支配を断って一歩踏み出す時
生きづらさ、を分解してみると様々な要素が複雑に絡まり合っていますが、
大雑把に言うなら其の根本原因は、自己無価値感、だと思っています。
自己無価値感とは、自分には価値が無い、という感覚です。
どうして自己無価値感を抱えてしまうのか、というと、
生まれ育った環境では、一人の人として尊重されることが無かったからです。
生まれ育った環境とは殆どの場合、親子関係、を指します。
赤ん坊は徹底的に無力な存在としてこの世に生まれます。
自分の脚で立つことも出来なければ、言葉を話すことも出来ません。
親が無くては生きることが出来ない、無力な存在です。
親が無くては生きることが出来ないのですから、幼い子どもは親を慕い抜くことで生きる建て付けになっています。
予め親を慕う建て付けになっているのですから、幼い子どもにとって親は、すべてであり世界です。
つまり幼い子どもにとって、環境、とは、親、なのです。
すべてであり世界である親が、その子を一人の人として尊重しなかったなら、
その子は、自分には価値が無い、と思い込んでしまうのは必然です。
親に一人の人として尊重されなかった子は自己無価値感を抱えやがて、生きづらい人、になります。
親はどうして其の子を一人の人として尊重しなかったのでしょうか?
しないのでは無く、出来ないのです。
親は尊重する能力を欠いていたのです。
親もまた、かつて尊重する能力を欠いた親の下に生まれ育ちました。
だから尊重という言葉の意味を知ってはいても尊重された実体験は無く、
由って其の親は、その子を尊重することが出来ないのです。
尊重しないで親は其の子をどう扱ったのでしょうか?
支配し、利用しました。
親もまた尊重されること無く育ち、重大な生きづらさを抱えています。
つまり自己無価値感に苛まれ続けています。
無価値感はおおよそ人が、最も認め難い感情、と言うことが出来ます。
その最も認め難い感情から目を背ける為の便利な道具として、その子を利用するのです。
その子はすべてを失いたく無いし、世界を敵に回したく無いから、
親の支配に従属し利用されながら、愛されている、と信じ込みます。
無力である幼い子どもにとって親からの拒絶は、生きられないことと同義なのです。
親が重大な生きづらさを抱えていないなら、自分を慕って止まない我が子を愛おしく感じ、傷つけまいと思い、守りたい、育みたいと願います。
しかし、親が重大な生きづらさに押し潰されそうになっていたなら、自分を慕って止まない我が子を見て、
この子は裏切らない、だから何をしてもどう扱っても構わない、と感じてしまいます。
押し潰されそうになっているから、そう見誤ってしまいます
生まれてこの方、尊重、に触れたことが無く、支配と従属の関係性しか知らないから、自分を慕って止まない我が子を支配するのです。
支配と従属の親子関係に晒され続ける子は、自分の感情に構っている暇がありません。
泣きたくても親が明るく笑うことを望むなら其の子は笑顔を振り撒きます。
いち早く親の顔色を窺い、親の感情を察知し、親の要求を探知したなら、
それに応えることが、その子が生き抜く唯一の術なのです。
本来幼い子どもは泣きたくなったら泣き、はしゃぎたければ、はしゃぎます。
そうすることを許される中で、
自分の感情は受け容れられる、
自分という存在には価値が有る、
という根源的な安心感を得るに至ります。
けれども支配と従属の親子関係では、優先されるのはいつも、親の感情、です。
泣きたいのに笑顔を作るのです。
その子はいつも無理をしています。
親の子どもじみた虚栄心を満たす為に、対外的には優れた子で在ろうとします。
勉強だって、駆けっこだって、習い事だって頑張ります。
親が優れた子を求めているから頑張ります。
対外的には優れた子で在ろうとする一方で、親の地に落ちた自尊心を満足させる為に、家庭内では頼りない子どもに徹します。
出過ぎると親の地に落ちた自尊心を刺激してしまうから、いつまでも親に頼る自分を其の子は、演じる、のです。
外に出れば優れた子で、内に入れば劣った子で在りなさい、と言うのは土台無理な注文です。
けれども支配する親に一貫性はほぼ無いのです。
優先されるのはいつも親の感情なので、その子は不安定な親の感情に振り回され続けます。
親の感情に振り回された子は、外に居ても自分をニセモノの様に感じます。
家に帰っても自分を嘘臭く感じます。
演じているから、
作っているから、
ありのままの自分を封印して無理をしているから、そう感じます。
何処に居ても素の自分を受け容れられることは無いのですから、
自分には価値など無い、という感覚は生きれば生きる程に強化されます。
尊重される親子関係なのか、
支配される親子関係なのかは、
その子の其の後を左右する重要事項であると思っています。
ありのままの自分を尽く否定され、親の感情を優先する余り、自分の感情を見失ってしまう人は少なくありません。
自分の感情を見失ってしまって、重大な生きづらさを抱えて永く苦しんで尚、
自分は人並み以上に愛された、
愛してくれた親に感謝している、
と仰る方は少なくありません。
どうしてでしょうか?
先に触れました様に、
幼い子どもにとって親はすべてであり、親こそ世界だったからです。
すべてを失い、世界にそっぽを向かれたら無力な子どもは生きることが出来ません。
支配的な親に従属するしか其の人には生きる方法が無かったのです。
気づくことは簡単ではありません。
真実を見つめることには痛みも伴います。
しかし、
この重たさは何だ?
この苦しさは何だ?
と思ったなら、
それは気づきの始まりです。
真実と対峙する期は熟したのです。
幼かったあなたは生き抜く為に、
自分を捨てるしかありませんでした。
でも気づき始めたあなたは、
もう幼くも、
もう無力でもありません。
真実と向き合っても、
すべてを失うことは、
ありません。
世界に背を向けられることも、
無いのです。
対峙するあなたからすべては始まり、
向き合うあなたに世界は微笑みます。
永く苦しんだ先に、
光りを見つけ出したあなたは既に、
強く尊い存在です。
必ず一歩踏み出せます。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
