支配する親は、子どもの夢を踏み潰す
親の心が、親になるのに相応しい段階まで成長していない場合、
つまり、親の情緒が未成熟である場合、
親は子どもを、一人の人として認識することが出来ません。
一人の人として認めることが出来ない、という事は、
その親は子どもを、尊重する事が無い、という事です。
子どもを一人の人として尊重する事が無い親にとって、子どもという存在がどの様に感じられるのか、というと、
親自身の、手や足と同じだと感じているのです。
その親の感情や意思によって思いのままに動く、身体の末端であるかの様に感じている、ということです。
※ 一つ注釈を入れさせて頂きたいのですが、この記事を読んで下さる皆様の中には、上下肢を円滑に働かせる事が困難な身体状態に在る方も居られるかも知れません。
しかし論旨を展開する上で必要であるとの判断のもと、不躾ながら本記事中に於いて「思いのままに動く」という前提で、「手」「足」と記すことに寛大なるご理解を賜わりたく存じます。 ※
手は上げようと思えば上がり、足を進めようと思えば一歩前へと出ます。
手足が思った通りに動く様に、子どもも思った通りに動くべきだと情緒未成熟な親は感じています。
使えないと不便ですから、手は大切です。
歩けないと困りますから、足は大切です。
子どもも居ないと不便で困るから、大切なのです。
子どもを一人の人として尊重した上での、大切、と、
自分の手や足と同様に、大切、というのは、
言葉にすれば同じ、大切、でも中身は全く違います。
情緒が成熟していて子どもを尊重する親は、子どもの感情や意思を拾い上げます。
子どもの感情や意思を無視しません。
どんなに幼くても親とは別の、一人の人、と認めているからです。
どんなに大切でも、どんなに愛おしい存在であっても、
親と子は独立した存在同士、人と人、という認識なのです。
情緒未成熟な親は違います。
親の手足が、親の感情や意思に従って動く、従属物、であり、独立した感情や意思を持たない様に、
手足と同じ従属物である子どもも感情や意思を持ってはならないと、その親は感じています。
親自身にその自覚は露ほども有りませんが、極めて独りよがりな捉え方をしているのです。
親が、子どもという存在を尊重する事が無い親子関係は、
親が支配し子どもが従属する関係性に、どうしても陥ります。
親が情緒未成熟なのは、その親自身がかつて支配と従属の親子関係の中で育ったから、です。
親自身が尊重されずに、従属物として扱われる子ども時代を生きたのです。
結果、親の情緒は未成熟なまま成長の歩みを停めてしまいました。
歳を重ねて傍目には、ちゃんとした大人、に見えても、
世間からは、れっきとした子を持つ親、だと見られても、
心は成長の歩みを停めた時のままです。
子を持つ親となった今も尚、心は幼子のまま、なのです。
親の未熟な心は、子どもの感情や意思を尽く踏み潰します。
先に述べました様に、未熟な親にとって子どもは自分の、従属物、です。
自分に手が有る様に、
自分に足が有る様に、
自分に子どもが有ります。
一人の人として存在を尊重しないのですから、在る、のでは無く手足と同じ様に、有る、訳です。
手足が消えてしまったら困りますが、手足が感情や意思を持って、勝手に動く様になっても困ります。
手を挙げたい時に挙がるから従属物です。
歩きたければ歩を進め、停まりたければ足が停まって初めて従属物です。
感情や意思は生きる為の推進力と言えます。
推進力だからこそ従属物である子どもが感情や意思を持つことを、未成熟な親は忌み嫌うのです。
もしも子どもが推進力を手にしたら、子どもは自分として、自分の人生へと歩み出してしまいます。
子どもが、自分の人生に歩み出してしまったら、親の従属物では無くなってしまいます。
だから子どもの感情や意思を、情緒未成熟な親は尽く踏み潰します。
感情と意思は、人生を歩む為の推進力、つまり生きる為の活力です。
人は、活力があるから夢を持つことが出来ますし、夢の方向を目指すことが出来ます。
夢が叶おうと、夢のままに終わろうと、結果が重要なのでは無くて、
夢を持てる自由、其処に向かって歩む自由が有ることこそが、人生を豊かに彩るのだと私は思っています。
情緒未成熟な親の下に生まれ育つ子どもには精神的な自由がありません。
手足と同じ様に、子どもも思った通りになって然るべきだと思い込んでいる情緒未成熟な親の、顔色を窺い、感情を察知し、要求に応えなければならないのです。
親が無くては生きることが出来ない程の幼い子どもです。
親がすべてであり親こそ、その幼い子にとっては世界です。
その子はすべてを失いたくは無いし、世界にそっぽを向かれたく無いから、感情を諦め、意思を捨て、
情緒未成熟な親の従属物として生き始めます。
独りでは生きられない幼いその子が生きる為には、未熟な親の従属物という役割りを甘んじて受け容れるしか無かったのです。
夢を持つ前に、その元とも言うべき感情と意思を、徹底的に踏みつぶされることと引き換えに、その子は生き抜きました。
その子が生きた環境は過酷であり、生き抜いたその子は尊い存在です。
けれども代償は余りにも大きく、生きる為の推進力を踏み潰されたその子は、
自分という存在が遠くに感じられます。
自分の人生なのに他人事の様に感じます。
笑っていても楽しいのかどうか確信が持てません。
泣いている自分が嘘臭く感じます。
幼い頃に、感情と意思を尽く踏み潰されたからです。
夢という花が咲く訳がありません。
何故なら、いつか花を咲かす筈の感情の種、意思の芽は、とうの昔に踏み潰されてしまったから、です。
卒業の頃、周りは進路を決め目標に向かって進んでいるのに、
自分には目指したい方向がさっぱり見えて来ない、といった経験は無いでしょうか?
それはかつて、感情という種を潰されて、人生が他人事に思えてしまうからです。
会社員になって、上司から託された山の様な書類はいつも必死に仕上げるけれど、仕上げた書類がプロジェクトの中でどう活かされるのか、更にはプロジェクトの成否、などには興味が湧かない、といった事は無いでしょうか?
それもかつて、親の要求には必死で応えたけれど、意思という芽を潰されて夢や目標を持てなくなってしまったからです。
推進力を失ってしまったら、漂う様に生きてしまいます。
では、推進力を失って漂う様に生きてしまったなら、この先も漂って生きるしか無いのでしょうか?
心は、思うよりずっと強いのです。
一度は踏み潰された、
感情の種も、意思の芽も、
消えて無くなることはありません。
踏み潰した情緒未成熟な親は、
その後も種や芽には無関心で、
水の一滴も与えてはくれなかったでしょう。
ならば今、
成長して、もはや無力ではなくなった、
あなた自身が水を与えれば良いのです。
あなたが、あなたの、愛情溢れる親になって、
感情をすくい、意思を汲み取り、
水を与えて下さい。
心のことに、遅すぎる、はありません。
種と芽は息を吹き返します。
必ず、蘇生、するのです。
あなたの心は、
あなたが思うよりずっと強くて、
眩いほどに尊いのですから。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
