苦しんだ日々の長さは、やがて愛の深さに変わる
健康的な家庭に生まれた人は、信頼や安心や、思いやり、と言った、
あたたかさに囲まれて育ちます。
だから、その人は世の中を肯定的に捉える視点を、ごく自然に身につけます。
子どもをいい様に利用する親の下に生まれ堕ちた人は、疑念や不安、搾取と言った冷たさに凍えながら育ちます。
親の否定や拒絶に晒されて育ち、その人は否定的に世の中を見る人になります。
否定的に世の中を見れば、生きづらくなるのは必然です。
健康的な家庭に生まれあたたかさに囲まれて育った人は、
親から一人の人として尊重されて育ったので、触れ合う人を尊重します。
子どもを利用する親の下に生まれ、冷たさに凍えて育った人は、
親から支配されて育ったので、
出逢う人を親に倣って支配するか、
これまで親に対してそうであった様に出逢った他者に従属するか、
何れにしても、健康的な人間関係の基礎とも言える、尊重すること、が抜け落ちていて、
支配と従属を基にした人間関係を構築します。
かたや起きる出来事を肯定的に捉え、
互いに尊重すること、を軸にして人間関係を構築し、
かたや起きる出来事を否定的に捉え、
支配と従属を軸にした人間関係を築くのですから、
両者は物理的には同じ世界を見て、
同じ世界を生きながら、
心理的には全く異なった世界を見て、
別々の世界を生きている、と言えます。
そして否定の世界に生きる人が、
自分が否定の世界に生きているということに気がつくことは簡単ではありません。
自分を取り巻く人間関係が、支配と従属の関係性であることに気がつくことは容易ではありません。
何故なら其の人は、生まれた時には否定的な親子関係に取り込まれ、
一人の人として尊重されること無く、親の支配の下で育ったからです。
その世界しか知らないのですから、気がつき様が無いのです。
しかも其の支配的な親は、この親子関係はあたたかい、と言い張ります。
お前の為を思って、と言います。
親子じゃないか、と言います。
生まれた時に始まって、ずっと永くそう言い続けます。
幼い子どもは徹底的に、無垢で無力な存在です。
親が居なくては生きられないのです。
だから子は親を慕います。
その慕って止まない親が、否定しながら愛を語れば其の子は、愛されている、と信じます。
その慕って止まない親が、支配しながら尊重していると言えば其の子は、愛されている、と信じ込みます。
生まれて直ぐ、です。
それからずっと、です。
無垢で無力な幼い其の子が容易に気がつく筈がありません。
本来ならば、無条件に受け容れられ、惜しみ無く愛情を注がれて然るべき幼少期に、
否定や拒絶に凍える様にして生きるしか無かったことは、
過酷、という言葉だけでは表せない惨たらしさを滲ませますが、
それは或る意味、始まり、に過ぎず、凍える様にして過酷な幼少期を生き抜いた先で辿り着くのは、
重々しい、生きづらさ、です。
あたたかさに育まれる環境に抱かれた人は、
起きる出来事を肯定的に捉え、
健康的な人間関係の中を軽やかに生きるのに対して、
否定や拒絶に凍える様にして生き抜いた人は、
生きれば生きる程に、歩めば歩む程に、苦しみは大きく重たくなるのです。
人生の最初に、
支配、従属の冷え冷えとした関係性を、あたたかい、と錯覚させられたからです。
搾取を愛情だと信じ込まされたから、です。
後の人生で、あたたかさ、を求めながら冷え冷えとした場所に行き着きます。
愛が欲しいのに、搾取に辿り着きます。
人生の最初に錯覚し、信じ込んだから、
生きれば生きる程に、歩めば歩む程に、
苦しみは大きく重たくなって行きます。
けれども、苦しみが大きく重たいからこそ、気がつくことが出来ます。
生きて歩むことが困難な程の苦しみだからこそ、気づき、に届きます。
永く苦しんだことは無駄ではありません。
永く苦しんだからこそ気づくことが出来たのです。
あたたかな家庭に生まれたかった、
そう思うことでしょう。
愛情深い親の下に生まれたかった、
そう思うに違いありません。
これまでの人生は何だったのか、
生きづらさを手放す誰もが、そう思います。
ひとしきり悲しんで良いのです。
怒っても、恨んでも構いません。
激情が去った後、
全てが腑に落ちます。
真実と向き合う痛みが強い程、
他人の痛みが解る人になります。
これまでの苦しみの長さは、
やがて愛の深さに変わります。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
