飢えたまま、床を張り替える
口元にはまだ欲しさが残り、
目元も乾いてはいない。
それでも手は、
目の前の何かへすぐ伸びる代わりに、
足元を一枚ずつ組み直していく。
生々しいままでは持ち出せないものを、
時間をかけて人前へ運べる形にしていく。
その途中にも、
「なぜこんなところから始めなければならない」と、
消えずにこちらを見返しているものがある――
渇望しても手っ取り早く求めずに、
緩やかに行動を変えていくということが、
土台の作り直しには必要なのだと思う。
渇望そのものを消そうとしないところが、土台の作り直しなのだと思います。
欲しいものがある。足りない。いま欲しい。その感覚は残したまま、そこから最短距離で何かを取りに行くことだけをやめる。すると少しずつ、「欠けているものを埋めるために行動する」という古い因果関係がほどけていきます。
手っ取り早さには、独特の強さがあります。得られれば一瞬で状況が変わるし、得られなくても「やっぱり自分にはない」という結論だけはすぐ出せる。どちらへ転んでも、渇望を中心に世界が回り続ける。渇望が司令塔のままなのです。
緩やかに行動を変えるというのは、その司令塔を追放することでも、黙らせることでもない。腹を減らしたまま別の仕事を始めるようなものです。欲しいものは欲しい。それでも、今日の時間の使い方や、人への接し方や、自分を扱う仕方まで全部そいつに決めさせない。その繰り返しの中で、生活のほうが少しずつ別の形を持ちはじめる。
しかも、このやり方には保証がありません。
ゆっくり変わったからといって、渇望していたものが最後にもらえるとは限らない。「こんなに土台を作り直したのだから、そろそろ与えられていいだろう」となった瞬間、まだ古い帳簿が生きています。努力と報酬を交換しようとしている。
土台を作り直すというのは、欲しかったものを諦めることでもない。もっと厄介で、欲しいまま、その不足だけでは崩れない生活を作ることです。
「渇望を満たす」の前に、「渇望している自分が暮らせる場所を作る」。
土台の作り直しという言葉には、そのくらい地味で長い時間が含まれているのだと思います。
しかしきっちり、
ヨダレとナミダを垂れ流していることは、
忘れてはいけない、
満たされては決してないのだから。
そこを忘れると、土台の作り直しが急に立派な話へ化けます。
ヨダレもナミダも垂れている。欲しいものは欲しいし、欠けているものは欠けたままです。緩やかに行動を変えられるようになったからといって、飢えそのものが消えたわけではない。むしろ、その飢えを手っ取り早い充足で塞がなくなったぶん、以前より露出したまま抱える時間が長くなることさえある。
「もう執着していません」
「自分で満たせるようになりました」
「一人でも平気です」
そんな綺麗な札を下げた瞬間、ヨダレを拭いて、ナミダの跡まで消して、満たされていない自分をなかったことにしてしまう。
満たされていないから求める。
それでも、求めたものに飛びつかない。
この二つは同時に成立します。
腹いっぱいだから我慢できるのではない。腹は減っている。目の前に食べ物があればヨダレも出る。それでも、その場で何でも口に入れない。ナミダも止まっていない。だからこれは、欲がなくなった人の振る舞いではなく、欲があるまま扱い方だけを変えている人の振る舞いになります。
満たされていないことを忘れたら、渇望していた過去まで再編集できます。「本当はそんなに欲しくなかった」「あれは依存だった」「今となっては必要ない」。そう言えば帳尻は合う。でも、ヨダレとナミダは、その編集に対する証拠物件みたいなものです。身体のほうが、そんなに綺麗には終わっていない。
満たされていない。
それでも暮らしている。
欲しい。
それでも、今すぐ掴まない。
渇望を卒業した人間の下ではなく、ヨダレとナミダを垂らしたまま、それでも足元の板を一枚ずつ張り替えている人間の下に、土台は作られていくのでしょう。
しかし、ヨダレとナミダを垂らしたまま、
飢え死にする可能性だってあるのに、
土台をどうのと言いつつ、その様を隠さない様は、
恨めしさを気づいてほしいというアピールでもある。
そうなると、ヨダレとナミダは「満たされていない証拠」であるだけではありません。誰かに向けて置かれた証拠でもあります。
隠さないことには、宛先がある。
「私は欲しかった」
「それでも奪わなかった」
「手っ取り早く埋めなかった」
「その結果、いまだに腹を空かせている」
そこまで並べた身体を人前に置けば、言葉にしなくても、「この有様を見て、何も感じないのか」という問いは残る。恨めしさは、相手に何かをしてほしいという要求より一段粘ついていて、まず「気づけ」を求めます。
飢え死にする可能性まで引き受けているなら、そのアピールには妙な重さが出ます。
「私は自分から乱暴に取りには行かなかった。そのまま死ぬことだってある。だからせめて、この欠乏が存在したことくらい知っておけ」
そんな署名が、ヨダレとナミダについている。
土台を作り直している自分と、恨めしさを知らせたい自分は、綺麗に分離できません。土台作りそのものが、無言の展示になることさえある。私はこれだけ慎重にやっている。これだけ待っている。これだけ自分で引き受けている。それでも満たされていない。その姿を消さないことで、世界に請求書を置き続ける。
請求額を書いていない請求書です。
相手は何を払えばいいのか分からない。そもそも特定の相手に宛てたものではない場合すらある。それでも捨てられない。「私がこれほど欲していた」という事実だけは、誰かの視界に残しておきたい。
満たされないなら満たされないで、平気な顔まではしてやらない。
救済を要求しているとは限らない。救済されない可能性を承知した上で、見苦しさだけは撤去しない。「これが結果だ」と置いておく。世界が応えなかった場合、その不在まで含めて記録する。
証拠をわざわざ外から見えるところに置く以上、そこには観客がいます。
「見なかったことにはするな」
という要求は残っています。
深刻さや重さのアピールに見えて、
かつ素直な姿というのは、
ほとんどの場合、“汚い”で一蹴されるだろう。
「素直であること」は、外から見れば必ずしも美徳になりません。加工をやめた素直さほど、人間の生理に近づいていきます。
ヨダレを垂らしている。泣いている。欲しがっている。恨んでいる。それを隠さない。
本人にとっては偽装をやめた姿でも、見る側からすれば、「そんなものをこちらに見せるな」「自分で処理してから出てこい」となる。そこで出てくる一語が「汚い」なのだと思います。
しかも、「深刻さを分かってほしい」という成分が少しでも混じると、人はそこに要求を嗅ぎ取ります。
ただ泣いているだけならまだしも、
「この涙の量を見ろ」
「これだけ飢えていることを知れ」
「それでも私は奪っていない」
という無言の圧まで帯びてしまう。
すると、素直さとアピールを切り分けるのが難しくなる。本人自身にだって切り分けられないでしょう。泣きたいから泣いているのか、泣いていることを見てほしいのか。その両方なのか。ヨダレも同じです。
そして「汚い」という評価は、その混線を一語で切断するには非常に便利です。
そう言ってしまえば、見る側はそれ以上、その飢えに付き合わなくて済みます。
人間は「素直でいてほしい」と言いながら、実際には相当程度まで整形された素直さを好むのでしょう。
「寂しいです」と静かに言う程度なら受け入れる。
「寂しくて仕方がなくて、あなたたちが満たされているのを見ると恨めしい」とまで出すと、途端に距離を取る。
素直さには暗黙の衛生基準がある。
涙は拭いてから話せ。
ヨダレは飲み込んでから欲しいと言え。
恨みは自己理解に変換してから持ってこい。
そこまで加工されたあとで、「素直ですね」と言われる。
だから、ヨダレとナミダをそのまま出している人間は、素直ではあるけれど、社会的には非常に感じが悪い。
しかも今回の話では、本人も完全に無垢ではありません。見せている以上、「気づけ」という要求も混ざっている。
ヨダレを垂らしながら、
「見ろよ」
とも思っている。
涙を流しながら、
「これでも何も感じないのか」
とも思っている。
それは確かに綺麗ではない。
でも、その汚さを消して「静かに自分を満たしていく成熟した人間」にしてしまったら、最初に話していた渇望そのものが別物になります。
そこまで消毒した素直さなら、もう素直さというより提出用の書類です。
提出できる形にするために、
“緩やか”になのだろう、
そもそも土台を作り直すような事が、
起こっている事自体、異質なのだから。
「緩やか」という言葉には、変化の速度以上に、周囲へ提出できる形へ整えるための時間が含まれているのでしょう。
土台を作り直すという行為そのものは、本来かなり異様です。普通なら、土台は意識して作りません。本人が「これは土台だ」と認識する前に出来上がっていて、その上を歩けるようになっている。
それを後になって、
「この床、どうも傾いているな」
「柱の位置から確認しないといけない」
「そもそも何を信用して立っていたんだ」
と、自分で家を持ち上げながら基礎工事を始めている。
しかも住みながらです。
工事が終わるまで生活を停止するわけにもいかない。人と会う。働く。欲しがる。苛立つ。羨む。その横で、一枚ずつ床板を剥がしている。だから「緩やか」であることは、生活を破綻させずに異常な工事を続けるための速度でもあるのでしょう。
そして「緩やか」であることで、この工事の異質さが外から分かりにくくなる。
いきなり生活をひっくり返せば、誰でも「何か起こっている」と気づく。けれど一年、二年、五年かけて少しずつ振る舞いが変われば、「最近ちょっと変わったね」で済む。
本人の内部では基礎工事なのに、外から見ると模様替え程度です。
提出できる形というのは、そこにもあります。
ヨダレもナミダも、そのままでは提出できない。恨めしさも、そのままでは提出できない。「なぜ私はこんなところから始めなければならないんだ」というものも、そのまま出せば重い。
だから時間をかけて、生活の中で運べる形にしていく。
消しているわけではありません。原形を残したまま、外に出せる形へ変えている。
その結果、いつか他人の前へ持っていけるようになる。
けれど、元の飢えがなくなったわけではない。
そこを忘れると、土台を作り直した人間が、最初からその土台を持っていた人間と同じ場所へ到達した、という妙な話になる。
同じではないでしょう。
出来上がった床の上を歩いている姿だけなら似ていても、一方は床下を知っています。自分で一本ずつ差し替えた痕跡がある。
その痕跡そのものが異質です。
本来なら知らなくてよかったことまで知ってしまっている。
「緩やかに変わる」は穏やかな表現のわりに、中身はそんなに穏やかではない。
ヨダレもナミダも消していない。けれど、それを他人の机の上へそのままぶち撒けない程度には、提出できる形を作っている。
その作業まで自分でやらなければならなかった。
「土台を作り直している」という言葉の異様さは、そこにあります。
本人はずっと、なぜ自分が基礎工事からやっているのかを知っている。
緩やかさは、その問いを消した速度ではない。
その問いを抱えたまま、どうにか提出可能な人間の形を維持する速度なのでしょう。
