか……。
眼前の悪魔の思い描いた絵図がすべて見て取れた頃には、目の前はすっかり闇に閉ざされていた。直前、霞む視界にちらほら見えたのは天井の四角形、点検口の蓋だ。あれががさりと外れ落ち、この老人の頭をどうにかカチ割ってはくれまいか。もはや己では何をすることもできない。ただただダーヴィットの不幸を願うくらいしか。 いよいよもって耳も遠くなってきている。音が静寂に溶けてゆく。すべてを失する間際、なにやら小さく声が聞こえた。
「……お、おまえ、が? て、ん……つかい、か?」
「手の内をべらべらと明かして解説するのは日本では死亡フラグだって知らなかった?」
最後の最後に僕が見たのは、天への願いが届いたのか、悪魔の末路だったように思う。定かではない。しかし傍らに倒れ込んできた、汚らしい老人の顔を見た気がする。それにしてもまさかこの僕が、この天才が、こんな老いぼれと見つめ合うような形で共倒れになろうとは。もちろん不本意だ。なれど、それでも一人勝ちさせずに済んだのなら、そうでなかったよりマシである。あれだけ能書きを垂れておきながらけっきょく自らも死んでしまうなんて、ダーヴィットの奴、いい気味だ。どうせ互いに地獄に堕ちる身、となれば向こうで延々と問い詰めてやろう。観客よろしくの鬼や悪魔らに見つめられる中で、MENSAの天才であるこの僕が、この老いぼれを。今度こそ絶対に負けはしない。
