本当はすべてを委ねて甘えたかった
今現在、生きづらさの最中に在る人は、生まれ育った環境に、安心や安全が無かったのです。
安心とは、
自分は何をしなくても只、存在するだけで価値が有る、と感じられると言うことです。
安全とは、
失敗してどんなに窮地に陥っても最終最後、この人だけは変わらず味方で居てくれる、と思える存在が在ると言うことです。
今現在、生きづらさの最中に在る人は、
ありのままの自分であっては許されないと感じています。
何かしらの成果を上げて初めて許される様な気がしています。
失敗したなら、味方である筈の人から見放される、と感じています。
何故でしょうか?
生まれ育った環境つまり、その人が身を置いた親子関係には、
何事かを成せば受け容れられ、成さなければ拒絶される、条件付きの愛情、しか無かったのです。
条件を満たさなければ最大最高の味方である筈の、其の人の親は、
冷たく否定します。
冷酷に拒絶するのです。
首尾良く親が突き付ける条件をクリアしたなら受け容れられますが、
その受け容れは何時も、条件をクリアしたこと、に向いていて、
ありのままの其の人自身が受け容れられる訳ではありません。
だから突き付けられた条件をクリアしたなら、
ほっと胸を撫で下ろす、安堵、は感じても、
本当の意味での、安心、は得られません。
ましてや条件をクリア出来なければ、冷たい否定や拒絶に晒されることになります。
その人が身を置いた親子関係に、安心や安全は無く、
いつも其処に在ったのは、不安と危険、です。
安心・安全、は言わば、あたたかな揺り籠、です。
不安・危険、は言うなれば、冷やかな刃物、です。
どの人があたたかな揺り籠に揺られて育ったか、
どの人が冷ややかな刃物を突き付けられながら育ったのか、
は傍目には区別がつきません。
けれども両者の内面には真逆とも言える違いが有るのです。
両者を分ける、違い、は何時何処に現れると言うことでは無く、
何時も汎ゆることに、影響を及ぼします。
あたたかな揺り籠に揺られた人は心の根幹に、安心感、があり、
冷ややかな刃物を突き付けられた人は根幹に、無価値感、が巣食っているから、何時も汎ゆることが違うのです。
違いについて、一つひとつを挙げつらうことは出来ませんが、
例えば、親離れ、一つ取ってもその違いは顕著です。
幼少期に親から、肯定的に接せられ、安心・安全に包まれて育った人は、
安心・安全のあたたかな揺り籠に揺られる間に、
自分には価値が有る、という感覚が育ち、
親は何があっても決して自分を見捨てない、という根源的な安心感を得ます。
そうして、自分には価値が有る、と思えたからこそ、
自分を頼りに自分の脚で人生を歩みたい、という境地に至ります。
自分の脚で歩いて躓くことがあったとしても、親は自分を決して見捨てない、という安心感が其の人の背中を押します。
あたたかな揺り籠とは平たく言うと、甘えの願望が余すこと無く満たされる親子関係、と言い換えることが出来ます。
あたたかな揺り籠に揺られた子は、甘え、という幼児的願望の殆どを幼少期の親子関係の中で消化します。
つまり、満足する、ということです。
幼少期の親子関係に満足した子の、親離れ、は総じて早いのです。
親離れとは、自立、です。
幼少期の親子関係に満足した子は、自分の脚で、自分として立ち、自分の人生へと踏み出すことに躊躇がありません。
一方、冷ややかな刃物を突き付けられて育った子は、
親の顔色を窺い、親の感情を察知し、親の要求に応えることに死力を尽くす幼少期を過ごします。
常に自分の感情を置いてけぼりにして、親を優先させます。
甘えて当然の時期に在るにも拘らず、其の子は甘えるどころか、
情緒未成熟な親の、感情の面倒の一切を看ることになります。
甘えることを取り上げられた子は、親離れに失敗します。
即ち、自立、することが出来ないのです。
幼少期に、甘え、という幼児的願望を満足させられなかった人は、
親離れが遅い、と言うよりも、
親に心を占領されたまま生涯を終える場合すら少なくありません。
学校を卒業し、就職し、家庭を持って、傍目には自立した立派な大人に見えても、
それは社会に適応する為の、擬態、に過ぎず、
その人の内側には未消化の、甘え、の願望が幾重にも折り重なって、うず高く積み上がっています。
安心・安全の中で親に身も心も委ねて甘えることが出来ないばかりか、
親の感情の面倒まで看なくてはならなかったのです。
幼い子にとって其れは過酷な状況です。
親子の役割りが逆転しており、親子の役割り逆転は紛れも無く、
親による子への、心理的虐待、です。
心理的虐待に晒され続けた子は、甘えることを完全に取り上げられます。
仮に其の子が甘えた態度を取ることがあったとしても、
安心して親に身も心も委ねた状態には程遠く、
恐る恐る探り探りの、甘えた風、なのです。
本来ならば、甘え、を受け容れられて然るべき幼少期と言う特別な季節に、ついぞ甘えることが許されなかった子は、
幼少期の親子関係に満足することが出来ません。
不満足だからこそ、満足への渇望から親に執着します。
自立に失敗して、社会に出ることが出来ない場合も、
擬似的に社会に適応してはいても、いつも何故か虚しさに苛まれる場合も、
原因の多くは、
甘え、と言う幼児的願望の未消化、にあると言えます。
無責任だったり、無軌道だったり、問題行動を起こす人を評して世間は、
「甘やかされて育ったんだな、困ったものだ」
などと言いますが、
多くの場合、問題行動を起こす人は、甘やかされた人と言うよりも、
ついぞ本当の意味で、甘えることが許されなかった人、だと私は思っています。
甘えることが出来なかった人は、生まれた時から親の感情の面倒を看なければならない立場に立たされていて、
自分の感情には鈍感になっている為、
自分が、甘えの願望に振り回されている、などとは夢々思っていません。
自分が、親離れ、に失敗したという自覚がありません。
夢々思っていなくても、
自覚が無かったとしても、
生きているだけで苦しいならば、
何故だかわからないけれど虚しさに苛まれるならば、
一度立ち止まってみるタイミングなのかも知れません。
知ることが全て、
ではありませんが、
知ることは全ての始まり、
だと思っています。
何かを決断する時に、
親がどう思うだろうか、と、
頭を過ぎることは無いでしょうか?
それは優しさでしょうか?
それは親子の絆でしょうか?
繋がることが出来なかったから、
繋がっていると思いたいのかも知れません。
受け容れて貰えなかったから、
執着しているのかも知れません。
今、生きづらいのならば、
耳を澄ませて、
幼かったご自身の声を聞いて下さい。
「お母さんホントはね、一回だけでいいからぎゅってして欲しかったんだよ」
聞こえたなら、
今のご自身が、
愛情溢れる親になって、
幼いご自身を、
ぎゅっと抱き締めてあげて下さい。
「大好きだよ、ずっと味方だよ」
そう応えてあげて下さい。
何かがきっと、溶けて流れます。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
