「抱っこして」と言えなかった子
健康的な親子関係は、子が親を慕い、親が慕う我が子を愛おしく思うところから出発します。
我が子を愛おしく思う、には、親の情緒がある程度の成熟を遂げている必要性が、どうしてもあります。
勿論、心のあり方、や、情緒の成熟度、は、人其々です。
人が10人なら10通りの心があり、
人が100人居れば、情緒の成熟度も各々100通りです。
親になったその時から、親になるに相応しい情緒の成熟を遂げている人、の方が少数派なのであり、
大半は、子育てを通じて学び、気づき、
子に教えられて、親自身が成長し、
そして本当の意味で、親になって行く、のだと思っています。
つまり親が情緒に、未成熟な部分、を残していることは決して特別なことではありません。
とは言え、健康的な親子関係は、子が親を慕い、親が慕う我が子を愛おしく思うのが出発点なのですから、
健康的な親子関係を築くには少なくとも、慕う我が子を愛おしく思う段階、までの情緒的成熟は欠くことが出来ないと思っています。
親の情緒が余りにも幼い場合その親は、子が自分を慕う姿を見て、
絶対服従の姿勢を取っている、と見誤ってしまいます。
子を、自分が好きに扱って構わない存在、だと見て取ります。
この最初の、見誤り、が、親子にとっては大問題なのです。
情緒未成熟な親自身は我が子を、
好きに扱って構わない絶対服従の存在、だと認識していることには気がつきません。
それどころかその親は自分を、愛情深い親、だと思っています。
自分は子どもを心底、愛している、と思っているのです。
どうしてそう思い込んでしまうのか、と言うと、
その親自身が、かつて情緒未成熟な親に育てられたからです。
情緒未成熟な親から、好きに扱って構わない絶対服従の存在、と見倣されて育ったからです。
親は、好きに扱いながら、これが愛だ、と声高に言います。
生まれて直ぐに好きに扱われ、生まれてからずっと、これが愛だ、と言われ続ければ、子は信じます。
信じますが、いい様に扱われ続ける親子関係に晒され、その子は傷だらけになってしまいます。
情緒は、安心、安全が有って初めて育ちます。
親から好きに扱われる親子関係には、安心も安全もありません。
あるのは不安と危険です。
その子の情緒は育ちません。
その子がやがて大人になり、親になっても、
見た目には立派な大人であり、れっきとした親であっても、
情緒は未成熟なまま、なのです。
情緒が未成熟なまま親になった人は、慕う我が子を、
自分の好きに扱って構わない絶対服従の存在、と見做します。
親が子を、好きに扱って構わない、と認識した時点で、
子は一人の人として尊重されることは無くなります。
親の道具として利用される関係性が決定づけられます。
尊重を欠く親子関係は、親の支配と子の隷属によって築かれます。
その親は子を、ガチガチに支配しながら、その意識はありません。
それどころか、自分ほど愛情深い親は居ない、と悦に入ってさえいます。
かつて支配しながら、これが愛だ、と言う親の下に育ったからです。
かつて、自分ほど愛情深い親は居ない、と悦に入る親を信じてしまったから、です。
情緒は、安心、安全に抱かれて初めて育ちます。
しかし、不安と危険に晒されて育った人の情緒は、成長の歩みを停めてしまいます。
そして親は、支配を愛だと教えます。
不安を安心と、
危険を安全だと教えます。
生まれた時からずっと、真実とは正反対を信じて生きた人が、やがて親になったなら、
自分を慕って止まない我が子の姿を、
好きに扱って構わない絶対服従の存在、と、見誤るのは必然です。
そして、かつて自分の親がそうであった様に、
愛情深い親だ、と悦に入るのです。
親の情緒が未成熟だと起こること、は多岐に渡りますし、現れ方も様々なので、一つひとつ拾い上げる事はしませんが、
一言で言うのであれば、情緒未成熟な親は、子を思いやることが出来ません。
だから、幼い我が子が自分を慕う姿に、尊さや、いじらしさ、を見つけることが出来ません。
只々何でも言う事を聞く存在を手に入れた、と感じ、好きに扱うのです。
親は自分を、愛情深い、と思い込み、
子は親を信じ込むのならば、
その親子は真実を見つけることは出来ないのでしょうか?
実際、真実を見つけることは簡単ではありません。
虐待した親は、自分が虐待している、という自覚は無い場合が殆どですし、
虐待された子は、自分は人並み以上に愛された、と話す場合が多いのです。
薬物やアルコールやギャンブルなどの依存症と同様に、
不健康な親子も互いに依存している状態です。
特に親の立場に在る者は、子どもを犠牲にして生きること、にどっぷりと浸かって生きて来たのです。
その親自身も情緒未成熟な親の犠牲になって、
自分の情緒を育てることが出来なかった訳です。
そしてやがて親になった時、我が子と出会いました。
どんな扱いをしても自分を慕って止まない絶対服従の存在、と出会いました。
親自身が情緒未成熟な親の犠牲になって傷だらけになりながら今日まで生きました。
生きれば生きる程に、傷口は痛みを放ち、もう歩けない、と思った時に、
絶対服従の存在と出会ったのです。
親は今日まで、自分なんて価値が無い、と思い込んで生きたけれど、
これからは、無価値感は絶対服従の我が子にそっくり背負わせてやれば良いのです。
「お前の為を思って…」と言いながら叱れば、
絶対服従の子は無価値感を簡単に背負います。
親は身軽になります。
それでも、明日になれば重々しい無価値感はまた情緒未成熟な親を苦しめますが、
そうしたら、「お前の為だ」と言ってなじれば、絶対服従の子はまた背負い込みます。
親はまた身軽になります。
絶対服従の子は、情緒未成熟な親のネガティブ感情のゴミ箱にされます。
倒れそうになっていた親は、自分の中から湧き出した無価値感を、
絶対服従の我が子に押し付けることに中毒になるのです。
それは正に、甘美なネガティブの報酬です。
親が子に依存して、倒れそうな自分を支えるのは分かり易いと思いますが、
子は踏みにじる親の、何に依存するのでしょうか?
それは、犠牲になれば居場所を与えられるということに、です。
幼い子どもは、親が無くては生きられません。
幼い子どもは親を慕うことで生きる建て付けになっているのです。
どんなことがあっても、どんなに傷つける親であっても、幼い子どもは親を慕って慕って、慕い抜きます。
愛されていない、と認めることは、幼い子どもにとって、生きられない、ということとイコールなのです。
だから犠牲になることと引き換えに、愛された、と思い込むのです。
親は子に無価値感、罪悪感などのネガティブを背負わせて軽くなり、
子は背負わされたネガティブの重さに苦しみますが、愛されている、と思い込むことが出来ます。
その関係性は子が生まれた時に始まり、ずっと続きます。
だから、虐待する親は自覚が無く、虐待される子は、愛された、と言うのです。
苦しむのは子どもです。
苦しみますが、
苦しむだけに、
気がつく可能性が高いのは、
子どもの方です。
生まれた時から当たり前の様に、日々続く苦しみの中に居れば、
気がつくことは容易ではありません。
容易では無くても、気がつく子どもは居ます。
苦しみが余りにも重く、大きいから、気づくのです。
気がついても、最初はおぼろげです。
ずっと、愛された、と信じ込んで、
苦しくても、それを頼りに生きて来たのですから、
苦しみの余り、気がついても、確信はありません。
「まさか」と思います。
「愛された筈だ」と気づきを打ち消します。
しかし、打ち消しても、一度気がついたら、疑いは晴れません。
「愛された筈だ」と、「犠牲になった」との間で、揺れに揺れます。
そんな時、真実を見つける方法は幾つも有ります。
一つ例を上げるなら、
幼い日、何のわだかまりも無く、
「抱っこして」と親に言えたかどうか、思い出して下さい。
抱っこされた事があるか否か、では無く、
「抱っこして」とわだかまり無く言えたかどうか、です。
情緒未成熟な親は、自分の気分や都合しか考えません。
気分が良ければ、抱っこする事もあれば、
世間体を気にして、殊更に人前で抱っこすることだってあります。
問題は、親の気分や都合に関係無く、子が感情を表現出来たか否か、です。
素直にわだかまり無く「抱っこして」と言った思い出がある人は、
おそらく親の犠牲にはなっていないと思います。
「抱っこして」と言いたかったけど我慢した人、
或いは、抱っこして欲しい、などと思ったことも言ったことも無い人は、
自分の感情を捨てて、親の顔色ばかりを気にする幼少期では無かったか、
過去を辿って紐解いてみても良いのではないか、と思うのです。
そして慕って止まない親に、抱っこをねだることすら出来ない幼い日の自分の気持ちを思いやって欲しいのです。
どれだけ寂しかったか、どんなに悲しかったか、どれ程辛かったことか、
自分が自分自身の愛情溢れる親になって、わかってあげて欲しいのです。
ついぞ与えられることの無かった愛情を思う存分注いであげて欲しいのです。
親は、子どもを犠牲にすることで、仮りそめではあっても心を軽くすることが出来ると知って、
その選択を繰り返して今日まで生きた、言わば、重度の中毒者です。
親が気づくのは、百に一つです。
生きづらさを手放そうとする局面で、
「親にも気づかせてあげたい。」
と言う人は、少なくありません。
しかし、生きづらさを手放そうとするならば、
一旦、親と子の間に、心理的境界線を引くタイミングです。
境界線を引く事、自分の感情を優先する事を許さない親だから、子どもは犠牲になったのです。
だから今、気がついたなら一旦、境界線を引きます。
親が百に一つの気づきに辿り着くか否かは、親の課題です。
親は親、子は子と、
明確に分けて、
銘々に自分と向き合うことでしか、
自分の人生を歩むことは叶いません。
決して、冷たさ、では無く、
それがこの親子関係に欠けていた、
尊重、の入り口です。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
